床屋道話 (その25 浮気の経済)
                                                                  二言居士

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 スマートフォンの普及が著しい。電車やバスの中で、いや歩きながらだろうが会食中だろうが、いまや多くの人が画面をみつめている。パズドラとかいう竜に貴重な時間を喰われている者もいる。ラインとかに縛られて、毎日四・五時間も費やす若者も少なくないという。いっきに増え、しかし二台も三台も持つ人はふつうでないので、各社は他社から契約者を奪うことを中心戦略とした。さすがにそれはおさえようということで近頃方針転換が発表された。しかし、こうした商法の不道徳性への反省からかと思うのは世間知らずの道学先生くらいで、不毛な消耗戦にねをあげたのが最大の理由であろう。従来のしくみでは、利用者は最初に契約した会社を何年も続けず、どんどん乗り換えるほど得をする。アナログの世界では新聞でよくあった話で、中身でなく、新規契約だと多くの景品がつくというので、購読紙をとっかえひっかえする読者もいた。しかしこれは、インターネットの接続会社などデジタルの世界で特にめだっている。決まった相手に「忠誠」を尽くすと損し、浮気するほど得する、というシステムである。このようなたとえは小生のいやみではない。企業CM自体が多用しているものである。たとえば、失恋した片桐はいりに小泉今日子が「それはよかった」と言う。なんでやと思わせるが、そこで小泉が、新しい出会いのチャンスだ、と言うオチである。ひどい、とあなたは感じませんでしたか? この二人は「あまちゃん」出演者つながりであり、残念なこともよいほうに発想転換する「ポジティヴ思考」でいいじゃないか、というのが作り手の頭かもしれない。しかしまず、年下に見える(実際に三歳下の)Kyon2が上から目線でアドヴァイスするというのが(彼女のほうがルックス的にふられそうにないだけにいっそう)道学者には気に障る。無論本質的なのは、そのドライで貪欲な精神であるが。二夫にまみえぬのが貞女、などという気は(守旧派の小生と言えども)さらさらない。統計的には、男のほうがひきずり屋で女のほうがすっぱり割り切りやすく、これも「あまちゃん」でリバイバルした薬師丸ひろこの歌のように「愛した男たちを思い出に変えて」、というのは男の身勝手な願望だというのは受け入れることにしよう。それでもこうした場合、「時が解決するよ」というのがぎりぎり許容できる勧告と思う。数年前やはりパソコン関係のテレビCMで、ふられた中居正広が、いったんがっくりするが、すぐに頭を上げて当の相手に「別のコ紹介して」と返す状況に、「切り替えの速さ」をアピールするものがあった。今度のCMではいったんがっくりさせる間も与えない。それに中居君版では、この「現金な」男に若干の風刺も感じ得るが、Kyon2版ではけっこうマジでそう思っているかもしれないと疑われる。そもそも「長~く愛して、ゆっくり愛して」(この人も亡くなりましたなあ)いては「経済成長」にはつながりにくい。そうしたくてもそうさせない商品が増えていく。XPのサポート期限切れもあって、この春小生はパソコンを買い換えた。またVHS・DVDのリモコンが壊れたがもう修理できないということで新しく買ったら、続けてデッキ本体が壊れて今度はそれごと買い換えねばならなかった。それはもう一社しか作っておらず(販売もヤマダ電器などもう扱わないところもあり)、そのうち手に入らなくなるかもしれない。小生が買いにいったコジマ電器の販売員は、自分が持つ約1000本のVHDテープをDVDに少しずつダビングしていると言った。ところでDVDのディスクはVHSのテープよりも寿命が短いのである。老後の楽しみなどと大量にためてもそのときには読み取り不能になっているかもしれないことを、あなたは知っていますか?

 商品に関する「浮気」だけでなく、リアルな男女関係においても、貞節よりもアバンチュール的であるほうが経済効果があるとしたのはゾンバルトであった。彼の「解放説」は資本主義そのものの発生基盤に関しては、ヴェーバーの「禁欲説」に比べると深みに乏しかったかもしれないが、しかし消費資本主義の存立基盤に関するものとしては説得性も強いのではあるまいか(邦訳『恋愛と贅沢と資本主義』論創社)。その「浮気性」はマルクスも強調している。「ブルジョワジーは、生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、絶えず変革しないでは生きていけない。〔…〕生産の絶え間ない変革、あらゆる社会状態の絶え間ない動揺、永遠の不安定と変動とは、ブルジョワ時代を以前のいっさいの時代から区別する。あらゆる固定した、さび付いた関係は、それにともなう古く敬うべき先入見や通念とともに解体され、新しく形成された関係は、すべて化石化する暇もないうちに古臭くなる。すべて固定的なものは煙と消え、すべて聖なるものは汚され、こうして人はついに、自分の生活のリアルな状態〔…〕を、さめた目で直視することを強いられる」(『共産党宣言』)。共産主義云々は横において考えると、彼の指摘は今でも、あるいは今いっそうあてはまることも少なくない。実はマルクス自身は、こうしたブルジョワの「進歩性」を道学者的な憤慨でなくそれこそリアルにみつめ、それゆえに自らも壊さざるを得ないという論理にもっていきたいようだ。しかし21世紀の私達は、ここにこそ疎外と悪があると言うべきなのではなかろうか。「変わらなくっちゃも変わらなくっちゃ」(イチロー出演の車のテレビCM)とばかり、内発的な進歩でなく、適応せずんば生き残れないと脅されて生きる非人間性からの解放を! 元アメリカの投資銀行のディーラーだった藤巻健史氏は、「改革はスピードが命」と訴え、小泉「改革」を煽った(朝日、05年9月24日。現在は日本維新の会の国会議員)。小泉氏は「適応しないと滅びる」と社会ダーウィニズムも援用したが、「非情」を自称した彼としては、人は獣を見習うべきということか。無論古いものほどよい、古いほどよいとは言わない。日本で最古の天皇家が最も尊く、それを戴く「国柄」(以前は「国体」と言ったが今のウヨクはこう言いたがる)を最も長く保っている日本が世界で最もすばらしいというのは、単に哂うべきである。しかし変化や改革至上主義なく、場合によってはスローライフの取り戻しこそが現在の進歩ではなかろうか。

  渡辺淳一氏が亡くなった。一般的には、不倫を中心とした官能的な小説の書き手として名を知られた。(小生としては、野口英世の実像を描いた『遠い落日』が、本来医師であるこの著者ならではの力作として勧めたいのだが。)初出は日本経済新聞が多かったが、以前ある謹厳なOLが勤め先のおじ様たちについて、有能ビジネスマンぶって日経を講読するが、実は渡辺淳一の小説をいちばん楽しみにしているのがイヤだ、とのたまうのを聞いたことがある。しかしこの新聞が私達を浮気性にしているのは、文芸欄の不倫小説によってよりも、一面の経済記事によってではなかろうか。

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 2013年のNHK大河ドラマは、綾瀬はるか主演による「八重の桜」であった。2011年3月の大震災と原発事故を受けて、「福島県人を主人公に」というのが最大の意図として選ばれた題材であった。福島出身の俳優も使われた。

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 発表を聞いたときの小生の危惧は、主人公新島八重が知られているのはまず銃士としての活躍によっているので、好戦的、あるいはそこまでいかなくても武力行使の正当化に向かうドラマにならないかということであった。「女性の活躍」というのが近年の大きな主題であり、そのこと自体はもっともとは言えるが、これに悪乗りして「女でも銃を取る」ことのあおりになるおそれである。幸いそうはならず、「銃を撃った」ことへの反省が後半に現れた。これは、一つは夫となった襄のキリスト教から、もう一つは戊辰後、薩摩などかつての敵側との交わりからのものとして、しっかり描かれていた。終わりのほうでは、襄の教え子ながら帝国主義者になっていく徳富蘇峰への批判を通じて、むしろはっきり平和主義を志すものになっていた。蘇峰は戦前日本のマスコミ界における最大の戦争責任者になったことを知っている我々としては、彼への批判をいま盛り込んだ意義は多としたい。


 前半の反響としておもしろかったのは、京都守護としての会津の活躍の半面として、長州などの「志士」が「陰険なテロリストのように描かれている」ことへのとまどいや反発であった。実はこれは三谷幸喜氏の「The新鮮組!」のときにもあったことだが、これらのほうが史実であり、会津は悪玉の「朝敵」というのが討幕派による烙印なのである。そしてその汚名を雪ぐことが戊辰後の会津の大きな苦労であった。番組後半でもそのこと自体が大きく扱われていたが、この反響からは、百五十年後の今日でもまだそれが必要であったことがわかる。もう一つおもしろかった反響は、このような内容から、昔も今も福島は中央の犠牲にされてきたのだとわかった、という感想である。もっともである。概して人のいい福島県民自身はもとより、正義や公正を尊ぶ者はこのことにもっと怒ってよい。

 こうした効用があった「八重の桜」だが、この路線が続くかは疑わしい。安倍首相になって、NHKの会長と経営委員に選らばれたのはつわものぞろいである。①籾井勝人会長。就任会見での発言。a「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない。」――日本「政府が右と言った」ならそれを伝える必要はある。しかし他国が「左と言った」ならそれを伝える必要もあり、国内の反政府が「左と言った」ならそれも伝える必要がある。公共放送は政治的に中立でなければならない。イギリスの公共放送BBCは、イラク戦争で批判的な内容も報じたことで政府と対立したが、この籾井発言を「衝撃」と伝えた。政府が右と言うゆえに右であるとして伝えるなら、戦時中の大本営発表と、あるいは今の某独裁国の国営テレビと同じである。どちらかと言えば「右寄り」の某週刊誌の最新号が「籾ジョンイル」と書いていた。b同じく就任会見で、従軍慰安婦について、「紛争地域にはどこにもあった。」とし、現在もオランダでは売春が一部公認されていることなどにも言及した。――問題は従軍慰安婦が売春一般と同じでなく、強制性があり、政府や軍の関与があったことにある。強制性とは、拉致されてやだまされての場合があっただけでなく、自由にやめられず、休日に自由に外出することさえままならなかったことなどで、「性奴隷」と言われるゆえんである。フランスやオランダの国名を挙げてこれを弁護したのは、先進諸国の反発を招き、また人権に無理解と思われよう。第二次大戦中に軍や政府の関与でこれに類する制度があったのはナチス・ドイツだけであり、「どこにもあった」というのは無知か欺瞞である。c理事すべてに日付なしの辞表を提出させた。いつでも首を切れるということで、文字通りの独裁的恐怖政治である。批判されても「民間でもあること」と開き直った。しかし経済同友会の長谷川代表幹事は、「経営を監視する取締役の発言の自由を制限することになる」ので「適切でない」と批判、日本商工会議所の三村会頭も、「就任直後に辞表を出せといった例は、自分の知る限り通常の会社ではきいたことがない」と断言した。②本田勝彦経営委員。日本たばこ産業顧問。学生時代、安倍首相の家庭教師であった。③百田尚樹経営委員。大衆小説作家。a自民党総裁選で「安倍首相を求める民間人有志による緊急声明」の発起人の一人。bNHKを「国営放送」とブログで記述。念のために解説すれば、NHKはいわゆる民法とは確かに違い、受信料の徴収が法律で認められ、予算は国会の承認が必要、人事に政府が関与する「特殊法人」であるが、国営ではない。c「もし他国が日本に攻めてきたら九条教の信者を前線に送り出す」と、ブログに書き、テレビでは護憲派を「妄想平和主義者」と罵るなど、現憲法の平和主義に激しい敵意を表明。d都知事選で田母神候補を支援し、街頭演説に立つ。そこで他候補を「人間のくず」と言ったというような言葉咎めで品格を云々するのは、事柄を矮小化してしまうように小生は考える。むしろ発言内容が重大である。南京大虐殺について「そんなことはなかった」と歴史的事実を抹殺。また東京裁判について、東京大空襲や原爆投下を「ごまかすための裁判だった」と真っ向から否定し、米国を批判した。④長谷川三千子経営委員。本居宣長などを研究したというが、改憲派として政治発言もしてきた。a百田氏同様総裁選で安倍支援の発起人の一人。b女性の社会進出が出生率を低下させたとして共同参画基本法などを批判するコラムを産経新聞(1月6日)に執筆。性別役割分担を「きわめて自然」として雇用機会均等法も批判した。安倍明恵夫人もこどもがないのだが…。c記事に抗議して新聞社に乗り込み自決した右翼を賛美する文章を発表。一種の自爆テロの神がかり的礼賛である。

 このように新しく選ばれたNHKの幹部には、戦前の日本を肯定し、中・韓だけでなく米とも争って古い「日本をとりもどす」熱意の高い者が多い。2014年は豊臣秀吉の「軍師」黒田官兵衛(受けた領国筑前は麻生副首相の地元)、2015年は大日本帝国創設者たちの師である「軍学者」吉田松陰(安倍首相の地元長州の人)の妹が主人公である。

 安倍氏が官房副長官だったとき、NHKは従軍慰安婦を含む問題について現場が制作した番組を放映直前に改編することがあった。東京高裁はこれをNHKの上層部が政府の意向を「忖度(そんたく)」したものと判定した。安倍・自民の政権復帰を機に、NHKの「忖度」は更に進んだのだろうか。「錦の御旗」にまつろわぬ者を「朝敵」としてふみつぶし、その旗をいたるところに立てるべく力強く世界進出していく道が見える。



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床屋道話 (その23 「プライド」の倫理その1)

      
 近年「プライド」はおおいに語られている。「誇り」「自尊心」などの言葉も使われるが、単に最も多用されるという理由で以下「プライド」の語を使うことにする。それらはしばしばプライドを「持て」という方向性での話であり、しかして小生はそれに対して多く否定的な発言をしてきた。個人としても国などの集団としてもその強調には危うさがある、ということをちらちらと言ってきた。「ちらちら」でなくもっとつっこんで言う必要があろうが、今回は逆の方向性で書くことにしたい。つまりあらゆる意味でそんなものは「持つな」「捨てろ」という意見ではないので、「もっと持て」と言いたい局面さえあるので、今回はそちらというわけである。

 夏目漱石が博士号を辞退した話は比較的有名であろう。小生はずっとこれを誰もが「痛快な」エピソードとして喜ぶものと疑わなかった。しかしそうとも限らず、批判意見もあり得るようだ。批判者はたとえばこう言い得よう。“お前はもう学者を辞めて小説家になった。いまころ博士号でもあるまい、というのはいちおうもっともだ。もらいたいとこちらから頼んだわけじゃなし、とも言えよう。もっと言えば、物書きとして少しばかり人気の出た自分に名誉を与えるかっこうで、自分たち(政府ないし文部官僚)もまったくの野暮天じゃないよ、在野の才人を褒賞する眼力と太っ腹を持ってるという宣伝にしたいんだろう、と。そういう面もなくはないと認めよう。でもそれだけでもなかろう。出す側にある程度の評価と好意とがあることは認めてやってもいいだろう。直接出す側だけでなく、そのようにもっていったまわりの人々の世話や気持ちも考えるべきじゃないか。そういう人たちの中には、お前の生活が苦しいのを知って、博士にでもなったら少しは楽になるかと思ったかもしれない。勿論これは学位というものについても、「死ぬか生きるか維新の志士の心で」文士になったおまえについてもさっぱりわかっていないと言えよう。しかしだからと怒っていきがるのでなく、そういう人々にもわかってもらえるように辛抱強く努めるべきなのじゃないか。また博士になったからと言って読むような者にしいて自分の小説を読んでもらおうとしたくはないかもしれない。しかしそれは他の人々より自分を上においているのであり、わからぬ者はわからなくてよいというひとりよがりだ、と。”さらに考慮できるのは、漱石が国民的文豪として偉人入りしたのは戦後に過ぎないことである。生前はある種の人気作家であっても「文壇」の中ではすみっこのほうに位置しており、そもそも戦前は「作家」の社会的地位はめっぽう低かった。“勿論そうした状況自体が「不当」だったかもしれないが、現にそうである中ではそうした枠組みも使いつつ他者の善意にこたえていくのが、作家一般の地位を上げるのにも寄与するのではないか。またなるほど第一作の『吾輩は猫である』にすでに「博士」の称号が風刺的に扱われており、漱石の考えは読み取れる。にもかかわらずそれを与えれば頼みもしていない漱石が嬉しがるだろうと思うなら、まさに『猫』さえろくに読んでいないことが丸見えであり、逆にばかにするなと言いたくもなろう。それでもその制度自体は否定していないのだから、俺をわかっていないなと苦笑しつつも自分の側が太っ腹になって受け取るのもありではないか。むしろ漱石は西園寺公望首相が文士たちを招くパーティを開いたときも出ず、断りの葉書におちょくっているとも思われかねない俳句を書くなど、「権威と闘う」ということにこどもじみた陶酔を感じているのではないか。”こうした批判にあなたはどうこたえるか。同時代に身をおいたとき、とりわけ身内や仲間内など、漱石をリアルに支えたいと思っている人からすれば、彼の行為は決して「痛快な」ものではなく、よくて困ったところ、悪くすれば彼のいやなところの表れとみえたのではないか。これを読者に聞きたいのというのが、今回の文章の第一のねらいである。

 小生は稲門の出である。赤門以外は「大学」じゃない、という人もいることは承知するが、全国で知られた、一般的には名門校と言えるだろう。入学時に思ったことの一つは、しかし自分は早稲田の学生である、ということで威張るまい、ということであった。――ここから続きがちなことは、”むしろ自分が大学の名誉を傷つけないようにしよう”という心構えかもしれない。しかしそのような「謙虚な」話ではない。小生が考えたのは、”早稲田の○○”ではなく、”かの○○が出た早稲田”と言われるようにしよう、ということであったから。――以上についての注釈二つ。その一つはここで議論をさきの漱石の件と重ねたがっているのは、まさに「プライド」というより傲慢ではというあり得る批判に対してだ。問題時点の漱石は「国民的偉人」でないと断ったが、それでも大学入学時のお前と比べ物にはなるまい、お前はもう漱石気取りなのか、と言われ得よう。それへの答えは、端的に言えば、いや俺は漱石なのだ、となる。その注釈がつまり、これもまたごたいそうな議論と言われそうなのを承知の上で言えば次のようになる。十五にして学に志し云々という『論語』の言葉は誰しも知る。王陽明は言う。これは単に孔子個人の記述的言明ではなく、一般にこうありたいものだという規範的言明である(ここまではよくある解釈だ)。そしてここでかなめになるのは「志」という語であり、これは「学」だけでなく後すべてにかかると解する。すなわち三十にしては「立つ」ことを「志す」のであり、四十にしては「惑わない」ことを「志し」云々と。このような志こそ、人間において最も重要なものではあるまいか。新入生に過ぎない、新入社員に過ぎない、という意識ではどうしようもないのではないのか。入社した時点において、志においては、自分は日本のビル・ゲイツなんだ、平成の松下幸之助なんだ、と思わずに何ができようか。漱石は分身的なある登場人物に、裟翁ももうだめだぐらい言えなくちゃいけないと言わせている。シェークスピアの偉大さを彼が認めていたことは、『文学論』その他を持ち出すまでもない。しかしおそらく彼は最後まで、裟翁何するものぞの志を失わないように自分に鞭打っていたに違いないと想像する。もう一つの注釈は上からもわかろうが、入学時の小生は「この私」の「プライド」としてそう思ったのではなく、誰もが思うべきこととしてそう志したということである。そして小生は今でもそう考えている。つまりたとえば早稲田にはいる者なら誰もが、伝統ある学校に入れてもらってありがたいと思うのでなく、大隈を超え、逍遥を超えるつもりになるべきだと考えている。みなさんはそうは思わないのだろうか。このような考えは昔風のいきがったものなのだろうか。それとも「おのれ」を世間よりも上におく、独りよがりな悪しきものなのだろうか。もう一度言えば、小生は「プライド(を持つこと)」について全体的には否定的な考えなのだが、今回問題にしたことに限定していえば、人はもっとプライドを持ってしかるべきだ、と思っているのだが…

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床屋道話 (その22 「コンパクト・シティ」に反対)

人間はアリのように積み重なって生活するようにはできていない。
一箇所に集まれば集まるほど、いよいよ人間は堕落する。――ルソー

  

 小生は 毎年『経済財政白書』を読むことにしている。言うまでもなく、毎年の経済状況について政府が整理し分析したものだ。おおむね地味で退屈な本だが、ときに政治家や経済官僚の考えがみえて関心をひかれるときもある。


  昨年(2012=平成24年)のものではコンパクト・シティの提起が気になった。まだ耳慣れないと思うが、そのうちじわじわ、あるいはどっと出される可能性も少なくないと思われる。「限界集落」と呼ばれる、高齢者ばかりになった地域の出現が背景にある。従来の「過疎地」だけでなく、ニュータウンなど、首都圏・通勤圏のあちこちにも生まれつつある。近くの店などがなくなり、また駅まで15分20分だとしても坂が多かったりして車のない年寄りには難儀だ。また行政のほうからの対応にもコストがかかるというのである。そこで『白書』を書くようなお偉え方としては、むしろそうした「集落」はもう見捨て、住民たちは中心街の高層ビルに移してしまうのが人口減のこれからの日本に効率的だ、とお考えのようだ。

  一般国民、特に弱い立場の者をモノ扱いして都合よく集積しようという高慢なそろばん勘定がまずむかつかせるが、冷静に考えてもよいとは思われない。転勤を繰り返すエリートビジネスマンや高級官僚は地域との絆など屁とも思わないのだろうが、まっとうな生活者は住みなれた地域に愛着を持っている。特に高齢になってからの転居が精神的に大きな負担であることは心理学的事実だ。経済官僚の功利主義は本性上不人情だが、コンパクト・シティ論は損得勘定としても「爪で拾って箕でこぼす」ものではあるまいか。

  いまの日本の道はよすぎるほどである。もうけ主義のバス会社が撤退しても、小型のコミュニティ・バスを駅・病院・大型店舗などを回って走らせてうまくいっている自治体もある。(高速道路の高架・トンネル・橋などの補修はこれからの検討課題だが、生活道路の補修にはそれほどの額はいらない。)食料品店などは、昔の「御用聞き」のように、店のほうから車で商品を届けにくればよい。そのときあしたの注文を受けてもいいし、電話・ファックス・インターネットなど、連絡手段のほうも昔よりはるかに発達している。生協では現に行っており、準営利でも目先の利くところでは、一人暮らしや忙しい人向けに、調理した食事を宅配する商売を始めている。「限界集落」では、確かに出前するそば屋・中華屋・すし屋・ピザ屋をそれぞれ一つずつは持てまいが、ある程度多様に宅配できる店を一つ維持することは工夫できるのではあるまいか。また、隣は何をする人ぞのコンクリート・ジャングルで犯罪が多いことは社会学的事実だ。人々が知り合っている町や村よりも、ビル街での防犯対策は費用がかさむ。

  むしろ密集した人々をばらけさせる施策をとるべきである。いまの高齢者は農家出身も多いので、退職後近くに畑を借りて楽しみつつ実益も上げている者も多い。こうした人々の経験も生かして、より若い人々も呼び戻して、都市近郊の農牧業を進め、また里山を守りたい。米でも木材でも確かに輸入のほうが安いかもしれない。しかし田が荒れていないこと、森や林があることで、国土保全にどれだけの利得が生まれているかを、計算から落としていないだろうか。自給率や食の安全の面もあるが、治水や防災の面でも、一次産業の見えない効果は莫大なのである。そして国の最大の富は人なのだが、高層マンションで画像のゲームで遊んだ子と、自然や生き物と触れて育った子とでは、どんな違いが生まれるだろうか。海沿いの再開発で作った高層建築群で風を止め、都心のヒート・アイランド化を加速化して冷房付けにする、そのため電力が欲しくて原発に依存させる、なんとも愚かなエリートたちよ。いや目先の利にはあまりにもさとい、実業家たち・政治家たちよ。

  毎年「反経済白書」を構想するのが、愛国者の務めかもしれない。


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2013/06/10 10:33 2013/06/10 10:33
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床屋道話 (その21 「飛ばないボール」に賛成)


 球春である。
 ことしはプロ野球で統一球、いわゆる「飛ばないボール」採用の三年目となる。反対論もあいかわらず強いが、小生は賛成派だ。ただし賛成派の理由として最大なのは、「本場」アメリカに合わせるということだが、小生はそのためではない。もとからそのような事大主義には反対してきた(第17回「ダル、ちっちぁいぜ」参照)。

  この点ではむしろ桑田真澄氏の意見がよい。桑田氏は、統一球を対米上受け入れたうえで慣れと練習でその「弊害」を克服する、という路線はとらない。むしろそれを、①日本的「スモールベースボール」の磨き上げの好機ととらえ、また②それが野球本来の魅力を引き出すことでもあると言っている。二つとも同感だ。

「飛ばないボール」で本塁打を量産する日本選手は少ない。それゆえそこで勝つには、堅い守備で失点を最小にし、盗塁や犠打をからめて少ない好機に得点していくという戦術が必要だ。これは「スモールベースボール」と呼ばれるもので日本のお家芸であり、いままでのWBCなどでもこれで勝ってきた面が強い。だとしたらいまさら無理やり身の丈に合わぬ衣装をつけて苦しむ必要はないというのが①である。

 だがそれはつまらないという意見もある。統一球問題以前からのものだ。日本「野球」はbaseballでないゆえにだめとする形式論はおくとして、前者の「ちまちました」ところや自己犠牲的なところを嫌い、後者の「パワフル」で個をありったけ出すスタイルを称揚するものだ。それへの反論が②である。およそ「パワー」のあるものが勝つというだけなら「スポーツ」はまったく成立せず、弱い者いじめに過ぎまい。「強いものが勝つのをみたい」、「誰(どちら)が強いかを知りたい」という欲望は反道徳的であり、非難されるべきである。またそんなものをおもしろがるのは悪趣味である。趣味にも洗練があり、道徳上の意味とは違うが「よしあし」があって、よい趣味へと陶冶されることが望ましい。(スポーツファンの何割かあるいは何%かは、勝つあるいはむしろ負かす側と同一化して強さの意識を得たいだけである。)野球でいえば本塁打は大味であっけない。たまに「きれいなアーチ」や「びっくりするような場外弾」があるのはゲームに味を添えるが、ポンポンはいる試合はつまらない。本塁打は草野球でも出るものであり、ブロの試合が素人と最も違うのは守備である。重殺や捕殺を含め華麗な守備をこそ、小生はプロの野球では見たい。また野球が団体競技である以上、犠打や進塁打が場面において重要なのは当然である。小技に巧みな者や足の速い者など、むしろ多様な個性を生かすうえでも有効だ。作戦も幅広くなり、考えながらみる楽しみが倍増する。パワーヒッターばかり並べ、長打を期待するだけというのはなんとつまらぬ試合だろうか。個々の場面についても、「まっすぐ勝負に思いっきり振り切る」のが醍醐味のように言う者もいるが、いささか単純すぎないか。まして、ルール違反でもないのに、変化球でかわす投手や四球を意識して粘る打者を、まるで卑怯のように評する者もいるのはいただけない。昔Fルーズベルト米大統領は、野球が最もおもしろいスコアは八対七だと言ったという。これを紹介した日本人は自分は七対六くらいだと書いた。小生の感覚では五対三だ。どちらかが六点もとられるようでは試合がしまった感じがしない。昨年は一試合平均で約一本の本塁打が出たが、これはちょうどいい程度ではないか。

 桑田真澄氏はことしは体罰問題でも正論を吐き、かの橋下徹大阪市長もぎゃふんと言わせた。小生は実は選手としての桑田氏はあまり好きではなかったのだが、現役引退後解説者としては理論的かつわかりやすく、しゃべる人としては評価できる。
今年の野球、試合とともに、野球をめぐる文化観や世界観にも変化があるかどうかの観察を含めて、楽しむことにしたい。


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2013/03/05 10:49 2013/03/05 10:49
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床屋道話 (その20 密告の倫理)

 ことしのNHK大河ドラマ「平清盛」は出だしからあまり評判がよくなかった。画面処理の新手法への違和感などもあったようだが、もともと主人公に悪人イメージがあるのも要因という。確かに独裁者ではあるが、(信長や秀吉のような)「人気ある」独裁者も少なくない。平清盛にはしかし陰険さが感じられるためかもしれない。彼の「イメージ」をつくった最大のものは『平家物語』であるが、その中の「禿童(かぶろ)」のくだりなどは端的な例と言えよう。例の“平家にあらずんば人にあらず”もこの箇所に出る。それによれば清盛のはかりごととして、十四、五、六歳のこどもを三百人選んで、髪を短く切って赤い直垂を着せて都を廻らせた。そして平家を悪く言う者がいるとその家に乱入して財産は没収し本人は逮捕する。役人も見ないふりをし、批判を口にする者はいなくなったという。こどもを使った監視は文化大革命を思わせる。大河ドラマでもさすがにこれは少なくとも「やりすぎ」たものとして批判的に演出された。清盛(松山ケンイチ)の右腕的存在であった「兎丸」(加藤浩次)が犠牲になり、清盛も反省したかたちがとられた。権力者が自らの支配を保つための、スパイや密告の仕組みに対して民衆が反感を持つのは当然であろう。

 前々回に小生がとりあげたいじめの告発はこれとは異なる。構成員の権利を守ることを務めとしている権力(者)に対してその執行を求めるものである。これを非難するのは、被害者をさらに攻撃するものである。しかし両者がしばしば混同されるのには、二つの理由が考えられよう。第一は前々回でもとりあげた自力救済を優先させる思想、あるいは「力への信仰」思想。「道理」(right)よりも「力」(might)というのは、私達がまずもって、そしていたるところでまたあらゆる機会に闘ってつぶしていかなければならない悪の思想である。第二は、日本ないし東洋に特殊的な理由であると思われるが、「権力」の「正当性(正統性、legitimacy)」という思想の乏しさである。西洋では「権力(者)」は単なる「実力(者)」ではなく、その力の行使において正当性を有するもの(者)のことである。この区別がない場合の態度は次のどちらかになる。一つは長いものには巻かれろという奴隷根性であり、その正当性の有無などを事挙げして逆らうのは現実をみないばか者とみなすものである。もう一つは強者に逆らうのがかっこいいといういきがりであり、したがっていじめに自力でやり返すべきで告発するのは卑怯な弱虫とみなすものである。

 この第二の「日本的」因習は悪い意味での「ムラ社会」と結びついており、学校だけでなく、企業や警察や「自衛」隊や原発業界などでのいじめにつきものと言えるほどである。その克服には内部告発も当然の権利であり(卑怯なチクリや「敵」を利する裏切りどころか)社会的責務でさえあるという認識が広がり、実行が保証されることが必要である。オーナー側の巨額の損失隠しのための不適切な会計処理が明るみに出た「オリンパス」で、内部告発した社員浜田正晴氏は、いじめとして畑違いの部署に異動された。浜田氏は上司の執行役員と会社を提訴し、異動を無効とする判決を勝ち取った。いままではこういうとき、負けた会社側が金を払った上で「円満退社」にするのが定番であったが、浜田氏は会社に残っていることも注目すべきである。しかし金目的でなく、自分の組織をよくしたいがために敢て裁判に訴えもしたのであるから、これが本当と言うべきなのである。その浜田氏に、だが裁判で負けた会社はまだいじめを続けている。「注目すべき」と言ったが、残念ながらこうした事柄をマスコミは十分報道していない。オリンパス不祥事関係では元社長のイギリス人ウッドフォード氏の言動を少し伝える程度であり、浜田氏の件が今後の日本社会に大きな意味を持ち得ることが把握されていない。(イギリスで映画化の噂。)

 日本では内部告発の意義はようやく認知されだした段階であり、法的保護も一般の意識もまだまだである。イギリスでは「公益通報制度」としてずっと進んでいる。我が国では、かなり明瞭な違法行為で、しかも自分で裏づけがとれないと踏み切れない。イギリスでは「まずいんじゃないか」という疑問でも提起すること自体は、事情を知ったり危険を感じたりした者として自然のことととらえられるようになってきたという。
権利が大切にされ、「権力」とはそのためにあるというようにしたいものである。

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 床屋道話 (その19 北朝鮮化を進む日本)


 偉大な領袖の下、強勢大国の門を開いた北朝鮮は、世界人民の導き手となっている。遅ればせながらわが日本も、その後を追うべくいよいよはっきりさせてきており、慶賀にたえない。

「決断できない政治」よさらばである。この点において我が国で最もかの国の指導者に近いのは、橋下徹大阪市長である。「今の政治に最も必要なのは独裁」という彼の勇気ある発言こそ、真実のかなめである。戦後の日本はGHQに洗脳されて、デモクラシーだリベラリズムだへちまだと空騒ぎしていたが、だんだん夢から覚めて独裁に近づいてきた。(韓国が少しずつ逆の道をたどっているのは残念だが。)橋下氏が言うように「無駄なものは議会」である。彼も府議会や市議会をいっきに廃止はしていないが、形骸化を進めてその準備をしている。すなわち改革会議とかなんとか直属の機関をつくり、そこに応援団の知名人(たとえば堺屋太一氏)や側近を送り込んで、実質的な決定を行うようにしている。議会の次に無駄なのが抵抗する公務員である。職員は橋下氏の顔色をうかがって忠実に仕事をすればいいのである。ところが中には自分の政治的意見などを持って、橋下氏の対立候補を支援するようなとんでもないのがいる。公務員はすべからくロボットであるべきであり、政治活動(選挙運動や政治集会への参加などだけでなく政治性のある演劇なども含む)に刑事罰を科す条例を提案したが、バカ中央官僚がそれは憲法違反だと邪魔にはいった。やむを得ずさしあたりそういうやつは首ということで我慢したが、「維新の会」が中央政界で力を得れば(その可能性はいまや大きいが)、他の自治体や国家公務員にも広がり、ひいてはGHQ製の亡国「人権」憲法の破棄にもつながろう。スピーディな橋下戦略は、しかし長期戦略も欠けていない。すなわち教育改革である。競争を強め、仲間との信頼や協力などを信じない人間をつくること。大事なのは上に立つ者と国家の命令への忠誠であること。生徒や教員を監視し処罰するだけでは足りない。政治から独立した「行政委員会」という名目で逆らうバカ教育委員会とたたかい、独裁者が直接教育目標をたてられるように変えた。
 
 この橋下氏がこのごろの野田首相を絶賛した。自民・公明と談合してついに消費増税を決めた。人民は飢えても権力者が肥え太ればいいのである。自公民はそれを知っている。ただバカな大衆はわからないヤツもいるので、財政破綻と脅かし、大衆増税以外の道はないと思わせることにしている。竹下内閣で導入し、村山内閣で増額して、増えた税収の分、福祉も年金にも行かず、ほぼ同じくらい法人税が引き下げられており、大金持ちの所得税も下がっていることなどは知らせないことだ。この成功はやはり独裁化のたまものだ。我が国では小細工が必要なので、分身の術を使い、ロッキードのときの新自由クラブ、佐川のときの日本新党などをつくって複数の選択肢から国民が選んでいるかにみせていた。自民と民主の違いはカレーライスとライスカレー、鳩山邦夫と鳩山由紀夫の違いでしかないのだが。それでもこの見えざる翼賛会に歯向かう奴もいるので、これをさらに減らすのが次の重要課題だ。すなわちこうした少数派の議員が選ばれやすい比例定数を減らすことであり、これは「身を削る」と称すれば、消費増税と同様マスコミも援護するだろう。

 そして何より大切なのは核開発だ。原子力基本法改定で、原発も「安全保障」目的が認められた。JAXAの改革でも宇宙開発の「平和利用」というかせがなくなったので、いまや我が国も核兵器の保有に進みつつある。石原都知事が以前から主張しているように、核兵器に転用できるからこそ日本は原発を推進すべきなのである。はじめ大げさに反対していた橋下氏が再稼動を認める方針に転じたのは、はじめから脱「脱原発」を大きな目的として菅内閣にかわった野田内閣に大きな励みとなった。自虐的な姿勢で近隣諸国との「友好」を贖うのでなく、むしろ外からの「危機」をうまく利用して、時には「瀬戸際」に立つこともおそれず、軍拡を続けるべきである。マイナンバー制も準備が進んでいる。国民ももっと監視カメラをつけてほしい、という声が多い。独裁体制は一人ひとりをすみずみまで監視し・管理してこそうまくいく。ロケットからコンピュータまで、トップクラスの技術力を持つ我が国はまた、その社会的目的は自分では考えないオタクテクニシャンの家元でもある。北朝鮮に追いつき追い越す日は近い。


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平壌、ヘルス・センター蒼光院内の床屋↑





 

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床屋道話 (その18 自力救済思想を憂える)

 

 

 テレビドラマがふるわない中で、『家政婦のミタ』は近来稀な高視聴率を得た。「家族の再生」という、ホームドラマとしては定番の主題だが、謎の過去と超人的能力を持つ家政婦を松嶋菜々子が「怪演」して評判となり、子役たちの活躍ももりあげた。

ミタさんが無茶な頼みでも「承知しました」と実行するので、小学校でいじめられていた次男が相手をやっつけることを彼女に依頼する。彼女はマジで相手のガキどもを実力で叩きのめそうとするが、さすがに最後は次男がやめさせ、彼が自分で立ち向かっていい勝負という程度にはいく。反省した次男に彼女は「よくやったと私は思います」とこたえる。しかしこれでいいのだろうか。勿論金で雇われた家政婦にいじめっ子をやっつけてもらうなんてのは論外である。だがこのドラマでは、自力で解決するのが立派なことであり他人(特に力や権威をもつ親や教師)に頼るのは情けないこと、あるいは卑怯なことという含意がみられた。というよりこれはかなり一般にもある観念と思われるが、本当にそうのだろうか。このドラマでは母は亡くなり父も教師(相武紗季)も頼りにならないという設定なので、視聴者は流れを受け入れてしまいがちだが、頼れるかどうかと訴えることの正当性とは別問題である。

ちょうど、『トマス・ブラウンの学校生活』というイギリス小説を読んだ(研究社新訳注叢書、1957)。18世紀のパブリックスクールが舞台になっており、英国版「学園もの」の古典である。モデルは名門ラグビー校であり、卒業生である著者の実体験が生かされている。イギリスのパブリックスクールは教育学的に有名であり、お手本として持ち上げる論者も(小生ははじめからそうは思わなかったが)日本にもことかかない。ところでこの小説をみても、英国のスポーツマンシップとジェントルマンシップを養成するという名門校でもいじめがあることがわかる。ところで解説者(桜庭信之)は言う。「告口を固く禁じている。〔…〕どんなにいじめられても、歯を食いしばって我慢する。それを教師や寮母に密告したものは排斥され、むち打ちの刑を受けることもある」(205頁)。解説者はこれをすばらしいことと思って書いているようだ。とんでもないことである。それなら教師や寮母は何のためにいるのか。

密告を絶対悪のように言うものもいるが、小生は異論を持つ。というよりこれはそんなに簡単に決められない難しさを持つので、「密告」は別の機会に論じることにしてここでは考えからはずすことにしたい。いじめを親や教師に訴えることが悪いかどうかを問いたい。とんでもない、というのが小生の立場である。

自分の欲のために、権力者や実力者の威を借りて競争相手を陥れるようなことは、確かに卑劣である。しかし不正や暴力を受けたときには、まず自分で相手に抗議できるときはすべきだが、できないときや、しても効果がなかったときは、公権力に訴えて、裁きを、自己の救済と相手の処罰を求めることは、正当であり、なかば義務でさえある。それを卑怯とすることは、強さが支配するという論理に従えという洗脳であり、強者が精神的にも支配しようとするための憎むべき思想的攻撃である。こうした考えや宣伝は、現れるたびに徹底してたたきつぶさなければならない。

弱者の権利を守るためにこそ法があり、公権力があるということを、こどものうちから十分に教えるべきである。不正や暴力に対しては、(「男らしく」という性差別をしばしば伴って)「やりかえせ」でも「たえろ」でもなく、それに対処すべき人たちに対しては勿論、みんなにそれを訴えろ、と教えるべきである。そうすると中には、(時には加害者を含めて)卑怯者とかそしる奴も現れるかもしれないが、そうではない、自分のやりかたこそ正しく、みんな行うべきことなのだ、そしる人間は、加害者に加担することになるのだから、すぐやめて自分の味方をしなければ悪を行ってしまう、ととがめるべきなのだ、この(言論上思想上の)たたかいこそ勇気をふりしぼってたたかえ、と教えるべきである。


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2012/06/08 15:34 2012/06/08 15:34
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床屋道話 (その17 ダル、ちっちぁいぜ)


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 ことしもダルヴィッシュや岩隈など、プロ野球の大物たちが米大リーグに移籍した。喜んだり活躍を期待したりしているファンは多いが、小生は嬉しくない。ダルの会見を聞けばそれなりの言い分があるようで、他の移籍組にも個々の事情や思いはあろう。この文章は特定の選手への批判や不満を言うものでなく(題ではダルの名を使わせてもらってしまったが)、しかし一般論としてメジャー熱に反対するものである。

 WBCなどで明らかなように、日本の野球が世界一ないしその水準にあることは今日では明らかである。「本場」に行って実力を試したい、という理屈は成り立つまい。いつまでメジャーへの「憧れ」にとらわれているのだろう。「向こう」で活躍すれば「箔がつく」という事大主義を、引きずっているのだろう。まさか金のためだけではあるまいが。

 むしろ小生は期待したい。主に日本で活躍することによって(、無論WBCや――残念ながら五輪はなくなったが――他の交流試合で力を見せつけつつも)、他国の選手に、日本に移籍してこいつと戦いたい、と思わせる選手の出現を。外国ファンに、日本に来てその最高の試合を見たい、と思わせようとする気概を。そういうかたちで日本の野球こそ世界一だと誰にも思わせる(実力ではかなりそうだと小生は思うがアメリカ人の大部分は思っていまい)ようにすることこそが、本当に大きな夢ではないか。

 他をお手本として「追いつき、追い越し」て「いちばんだ」などというのはもう駄目だ。独自なものの力で、他からも憧れられたり目指されたりするのが、喜ばしいことだ。いくつかの分野では既にある。アキバに行けばメイドカフェめあてに来た外人も多い。そんなもんと顔をしかめる御仁もあろうが(小生はそうばかにしたものではないと考えている)、それをくさす暇があるなら、これこそ価値あると自分が思う分野で、広く高い評価を受ける成果を出すべく努めるがよかろう。







 

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2012/03/03 21:59 2012/03/03 21:59
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 床屋道話 (その16 年賀状の倫理)


 吾輩は年賀状である。年に一度の吾輩の季節だ。がどうも近頃あまり振るわない。同時期のクリスマスは、バブル期のバカ騒ぎこそ見られなくなったが、各種イベントはさかんな限りだが。キリスト教徒でもないのにべらぼうなことだと思うがねたみと言われそうだ。それでもこの前近所のガキが教会の飾り付けを見て「教会でもクリスマスやるんだねえ」と言ったときにはがくっときた。前の月にはハロウィンとかいうさらにわけのわからねえ行事まで付き合う暇な御仁も増えてきたようだ。どてかぼちゃめらが。七夕などは衰えていないところをみると、単に西洋物におされた結果とも決められない。

従来から吾輩に向けられた批判は「虚礼」だというものだ。実用主義が強まる昨今の風潮は確かに吾輩に厳しい。そこで自己弁明をしたいのだが、「礼」が大切だという説教を天下り的に垂れるつもりはない。ここで言いたいのはむしろ「無用の用」の観点だ。

賀状は確かに用があって出すものではない。本当に世話になった相手に心から感謝を表す場合もあろうが、それなら年始に他といっしょくたでなくてそのときに別個に表すのが本当だ、というのは屁理屈気味ではあるが筋論でもある。ということは逆に賀状を出す意味は消極的に、自分が相手に少なくとも敵意や嫌悪は持っておらず、さしあたり今年一年もかかわりをこちらから断つ気持ちまではない、というしるしだと言えるのではないだろうか。消極的というより因循姑息だと嫌う人もいるかもしれない。しかしそうではない。むしろ大事なことだと吾輩は訴えたい。より早くより厚く返礼しなければならぬものではないだけに、半ばは礼儀の意識からと言える。また半ばはこの「顔つなぎ」がひょっとしたら役立つこともあるかもしれないという下心もある。徳義と実益とのあいまいな混じり物でいいのではないか。だから熱い「正心誠意」でない正月気分の文面でよく、かといって必要ないから出さないという冷たい実用主義でもない、適度なぬるさでよいのだ。

ことしは震災などもあって「絆」が見直されているという。その中で、家族や親友のような強い絆のかけがえなさは言うまでもない。他方でケータイにいちおう登録してあり、必要なら使うがそうでなければいつでも「削除」できるようなのは「絆」というより「情報」であろうが、ないよりは多く持つほうがいいとは言えるだろう。「賀状を出すだけの中」はいわばその中間の「ゆるい絆」であろうが、逆に今日その大切さは強調してよいのではないか。

印刷だけの賀状でもいいと吾輩は考える。そんなのだったら出さないほうが潔いという人もいるが、出すこと自体に意味がある「虚礼」として、変にまじめに理屈づけなくてもいいと思う。ヤな奴と思われるかもしれないが、正直にうちあけよう。賀状をくれる人、返書は出す者、それさえない奴を、吾輩は毎年記録しており、その人に対する判断にかなり大きく影響する、と。

正直ついでに嬉しくない賀状も記そう。まず当人しか知り合いでないのに、家族の写真をつけてくるもの。イケメンの夫やかわいい赤ん坊を見せたくなる気持ちはわからぬでもないが、世の中には結婚できないことやこどもに恵まれないことを苦にしている人もいることを、やはり気にしてほしい。ここでもひがみと言われるかもしれないが、幸せ自慢のどや顔がちらつくような葉書は、それ自体新年から苦い思いをさせられる。家族の現状を言葉で知らせてくれるのはむしろ望ましいが、「家族」の一員として犬や猫まで記載するのはやめてほしい。これも当人にはかけがえのない同居者ではあるのだろうが、他人にまでその公認を求めると、それも「家族」なのかよ、と毒づきたくなってしまう。最後に電子メールによる賀状。この理由はいろいろあるが、いままで言ってきたこととの関連で一つだけ記そう。たぶんメールを使うことの長所は、手数的にも料金的にもより省けることにある。それはまさにあまりに合理主義的で、「虚礼」としての賀状の意味をなさないと感じさせる。事務連絡かよ、と思ってしまうのだ。つまり毎年判で捺したような「謹賀新年」だけでもよい、わざわざそれを郵便物という形で手間をかけて出すというところに意味があると考えるからである。

ぬるくてゆるい賀状(勿論おもろいのや嬉しい便りも)、待ってます。




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2011/12/10 11:58 2011/12/10 11:58
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  1. moris 2012/01/07 21:33  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    遅くなりましたが、ルソー本、ありがとうございました。イデーも届きました。
    ルソーの本は会社の金総宰(社会部長)さんが是非読ませてほしいと言うので貸してますが、ブログでの本の紹介は近日中に行う予定です。←画像は撮っておきましたので・・・




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   床屋道話 (その15 生き物はなぜ死ぬのか)

 

 

 おもしろい論文を読んだので、今回はその紹介をしたい(大橋・前川・上野・本田「利他的遺伝子、その優越とは」『科学』2001年1月号(81-1)、岩波書店)。おもしろいというのは、まず、生物はなぜ死ぬのかということが一つの「問題」であることを気づかされたということであり、もう一つは、その問題に対する説得的な「答え」を知らされたということである。

生物が死ぬのは当然と小生は思い込んでいた。しいて問われれば「無生物は死なない」と答えたろうが、考えてみれば「無生物は死なない」ということから「生物は必ず死ぬ」ということは必然的に出てこない。こどもが「人はなぜ死ぬの?」と言うような場面で、その問いを発する感情的理由はわかっても、それは論理的な答えのない問いであるということに気づかぬのが幼さだと思っていたが、うかつなことであった。

 この論文はその問いに科学的に立ち向かっている。そのためには、不死の不都合さを示さなければならない。逆に言えば死の有利さを示さなければならない。またそれがたまたまでなく一般的に妥当すると言えるためには、外的要因(病原体の侵入なども含む)による偶然的な死ではなく、生物が内的に死すべきものであるとしたうえで、そのことの優越が示されなければならない。ところで死は死ぬ個体にとっては有利ではあり得ないから、それは種にとってである。(またこの論文では断っていないが、親が子のために死ぬような個体が死んでも同じ遺伝子に有利であるのは「利己的」とされるので、ここで問題なのは非利己的な死である。)個体の死が種にとって有利になるのは、その個体の死すなわち解体が、他の生命が再利用するのに最適な部分への解体として生態系の原状回復に寄与するときであろうと筆者は想定する。

 そして筆者は、生物が定義上持つ自己増殖機能のほかに、このような自律的死を遺伝的に組み込まれた仕組みを想定する。機能の想定だけでなく、この仕組みの担い手として、多様な加水分解酵素を集積し、生体高分子を、あらゆる生命にただちに再利用できるアミノ酸などの単量体にするリソソームを見立てた。さらに筆者は、原生動物テトラヒメナを材料に実験し、自己が環境不適合に陥った際、他の生命が最も効率的に再利用できる部品へと自己解体するとともに生息空間を明け渡すという自律的死の仕組みが、実在する可能性を裏付けた。

しかしここで問われるのが、この「究極的に利他的な仕組みを搭載することは重大な生物的不利益にほかならず、淘汰されてしまうのが当然ではないだろうか」という疑問である。これを筆者はコンピューター・シミュレーションで考察する。不死の人工生命(フォン=ノイマンのオートマン)とこの自己解体する人工生命を、物質とエネルギーが均等な環境で増殖させると、当然ながら後者は前者にたちまち圧倒され絶滅する。しかしこれらが有限不均質な(地球と同じ)環境で実験すると、はじめ勢いのある不死の生命は、生存可能な領域を埋め尽くすと頭打ちなる。逆に死ぬ生命のほうは尻上がりに拡大する。これは自己複製の中で突然変異がさかんに起こり、はじめは増殖できなかった環境に進出できるようになったためと筆者はとらえる。さらに、死ぬ生命のうち、解体して環境に戻すものが生体単量体、有機分子、無機分子と、利他性の程度が異なる三種で実験すると、利他性の高いものほど子孫が繁栄するという結果が得られた。これらの実験から筆者は次のような説を提示する。①利他的な死を行う生物も地球環境において生存できる。②むしろ利他的な死を行える生物ほど繁栄できる。③はじめの生命には自立的な死は遺伝的にプログラミングされていなかったが、それを「洗練された優雅な生存戦略」として組み込んだ生命が進化的に成功し、不死の生命は敗者としてもはや地球で存在しなくなった。

――これらは驚きであるとともに感動的な事柄ではなかろうか。

これは生命観全体に重大な反省をもたらす研究である。以下筆者の言葉を写す。

この過程が、攻撃的な捕食への進化に依存せず、利他的死という『洗練された優雅な生存戦略』によって実現したことは注目に値する。それは、『強者だけが優劣を決定する』として、ひたすら攻撃力の強化を図る生存戦略の誤謬を告げてやまない
」(90頁)。

この新たな生命観は、私達に何を教訓するであろうか。筆者は直接には、「近現代科学技術文明の先端で激化している『人類の不老不死化指向』は、地球生命が辿ってきたこの重要で本質的な進化的洗練の方向に逆行していることに注意を喚起」している。

小生がここで尻馬にのって言いたいのは、「利己的」であることをもって生物学的真理であるかのような言説の誤りが、これでもわかるということである。いまだに利己的な「弱肉強食」や「自然淘汰」を信奉している者がいるが、それは生物学界においてかなり乗り越えられており、むしろある人々に都合のよいイデオロギーであることが熟知されなければならない。

(科学的真理とは無関係な)あるイデオロギーが強い力を持つには、それがマスコミその他で繰り返し説かれるからではあるが、それだけではない。人々の実生活の中にそれと適合的な事態があるからでもある。逆に言えば、攻撃的で利己的な戦略は種の(人類全体の)滅亡をまねくと一般論として頭では理解しても、そのことでおのずから各人が自分の「戦略」として利己心を減らすということはあまり期待できない。ではどうしたらよいか。

この論文の筆者の一人は、別の論文でも興味深い考察を行っている。すなわち生物の脳の高次な領域では個体自己中心のシステムを超えた利他性があり、それを組み込んだ生命に優越性がある。ところで特に進化した霊長類や人類に限って、利他的快感の通路としてドーパミンなどを発生する神経細胞上には、その分泌を自動的にとめる仕組みをつくる遺伝子が発現しないことがわかった。「人間にとって利他の誘惑と快感がいかに激しくいかに甘美であるか」の秘密がここにあり「人類にとって誇るべき進化の精華」を彼はここにみる(大橋力「脳の中の有限と無限、第20回」同誌)。そうなのだ。利己性が本能でよほど努力しなけりゃ利他的になれないと思いがちだが、実はそれは現在の我々の社会の疎外による転倒した意識なのだ。自然は利他の甘美さを告げる(震災地でボランティアした者などは味わったかもしれぬ)が、「理性的」「現実的」と称する小ざかしさが、この自然の声を聞かせないように我々の耳をふさいでいるのだ。

「洗練された優雅な生存戦略」である利他性の理性的な理解とともに、その甘美さを実感する経験の回復が必要であろう。他者を攻撃し捕食することによって自らの個体の生存の生存を図る野暮な戦略は自然の掟ではなく、自然を圧殺する罠なのである。




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共感の思想史

仲島 陽一【著】
創風社 (2006/12/15 出版)

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ISBN: 9784883521227
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両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス) 
フランソワ・プーラン ド・ラ・バール (著), Francois Poulain de la Barre (原著), 古茂田 宏 (翻訳), 佐々木 能章 (翻訳), 仲島 陽一 (翻訳), 今野 佳代子 (翻訳), 佐藤 和夫 (翻訳)

(単行本 - 1997/7)





2011/09/05 14:33 2011/09/05 14:33
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床屋道話 (その
14 震災と都知事)

 

 

 石原慎太郎東京都知事は、東日本大震災について、「我欲」に対する「天罰」であると発言した。論理的に言えば、今回の被害者が他の日本人や他の人間に対して特に「我欲」が強かったと考えられるはずはない。同情するのが自然であり、また援助すべき地位と力を持つ者なのに、その相手を「罰」を受けるのが当然と言い捨てるのは、許しがたい侮辱である。撤回要求にもはじめは応じず、被災地の知事が抗議するに及んでようやく取り消したが、反省したようにはみえない。このような発想はどこから出てくるのか。

 石原氏はもともと小説家であるが、その後永井荷風の日記を読んでいて、関東大震災(1923年)について次のように書いているのをみた。「近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂う可し。〔…〕自業自得天罰覿面といふべきのみ」(十月三日)(『新版断腸亭日乗第一巻』岩波書店、2001244-255頁)。同様な感想で、少し驚いた。

 思うに、共通するのは、日本の現状に対して非常に否定的な意見を持っている点のようである。その評価については今は論じないことにしよう。明らかなのは、仮にそうでも、2011年や1923年の震災の被害者がそのことの責任者ではないことである。そんな自明のことにさえ目をつぶって、石原氏や荷風は、「日本」の被害を「天罰」として、むしろ喜んでいる。(罪あるものを「天」が罰するとみるなら、喜びであろう。)もう一つ共通と思われるのは、この二人は非情であり、弱い者や不幸な者への同情心に欠けていることである。石原氏の小説は第一作以来サディズムに満ちている。荷風は放蕩することにおいて――あるいは「によって」?――不幸な女たちを愛したとする者もいるようだが、小生はそうは思わない。それを「愛」と言うなら、人間としてでなく愛玩動物として「愛」したに過ぎない。

 石原知事には震災がらみで過去にも大きな問題発言がある。2000年4月9日、陸上「自衛」隊第一師団の式典での挨拶の中だ。「今日の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪をですね、繰り返している」。「もし大きな災害が起こったときには大きな騒擾事件ですらね、想定される」。これについて当時の報道では「三国人」という用語の問題に矮小化された傾向がある。より重大な問題について、主に日本の若い読者を考えて少し丁寧に説明したい。

 現在、「大韓民国」(以後「韓国」と略)と「朝鮮民主主義共和国」(以後「北朝鮮」と略)が存在する場所を、いまの日本でふつう使われている地理的名称のままに「朝鮮半島」と言うことにする(韓国では「韓半島」と言うのがふつう)。そしてそこで生活した人々の大部分を占める民族を通時的な民族名としては(いまの日本の学界の通例にしたがい)「朝鮮人」と呼ぶことにする。その最初の統一王朝は「新羅」でありその次が「高麗」である。英語でこの民族名をKoreaというのはこの「高麗」に由来し、国名としては韓国をSouth Korea、北朝鮮をNorth Koreaとしている。14世紀末に高麗を倒した李成桂は新たな国号を「朝鮮」とした。「韓」そのものの語源は確定していないが、古代の朝鮮南部に「三韓」という地域があり、また後に高句麗、新羅、百済の三国をも「三韓」と称し、「韓(国)」が朝鮮全体の異名としても用いられるようになった。明治初期の朝鮮侵攻論が征「韓」論と言われたのもその一例である。朝鮮は1897年に国号を「大韓帝国」(略して韓国)と改めた。「朝鮮」の国号を決める際に当時の中国(明)の関与があったため、中国(当時は清)の属国的な性格を払拭したい思いのためと思われる。しかし1910年の日本による併合により定着する間がなかったためと、民族名を示すためその後も一般には「朝鮮人」も多く使われた。現在の「北朝鮮」国籍の者と混同してはならない。また現在の「韓国」と区別するため「旧韓国」とも言われる。明治初めの国交回復以来多くの朝鮮人が日本に渡り住むようになった。無論自主的な移住も多いが、強制連行された者や日本に土地を奪われてやむなくやって来た者もあり、概して近代日本社会の下積み的な位置にあった。「併合」以後は国籍としては同じ「日本人」になったはずだが、民族差別はむしろ激しくなった。

その中で1923年の関東大震災が起こった。自然災害として大きな被害(死者13万人以上)を出しただけでなく、重大な社会的事件を併発させた。手もとの日本史教科書から引用する。「大混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こした、放火した』といった流言がとびかい、政府も戒厳令を公布して軍隊・警察を動員したほか、住民に自警団を作らせた。関東全域で徹底的な『朝鮮人狩り』が行われ、恐怖心にかられた民衆や一部の官憲によって、数千人の朝鮮人と約200人の中国人が殺害された。亀戸所管内では軍隊によって九人の労働運動指導者が殺され、また憲兵によって大杉栄が殺され、無政府主義運動は大打撃をこうむった」(『詳説日本史』山川出版社、1987305頁)。大正の震災時に、他民族や反体制派に対するこうした残虐きわまる暴行があったことは、よく記憶されなければならない。なお荷風の日記ではそれにはまったくふれられていない。ノンポリで政治的にはかなり保守的な田山花袋の『東京震災記』では何度も記されているのであるから、検閲のための沈黙(réticence)とは考えられない。

 1945年、日本はポツダム宣言を受諾して植民地を放棄した。しかし朝鮮半島の南部はアメリカの、北部はソ連の軍政下に置かれてすぐに民族国家の再興とはならず、また不本意に在日となった人々も、諸々の理由で簡単には帰郷できなかった。そして日本政府は終戦後も1952年まで彼等を日本国籍を有するものとみなし、他方1947年からは「外国人とみなす」として外国人登録も義務付けた。48年には「韓国」と「北朝鮮」が成立したが、登録証の国籍欄にそれらが記入されても国籍を意味しない「記号」であるとした(50年の法務総裁の言明)。1965年、「韓国」を朝鮮半島における唯一の合法政府であることを認める「日韓基本条約」の調印を前に、「韓国」を国籍であるという政府見解を出して、ここに「在日韓国人」がようやく法的地位を得ることになった。そこでいま言われる「在日朝鮮人」とは、「北朝鮮」所属の人々の(日本政府は法的には認めていないが事実上の)名称としても、またいままで述べてきた歴史的経過により「在日韓国人」も含む人々の名称としても用いられる。(ただし「韓国人」は概してこの広い用法を好まないので、そのためには「在日韓国・朝鮮人」とも言われる。)さて、「三国人」とはこうした戦後の混乱から生まれた俗称である。

 石原知事は、辞書を挙げて外国人一般の意味でアメリカ人も含まれるとか差別語ではないと弁明したが、野坂昭如氏なども批判したように、すべて成り立たない。『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』(米川明彦編著、三省堂、2002)の項目「第三国人」に次のようにある。「支配地・植民地だった朝鮮・中国・台湾から強制連行されてきた人を戦後すぐこう呼んだ。単に『三国人』とも言う。当初は侮蔑の意味はなかったが、その後侮蔑の意味が加わった」。しかしこの記述にも問題がある。①「強制連行されて」きた人と限定するのは明らかに誤りである。②なぜ彼等をそう呼ぶのかの説明がなく(そこまでは悪いとは言えない)、この記述では「朝鮮・中国・台湾」の三国だからと誤解されかねない。(1949年までは「中国・台湾」はともに「中華民国」であるから「三国」にならず、また「第」三国とも言えない。)誰が言い出したかはわからないが、(日本国民とも言えないとすれば)所属が連合国でも中立国でもないというところから「第三国」と言われだしたという説が有力であり、はじめは確かに価値的に中立的な用語であったようだ。③後にある種の価値を伴う語になったが、それを「侮蔑」と表現するのが適切か微妙だ。詳しく挙証する余地はないが、「コワい連中」「ズルい連中」といった語感で使われたことが多いように思われる。いずれにしても、言われた人が平気で聞ける言葉でなく、大きな権力を持つ者が敢えて使ってよいものではない。

 だが本題に戻れば、石原発言の問題は「用語」以上に内容にある。すなわちこれは、①大震災時などに在日のアジア系外国人が「大きな騒擾」を起こすおそれがあると根拠なく言うことで、彼等を侮辱し、また彼等への差別意識をかきたてる。②現に関東大震災時にこうした流言から彼等が害されたことを考えると、今後の似た状況での同様の惨事を招く要因になりかねない。また若い人に、当時の流言の内容が事実であったとの誤解を与えかねない。③この後知事が警察から抜いて登用した担当の副知事までつくって自警団作りを勧めているなど、言葉だけですまない危険性がある。

 石原知事がこの地震の後でも高い支持率で再選されたこと、しかし都民の多くがこうした彼の発言の問題性をあまり知らされていないこと、また知った上でそれに喝采する者もいることを考えると、まさか平成の時代に大正の震災時と同じことがおきないとは断定できないと思う。

 「想定外」ですまないのは、津波や原発事故だけではあるまい。




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2011/06/03 15:44 2011/06/03 15:44
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床屋道話(その
13人生に必要なすべてはア太郎から学んだ その2

 

 去年の後半、ある高校三年生と何度か話す機会があった。S君としておこう。彼は徹底的な性悪論者だった。人はみんな自分の利益を求めて行為するという説をあくまでも主張した。

 はじまりは警察の話で、彼はいまの日本の警察に腐敗がはびこっていること、というより体質的に不正であり、権力と暴力に従って弱者を支配していることを認めた。ところが聞いてみると警察官志望なのだという。そこで小生は、内部から改革しようという気持ちなのかと考えた。しかし彼はあっさり否定し、そのつもりはないし改革などできないと答えた。志望先に選んだのは、他の省庁と比べて一般職員に対してエリート(いわゆるキャリア)の割合が少なく、その分出世が早いからであり、当事者はまさにその仕組みに乗って私利を追求しているがゆえに、実際に「改革」されることは不可能なのだという。そして当事者の意識をそう考える根拠として彼が言うのは、彼等だけでなく、いや人間はみんなそうだ、というはじめにあげた人間観なのであり、それゆえ自分もそうであって当然だという道徳意識なのである。

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  ここでまず(すなわち警察の現状がそれほどかとか改革不能かということ以前に)問題にされなければならないのは、こうした彼の人間観と道徳意識であろう。人間観について言えば、「人間はみんな」という彼は、古今東西の全人類を調べたわけではない。ふつうはこう言われれば反省するが、彼はめげずすぐ、ではそうでない人間を挙げよ、と反問する。ああ言えば上佑式の「弁舌」を誇っている気味もあるが、心からそう思い込んでいるらしいのだ。たとえばそうでない政治家はないと断言する。場としてふさわしくなかったのでそうでない者の名を挙げなかったが、名指ししても有効でなかっただろう。なぜならまず彼はそれらの者を知らないからである。ということはここでも彼はすべての(とまで言わなくても多くの)政治家を知った上で断定しているのでなく、政治家は(あるいは)人間はこういうものだというドクサ(臆見)がはじめからあって、ゆえにそうでないものはない、と天下り式に独断しているだけである。第二に、ある政治家が、たとえば賄賂を取るどころか私財をなげうち引退時にはすっからかんになった、ということを認めるとしても、それは(他者のためでなく自分が)名声を得るために過ぎない、などと彼は言うであろうから。

小生も年のせいか、「親の顔が見たい」と言う言葉を実感するようになってきた。それは、基本的な考え方は、授業や書物で得るものでなく(したがって「頭のよしあし」とは関係なく)、幼少時期の実体験、特に家庭環境によるところが大きいと思わせられるということである。演歌の「おふくろさん」は「雨が降る日は傘になり、お前もいつかは世の中の傘になれよと教えてくれた」。S君のような人の母親は、雨が降る日は他人を傘にして自分は濡れずに世の中を渡っていくように、こどもに(言葉でなり行為でなり)教えるのだろうか。

 ――ところでこうした突込みを愉快がる人と不快に思う人とがいる。無論、ブラックユーモア好きでも実生活ではまじめで親切な人もいるし、皮肉に眉をひそめても実際の振る舞いの腹黒さに自分でも気づいていないような冷酷な人もいる。しかしまたこうした感受性の違いが道徳性とまったく無関係とも言えないのではなかろうか。この段落は余談である――。

  無論親だけで決まるわけでなく、このような「経験の豊かさ」が「人間的豊かさ」をつくるのであろう。小生は(半ばフォローのつもりで)まあ若いうちは悪ぶってみたいものではあるが、と言った。しかしS君は歩み寄ろうとせず、「ではおとなになればお人よしになるんですか?」とあくまで攻撃なさる。小生は「よりバランスがとれた見方をするようになる」と答えた。これは単に、世の中には善人も悪人もいる、といった凡庸な真理だけのことではない。たとえば教員は(あるいは親は)どこまでも生徒を(子を)信じよ、などと言われる。そして小生もこれは間違っていないと考える。しかしそれは何も、生徒が嘘をつくことはまったくないと信じるべきだということではない。とんでもない嘘をついたり悪事を行ったりするこどもも、反省したり立ち直ったりする可能性は必ず持っている、ということを信じなければならない、という意味であると理解する。

仮に親に恵まれなくても、こうした人間性への信頼感を、どこかで体験し、身につけてほしいものである。斉藤祐樹君はスポーツを通じて、彼が「持っている」ものを得たのかもしれない。小生が「恩師」を尋ねられたら答えたい。たとえば高校の近くに沖電気の本社があり、当時不当な指名解雇に屈せず闘っていた労働者たちが、私の恩師である、と。また大学でも、セツルメント活動で苦しい人々を助けながら自分でも喜びを感じていたような先輩にも接することができた。授業に劣らずこうした人々のおかげで、私もそんなに邪悪にならずに生きてこられたのではないかと思うのである。またS君のような発言に、そういう奴もいるさと簡単に流すことができずに、いわばいきり立ちむきにならざるを得ないのも、それではこうした自分の恩人たちを裏切ることになってしまうと感じるからである。

もっといえば、実際に接した人々でなくても、たとえば漫画を通じてでもいいのである。ということで(強引に?)題につなげる。小生はこの雑文の第四回で、赤塚不二夫の「もーれつア太郎」からかなり倫理的影響を受けてしまった、と書いた。無論この漫画だけではないが、そのついでで今回も使っておこう。すなわちここにはこうした信頼が繰り返される主題になっている。「子分になったブスタング」(第五巻)「てってい的なひねくれブタ」(第九巻)「ひねくれのら犬」(第十二巻、最終話)など、馬・豚・犬と手を変え品を変えたベタな人情話(学園ものにもよくある)だ。ネタ不足とあげつらうのは簡単だが、反復されるテーマがまさにそれであることは、作者の「思想」の面から、また「需要」の面からも、やはり大きいということだろう。ではその「思想」とは何か。義理人情である。「義理と人情のデコッ八」(第五巻)を見よう。悪がきテルは、意気投合したデコッ八を裏切るはめになってしまう。より「おとな」のア太郎親分にあきれられても、あくまでもテルを信じるデコッ八。いつもは人を騙してきたテルも、その信義にこたえようと、親に逆らってデコッ八への約束をついに果す。感動の再会。「おれのまけだよ」と認めるア太郎もいさぎよい。唯一悪役そうなテルの父クモルも、自分に逆らって去った子に、「あいつは、おれににたかっこいいヤツだぜ…」と最後につぶやくのも泣かせる。そうだ、かっこいいとはこういうことなのだ。

ところでこの大団円の次の一こまがラストシーンなのだが、それはなんと、テルの行為を「クーダラナイ」と笑うココロのボスのものなのだ。「感動巨編」ならぬギャグマンガの「お約束」と言えばそれまでだが、ここにはより考えるべきものもあると言いたい。コメディの常道は、非常識な主人公を「常識」の立場で笑うことである。この「常識」は単に平均的なふつうさでもあるが、上質のコメディでは「良識」であることもある。そしてここでテルを笑っているのは、功利主義という「おとなの常識」である。ニャロメは黒猫を救うべく自分が身代わりに十字架につく(「黒ネコのタンゴロー」第九巻)。対してケムンパスが「人の罪をかぶるなんてそんでやんす」というのも同様の功利主義である。では功利主義を打ち破るのは何か。人情である(ネコだけどね)。タンゴローの心を知ったニャロメは、自分も被害を受けたのに彼を赦し彼を救おうと願ったのである。この一篇は福音書のパロディーなのだが、キリスト教の本質をフォイエルバッハに劣らずよく示している。小生はギャグで言っているのではない。実にイエスの行いは功利主義的には馬鹿馬鹿しくて笑うしかないではないか。神聖なものは愚かで馬鹿げたものと一体である。(このことを漫画において最もよくえがけたものは――いわゆる宗教漫画でなく――ギャグ漫画のジョージ秋山作「デロリンマン」ではあるまいか。)

そしてむしろ功利主義が罪の原因でさえあることも、この漫画は示しているように思われる。「ひねくれブタ」は、ブタ松親分に信従している豚たちに言う。「バカ! ブタはな、人間のたべ物だ! ブタはそれしかないんだ。」 功利主義的にはまことに正しい答えというしかない。この漫画で悪役として登場(し後に改心)するキャラクターたちは、このように、強者に利用されたり、理不尽な暴力に傷を負ったりした者である。たとえば黒ネコのタンゴローが母を殺されたように、無差別テロをしたブタは兄が人間に食われたと思って復讐をしていた(第三巻)。悪の原因は本性にはない。それゆえ我々は悪をなす者にも、「その放心を求め」(孟子)て善にたちかえらせる可能性があると信じるのである。「ブタ松の里帰り」(第四巻)は、功利主義の末路もえがいている。利口な飼い犬を誇り、忠義だが愚かな子分達を持つブタ松を馬鹿にした者が、飼い犬に裏切られる。

小生が理想とする人間は、「義理に強くて人情に弱い」人間である。


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2011/03/03 14:45 2011/03/03 14:45
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「後期高齢者」に賛成(床屋道話12

 

 

 

 「後期高齢者医療保険制度」に賛成ではない。みんなが反発したのは当然だと思う。さきの衆議院選で政権交替をもたらした一つの要因だった。そして(小生にはある程度「想定の範囲内」だったが)しかし民主党はそれを廃止しなかった。労働厚生大臣になった長妻昭氏は、ハローワークの職員に名札をつけさせるというようなしょぼい業績しかあげなかった。新制度案の大枠は発表されたが、「後期高齢者」を別枠にするという根幹は残り、しかもいままで以上に複雑になるようで(このまま成立するかまだおおいに疑問だが)仮に「有言実行」されても改良か改悪か怪しいものだ。しかしここでは医療保険の話はしない。

 

 反対理由として「後期高齢者」という言い方がいやだ、というものが少なからずあったことを問題としたい。これは小生には意外であった。当時から言われたが、この語はこのときつくられたものでなく、その前から学術的には使われていた。しかし一般国民には初耳だった。それがいやだというのはいかにも老いぼれのようだからという。「後期高齢者」を別枠にするのは保険としては不条理であり、またこの制度が彼等への思いやりに欠けていることは事実だ。しかしそれは用語の罪ではない。一般論として、高齢社会において高齢者を「前期」と「後期」に区分することは合理性もある。すなわちこの言い方がいやだというのは年寄り扱いされたくないという感情論である。事実、「高齢者」という語さえいやで、なんとかかんとか妙な言い換えを図る人々もいる。

 
ではそういう感情はよくないと小生は言いたいのか。然り、そこに疑問があるのである。この感情は若さは善だという思い込み、あるいはむしろイデオロギーと表裏一体である。そう、実にそれは「自然な感情」とは言い切れない。

 

 20年前、ローマのシスティナ美術館をはじめて訪れたときのことだ。長い廊下で、左右に古代彫刻の名作が並ぶ所があった。ちょうどツアー客を引き連れた案内人の言葉が耳にはいった。英語だったので自信はないが、次のような内容ととった。こちら側はギリシャの彫刻で、若者が多い。あちら側はローマのもので、老人のものも結構ある。若さを賛美したギリシャ文化と、経験や思慮を重んじたローマとの文化の差が表れている、と。

 

 このような価値観の差は確かに存在する。そして日本の伝統は、若者よりも老人を評価する文化に属するのではなかろうか。(もっともこの二択にとらわれなければ、日本文化はむしろ「こども」の評価において特徴的であろう。)近年の「若さ」志向はアメリカ文化に流されているのではないか。言うまでもなくアメリカは国自体が若い。単純な思い込みで力任せに突っ走るのがアメリカ流だ。これに流されて、我が国が熟成してきた、年の功を生かす知恵を忘れ、あまつさえ年寄りを敬う気風を捨ててしまうのは、愚かな誤りである。無論不自然に老成ぶる必要はないが、「アンチ・エージング」などはアメリカン・ビジネスの罠だと思うほうがいい。

 

 また「後期高齢者」などというといかにもまもなく死ぬ者と言われているようでいやだと言う声もあったようだ。だがそれは冷厳な事実だ。目をそむけることがいいとは思わない。上智大学で哲学を教えていたデーケン氏は、「デス・エデュケーション」の必要を説いた。そしてカトリックのほうに我田引水したのだが、実は日本思想にも「メメント・モリ」の伝統は豊かだ。武士道は言うまでもない。徒然草でも、老人といわずいかなる人もたえず死を思うように勧めている。

 

「冷厳な事実」にせよ、死や老いのことは「他人に言われたくない」とか「思いやりに欠ける」との不平もある。だが、「自分が老いたと思ったとき人は年寄りになる」という一見うがった科白は若さ礼賛の修辞で、自分を客観視できるのこそ我々が重んじた円熟であった。「おじいさん/おばあさん」と呼ばれたくないという者もいる。中には「自分はあなたのおじいさん/おばあさんではない」と言い返す者もいる。つまらぬ反発である。そんなことは相手もわかっており、これは「祖父/祖母」という意味でなく「老人に対する親しみをこめた敬称」として用いられたのであり、「おじさん/おばさん」が「親の兄弟姉妹(伯父・叔父/伯母・伯母)」だけでなく「おとなへの親しみをこめた呼びかけ(小父/小母)」として用いられるのと同様である。無論これは反発した者もわかっており、要は「年寄り扱いされたくない」というに過ぎぬ。年寄りであるかどうかは誰が決めるか。他人である。こどもに「おじさん/おばさん」と呼ばれて(「おにいさん/おねえさんと呼べ」と返したかどうかはともかく)参った思いは多くのおとなに経験があろう。そして小さなこどもにとってほど、自分がより年長に見えるという事実に気づいたであろう。こうした事実に対して、自分は○○歳だから/○○ができるから「若い」と言い返すのは、愚かなことであろう。相手に「おじさん/おばさん」「おじいさん/おばあさん」とみえたのならそれをしっかり受け入れるべきである。

 

 重病の人にとってまず大事なのは、まずその事実を受け入れる勇気を持つことであるという。たいしたことはないとか自分がいちばんわかっているとか言って専門家に諮らなかったり治療を怠ったりすると、自分で首を絞めることになってしまう。自分は高齢者であり、それゆえ年の功もあるが、いろいろ弱ったりできなくなったりしたことも多く、助けてもらわなければならないことも多い、ということを認める勇気が必要であろう。そしてそれを公言し、助けを求めることはけっして恥ではなく堂々と行ってよいのだ、ということを社会常識としたいものである。若さの一面的な礼賛は、老いることを恥と思わせ、老人に自分は厄介者だと思い込ませ、あるいはそうでない者(自分もいつかはそちら側になるのだが)に、「活力」や「効率」のために切り捨てるべき「無駄」と思い込ませることになろう。

 

 





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2010/12/13 15:26 2010/12/13 15:26
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バクチの倫理(床屋道話11

 
 大相撲がゆれている。今回は野球賭博に関してである。
 
だが何が悪いのかとたとえばこどもの素朴な視点から問われると、答えはそんなにたやすくはない。この件に限定すれば暴力団がらみであるという点で、よくないことはわかりやすい。しかしでは暴力団なしなら野球賭博はいいのか。それでもバクチハよくないという。バクチは法律で厳しい規制があって原則禁止であり、今回の行為もヤクザ抜きでも違法行為すなわち犯罪になる。以上は法律論だ。そして「法律は守るべきだ」というのもいちおうの道徳規範ではあるが、「子供の素朴な視点」は「バクチはなぜ悪いの」がむしろ問題だ。そして法律も「原則禁止」であって実際にはいろいろなバクチが公認されている。競馬・競輪・競艇が典型だが、パチンコやスロット等もバクチである。「よいバクチ」と「悪いバクチ」の線引きはどう行われているのか。宝くじは自治体がかかわり、「サッカーくじ」にいたっては文部科学省が胴元になっているバクチである。場所を限定して賭博を認めている国(たとえばラスベガスのアメリカ)や一般の賭博にももっと自由な国(たとえばイギリス)もある。サッカーくじならいいが野球賭博は悪い理由を、「スポーツ振興」につながるかどうかで説明できるか。各国・各時代でつくられている「よい賭け事」と「悪い賭け事」の基準は「オトナの都合」ではなかろうか。(実際、戦後日本のギャンブル業界に関しては笹川良一という右翼の存在を抜きに語れない。)

 
だがこのような「賭け事の政治経済学」に訳知り風に立ち入るのはここではやめよう。こうした法的なブレが現れるもう一つの理由に、賭け事の許容の「道徳的な正しさ」をめぐる難点がある。すなわち賭博そのものは愚かな行為だとしても、明らかに他人の権利を侵害するのでなくてもそれをする自由を禁止することは正しくなく、「愚行権」も認めるべきだ、という意見もある。似た問題は麻薬の使用や売春行為等についてもあり、実は倫理思想のお決まりの論点の一つなのである。そしてこの問題についても今回は立ち入らないことにする。

 
またそもそも人生そのものが「賭け」なのだという哲学的ないし「実存的」論点もある。無論これにも深入りできないが、他の論点同様とるに足りないからではない。実際、言い訳や負け惜しみでなく本気で de bonne foi「人生は賭けだ」と信じつつバクチにのめりこんで自分や家族を破滅させる者もいる。こうした論理または倫理にどう対するかは重要な問題ではある。

 
これらのほかに私が持ち出したいのは、近年は社会そのものがバクチ化している、ということである。一般人のほかに「博徒」がいたり、日常生活の外によかれあしかれ「気晴らし」としてギャンブルがあったりするというより、一般人の日常生活そのものにバクチ的要素が強まっている、ということが、こうした問題の背景に考えられる。経済ではカジノ資本主義という用語でかなり定着したようだ。新自由主義の一つの側面および一つの帰結を示すと位置づけられる。従って新自由主義者はこの(言葉はともあれ)事柄には肯定的である。彼等は「貯蓄から投資へ」と煽る。株を買うのはバクチのようなものであり堅気でないと遠ざけるのは時代遅れの偏見であり、「リスクをとる」精神を進めよと号令する。ネット取引は無論、銀行や郵便局の窓口でもできるように「改革」し、学校でも早くから教えよと介入する。給与で株を買うだけでなく、給与そのもののストック・オプション化や、役員報酬を株価と連動させるなど、いたるところで進めている。金融に偏しすぎた資本主義に対して(体制内から、また私の知る限り)最も早く疑問を呈したのは、宮沢喜一首相であった。彼は訪米時に、レーガン以降のアメリカ経済について「生産倫理」の衰えという面から危惧を表明した。経済の専門家であるだけでなく日本の政治家としては珍しく教養もあるほうの人物だけに、私はこれをヴェーバーの理論をふまえた大きな意味を持つ提起と受けとめた。しかし当時の米日の政治家やマスコミは、(「勤勉な日本の労働者」に対して)アメリカ人を怠け者視する偏見や(日米経済摩擦の中での単なる)「ためにする発言」として流してしまった。

 
いまやサブプライム・ショックがあり、リーマン・ショックがあり、新自由主義批判は珍しくなくなり、「カジノ資本主義」という語もそこそこ定着している。経済産業省の事務次官である北畠隆夫が講演会でこう発言した(08年1月)ほどである。ネットなどで株売買を短時間で繰り返す「デイトレーダー」は「経営にまったく関心がない。本当は競輪場か競馬場に行っていた人が、パソコンを使って証券市場に来た。最も堕落した株主の典型だ。馬鹿で浮気で無責任というやつですから、会社の重要な議決権を与える必要はない」。批判を受けた北畠氏は記者会見で「ジョークだった」などと謝罪したが、これは事柄の(本質と言わないまでも)重要な一面を鋭く把握しており、「無議決権株式」の上場解禁という彼の提案もまじめな検討に値する。

 
北畠氏が批判するような状況をそれでも擁護する側にはたとえばこんな論理がある。なるほど株の購入者は直接には自分の利益しか考えていないとしよう。しかし儲けるには株価上昇が見込める銘柄を選択しなければならない。それは有望な企業に投資するということであり、つまりは社会が必要としている仕事を進めるために資金を回していることである。それゆえ株の売買等も市場が創造的破壊を通じて最適化していく過程に貢献しているのである。だから金融証券市場の活性化は市場全体の発展をスムーズでスピーディにするのであり、いたずらに「ものつくり重視」を唱えて金融規制を強めるのは、間違った二項対立であり社会自体を化石化させる石頭である、と。

 
こうした論理は、次のことを考えれば少なくとも結果的に詭弁であることがわかる。株の購入目的はもともとは配当を得る(income gain)ことであるが、株は商品として売れるので初めから売却益(capital gain)目当てで買う者もいる。配当は企業の収益の分け前であるから、配当目的なら高収益が見込める企業への投資と言える。売却益目当てなら直接には株価上昇が見込める銘柄を選ぶことになる。このとき株価は企業業績予想に依存するので、両者は結局同じと言われるかもしれない。確かに関連はあるが「同じ」ではないことが重要である。配当目的の株購入は、「正解」を答えると得点できるクイズにたとえられよう。これに対し売却益目的の株購入は、「多数の人の答え」を当てれば得点できるクイズにたとえられる。この際回答者は「正解」を知っていて、かつ多数者も正解するだろうと考えて当てる場合も無論ある。だが「正解」と「多数者の答え」が異なる場合もあり、その際には後者を言わないと得点できない。ということは回答者は必ずしも「正解」を知っていなくても人々の意見を知っていればよいということである。株価上昇の直接の原因は需要増であり、その原因がその企業収益増加が客観的に見込まれる場合もあるが、はずれる思い込みでもあり得る。たとえばCMが受けているので商品が売れるだろうと思われたが、人気はCMだけで終わったような場合もある。企業によってはこの効果を利用して(業績そのものの向上という正道でなく)邪道で株価上昇をたくらむこともある。近頃話題になった例では、粉飾決算によって高収益の虚偽情報を与えたり、株を分割して手続き上一時的に生じた供給減から生じた価格上昇を企業業績への評価によるものと思わせたりして、株価を上げて自社の「時価総額」を上げようとしたオーナーがいた。前者は現行法でも犯罪であり、後者はそうはなるまい。がいずれにせよ売却目当てで株を買った者には関係がない。詐欺や誤解による値上がりはいずれはばれて値崩れすると言われようか。その前に売り抜けばいいのである。買ったその日に売るようなトレーダーほど、その企業の長期的な成長や社会からの需要から離れて、どの理由であれいま値上がりするかどうかのトレンドを当てればよいということになる。そしていまや株売買において、配当目当てより売却益目当てのほうが大きくなってしまっているのが、「カジノ資本主義化」の一側面である。競輪・競馬に行っていた者がパソコンで株をやるようになったというより、収入は預貯金をしていた堅気者がバクチにつぎ込むように、あるいははじめから「トレーダー」とか「ファンド・マネージャー」とかの名の遊び人をめざすようになったのだ。そしてこの「改革を後戻りさせるな」として規制を阻み、モラルハザードをよりスムーズかつスピーティにしているのだ。
 
 
賭け事をすべて否定せず「気晴らし」としてある程度認めるとしても、やはりそれは本業を駄目にしない限りにおいてであろう。また本来のバクチそのものにも厳しい掟があり、いかさまは厳しく罰せられる。賭けの要素を含む市場経済を認めることは、規制をすべて敵視するルールなき闘争を肯定することとは同じではない。新自由主義によるカジノ資本主義が、やくざのバクチほどの掟を備えているか、疑問である。





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2010/09/06 12:19 2010/09/06 12:19
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「起きていることはすべて正しい」か(床屋道話10) 
                                                       二言居士



 

上の「」内の言葉は勝間和代氏のものである。厳密に言えば、彼女が同僚から教わったものだそうだが、彼女が「座右の銘」とし、著書の題にもしている(ダイヤモンド社刊)ので、彼女の言葉として扱ってもよかろう。
 
 勝間氏と言えばまずは市場のカリスマの一人である。19歳で会計士補の資格を得、マッキンゼー、JPモルガン等米証券界で実績を挙げ『ウォール・ストリート・ジャーナル』でもとりあげられた。こうした勝ち組としてのキャリアをひっさげて経済評論家として近年人気の物書きとなった。「カツマー」と称される追随者(単なるファンでなく自らの指針にする者)もいると言う。二十年前の「アムラー」や「シノラー」以来の現象だぜ(?)。しかし他方、小泉・竹中らが推し進め「格差社会」をつくった新自由主義のいまさらのイデオローグとして批判も受けている。著者もはじめからそう感じており、これをみて「やっぱりな」と思った。すなわちこれは新自由主義の核心的な考え方であり、また私が最悪の思想として戦っている「勝てば官軍」だからだ。

 しかしこの考え方にも一見もっともと思わせるものはある。まただからこそ本人や追随者は納得してしまうのだし、だからこそ批判の必要がある(一見して間違ったものや愚かなものは批判に値しない)。勝間氏の実例では(朝日新聞、09年6月「勝間和代の人生を変えるコトバ」欄)、商品開発が失敗したとき、「市場が間違っている」と現実を直視せずに認識を歪めるのでなく、「市場の反応は正しい」と認め、自分の仮説の甘さや戦略の見込み違いを受け入れ、次に生かすことだという。

 以上の言い分で正しいのは、現実に起こることには(したがって失敗にも)必ず原因または客観的な根拠がある、という点である。また私が賛成するのは、望ましくない現実から目をそむけたりごまかしたりしてはならず、成功したければ原因を究明して対応を変えよ、という点である。

 誤っているのは、「根拠がある」ということを「正しい」と表現する点である。「正しい」というのは、厳密にはある判断(または命題)についてだけ言われることである。日常語ではある現実についてもそれは「正しい」と言い得るが、それは「根拠がある」という意味ではなくなんらかの「正当性がある」という意味である。はじめから「よろしかったでしょうか」と過去形で尋ねるのは文法的に「正しい」かとか、公訴時効の廃止を既に起こった犯罪にも訴求適用することは法的に「正しい」かとか言われるときがそうした例である。戊辰戦争での新政府軍の勝利には確かに原因や根拠があるが、それは薩長側に正当性があったかどうかとは別である。ことわざ「勝てば官軍」の意味の一つはまさにそのこと、つまり成功は正当性の保証ではない、ということだ。アウシュビッツもヒロシマも起こったことだから「正しい」のか。それが勝間氏の言いたいことではないであろうし、それらを「正しい」こととは彼女も認めないであろう。
(そう思いたい。)しかし彼女の言い方(論理)だと客観的にそうなってしまう。

 成功を正当性と誤解すれば、もはや勝ち負けから独立した「正・不正」「善悪」の判断は無用になる。現実をすべて「正しい」ものとして受け入れ、そのわくの中で自分の側を変えることで勝てるように考えるべきであり、わく自体を「不正」とか「悪」とかみなして変えようとすることは、「現実逃避」「負け犬の遠吠え」「弱者のルサンチマン(怨恨)」と罵倒されることになる。公正への要求は、成功者への妬みだ、足をひっぱるな、と逆に非難される。これはまことに勝者・支配者・強者に都合よい言い分(思想)で、弱い者を黙らせ追い詰め、屈服させようとするものである。

 その意味でこの「コトバ」を批判しようと思っていたところ、新聞連載の最後の回で彼女が出したのが、まさに「妬まない、怒らない、愚痴らない」だった(10年3月)。これは「他者のせいにするという考え方を禁じる」と自分で言うとおり、まさに「自己責任」イデオロギーであり、観念論(彼女は仏教と結び付けている)と市場主義による民衆支配の「コトバ」である。

 私達は正しくない現実におおいに怒らなければならない。そして確かに感情的に怒るだけでなく、不毛な妬みや愚痴に終わるのでなく、正しくない現実がなぜ起こっているのかを追究し、悪い奴をやっつけ、悪い制度を変えていく行動へと結び付けなければならない。



 

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2010/06/04 17:05 2010/06/04 17:05
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スパコン問題の根底にあるもの(床屋道話9)
                                二言居士
 
 

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  2009年の流行語として小生が期待していたのは、「二位じゃ駄目なんですか?」だった。言うまでもなく、事業仕分けで「世界一位を目指す」汎用スーパーコンピューター開発費についての、蓮舫議員の質問だ。もっともな疑問と小生には思えたが、当事者等から猛烈な反発も出たことで話題になった。あるノーベル賞学者は、「一位を目指さなければ二位や三位にもなれない」と語った。これにはあきれてしまった。こう言えば黙らせられると思っているのだろうか。小生はむしろ、じゃ四位じゃ駄目なんですか、とさらに尋ねたいのだが。

 だんだん話を聞いてみると(以下、主に野依良治氏が『朝日新聞』12月3日付に書いている「1番目指してこその未来」を参考にした)、どうも問題は科学による「真理の探求」や無限の技術発展への「夢の追求」ということではなさそうだ。なぜ二番目では駄目かというと、三番目以降の国は(いや二番目になった場合の日本でさえ)一位のスパコンを借りて仕事をしなければ競争に負けてしまうからだという。また二番目以降はその利用の際に莫大な特許料を払わなければならないからだという。つまり問題は科学や技術ではなくて経済競争なのだ。

 しかしここにいま少なからぬ人々が科学技術に対して以前ほど肯定的になれない理由がある。つまり多くの科学者や技術者が経済的利益や競争のとりこになってしまっており、それが「本当に人間に役立つ」科学技術をむしろ妨げているように思われる。
 それにしても現にある経済競争を直視せよと言われるかもしれない。けれども野依氏が「米国や中国から買うことは、それらの国への従属を意味する」とか、「我が国においては、世界水準から抜きん出た科学技術の開発なくして未来はない」とか言うのは、誇張か我田引水の脅しではなかろうか。好意的に解釈するとしても、一等でなきゃ駄目だという強迫観念に取り付かれているのではなかろうか。「科学社会では、頑張れば負けてもいいという敗北主義は決して許されない。基礎科学では最初の発見者が全栄誉を得る」、という彼の発言には、現代科学が「勝ち負け」や「栄誉」の道具に成り下がり人間疎外の具になっている様を露呈しているのではないか。スパコンでいま四番目五番目の国民は貧困に苦しんでいるのか、不幸せなのか。
 最も強い印象を受けた彼の言葉は、「一刻たりとも立ち止まる猶予はない」である。小生はそんな世の中には生きていたくない。いやそんな世の中にしないように力を尽くしたい。

 科学技術の進歩に反対ではない。直接の効用が不明な基礎研究、さらに研究をたやさないための費用として国家が幾分かを出すことは認める。スパコン費そのものを論ずることがここでの主題ではない。しかし経済競争で勝つための科学技術、さらにそのためには「一刻たりとも立ち止まる猶予はない」構えで工業や金融の最先端にいなければならないという価値観を、これは見直すよいきっかけではなかろうか。「ナンバーワンにならなくていい」を既に多くの国民は(賢明にも)選び始めているのではないか。

 09年の流行語として小生がもう一つ注目したのは「のギャル」だった。いろいろな意味で農業に目覚めたギャルたちが出現した現象を指す。「オンリーワン」も悪くはないが、どうしてもナンバーワンになりたいなら、ハイテクや金融(まして軍事)などは4位でも40位でもいい。農林水産業を甦らせ、競争力でなく人情の力を甦らせ、人間らしい国の一位を目指したらどうだろうか。ノーベル賞の科学者よりもおバカなギャルのほうが賢いこともあるのではないか。






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両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
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共感の思想史
共感の思想史 仲島 陽一
 

(単行本 - 2006/12)


2010/03/01 16:36 2010/03/01 16:36
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時効について
(床屋道話8)

二言居士

 

 刑事事件の時効を廃止すべきだという意見が強くなってきた。法務省も検討を始めたようだ。ここで小生はそれに反対だ、とすぐ断定する気持ちではないが、その意見の理由として言われることの中には違和感を覚えるものがあり、すぐに賛成はしかねる。実は数年前に既に変更があり、現在は最も長い場合は二十五年である。これは逮捕されれば死刑になるような犯罪と考えてほぼよいであろう。それでも時効を廃止すべきだというならば、二十五年では短い、という意味になる。

そもそも時効の意味がわからない、という廃止論者もいる。法律そのものには時効の意義を記していない。それゆえその意義について語られることはすべて「説」であるから、ここではあまりとらわれずに考えてもよかろう。その「説」をいくつか挙げよう。①時効がないと警察は永遠に捜査義務を負ってしまう。②二十五年捜査して駄目だったのがその後逮捕できる可能性はきわめて少なく、無限でない労力や費用はそのためによりも起こったばかりのは犯罪に向けるべきである。③あまりに時間がたつと立証または反証が難しくなる。これらは無視してよいわけではないが、どちらかというと技術的であり、最も本質的な論点とは言えまい。④次に一見揚げ足取りのようだが、意外と本質的かもしれない問いを、廃止論者に発してみたい。ではあなたは一切の時効に反対なのか、つまり微罪について短い時効があることにも反対なのか、と。そうだ、というなら極論であり少数意見であろう。ずいぶんけちくさくめんどくさいヤツだ、と世間から叩かれそうである。実際いま問題になってるのはそういうことではなく、殺人のような大罪を犯した者が時効で裁かれないままでいいのか、ということである。だとしたら時効にしてもよい罪とそうでない罪との境をどう、何を根拠にひくのか、ということが難しかろう。しかしこの問題もつっこまないでおこう。

小生が違和感を抱くというのは、犯罪者がいつまでも裁かれずにのうのうと生きていることが許せない、という(時効廃止論の理由として述べられる)言い分である。この言い分のうち、「生きていることが」許せないというところに力点があるものはここではとりあげる必要がない。つまりそれはそうした犯罪者は死刑にすべきだということになり、死刑そのものの是非に論点がずれてしまう。問題にしたいのは、(被害者側はいつまでも苦しんでいるのに)加害者が「のうのうとして」生きていることが許せない、というところに力点がある発言である。ここで小生が疑問なのは、そういう発言をする者は犯人の状況をどうしてそう断定するのか、ということである。むしろ相当つらいんじゃないの、ということだ。実は今回小生がもう一つ意外に思ったのは、時効の理由として、このように逃げ隠れして生きることが既に罰を受けているようなものだから、というのが有力な説として挙げられないことだった。逃げ隠れする加害者には、指名手配されている場合と、自分が犯人と悟られていない場合とがある。前者の場合、名を偽り知り合いのない土地に移り、住民票や免許証、カード類の使用はほとんどあきらめなければならないのでかなり苦しいことはすぐわかるはずだ。後者はその点ではより楽そうだが、前者の苦労は技術面にまぎらせられる面もあるのに対し、いつかわかるのではないか、あるいはむしろ自ら今からでもうちあけるべきではないかと、より倫理的な葛藤の辛さがあるかもしれない。まあ確かに、こうした辛さをまったく味わわず「けろっと」すごしている加害者も中にはいよう。しかしそうしたごく少数の存在を論拠にすることは妥当であるまいし、いずれにせよそうした異常な犯罪者(脳の器質的障害にでもよるのか)は、仮に刑罰を受けてもやはり慙愧の念や良心の呵責などは持たず、ついてないぜ、くらいしか思わないなら、はじめから別問題とすべきであろう。というより小生は、たとえこういう考えが浮かんでも発言できないだろう。「じゃあお前が犯人なら捕まるまではのうのうとしてられるのか?」という反問をすぐ思ってしますからである。つまり、こうした発言の背景には、「罪を犯した人間」の心理についての感受性のなさ、あるいはそれへの想像力のなさという問題があるのではと疑いたくなる。今回最も問題にしたいのはこの点である。

ところで近年「加害者」に対する厳罰要求が強まっており、時効廃止論もこの一環かもしれない。悪い奴を甘やかせている、という「空気」をつくりあげ、更生よりも処罰を強める少年法改定をしたり、「人権派」弁護士等が冷静に法的手続きの保証を求めることまでたたいたり、憑かれたような恐さも感じさせる。今回は深入りしないが、この変化の理由と意味についても注意を促したい。

だがお前は執念深さをむしろ肯定しており、PTA会長を告発し続けたニャロメをほめ(第四回)、元AV女優をテレビで持ち上げることに反対した(第六回)ではないか、と言われるかもしれない。時効に限って、もういい加減許してやれよ、というなら一貫していないではないか、と。違いは、時効は「社会的制度」だ、ということにある。被害者側が、時効になったからといって犯人をゆるさないぞ、と思っても小生は第三者として反対はしない。ゆるすことが大切です、と説教することはないだろう。ただ時効になったら警察が捜査することはもうゆるしてやろうよ、ということである。(それは国民がその費用を税として負担することを含め、捜査に協力する義務からもゆるしてやろうよ、ということである。この意味では、被害者側が犯人をつきとめたり犯人が自首したりした場合に裁判には時効がないというのはあり得る制度かもしれない。)今回の第三の主張は、この意味で時効は当人の感情や意志の問題でなく社会制度の問題だということである。これはたとえば喪の問題と同じではないか。服喪期間が終わったからと言って、悲しみの気持ちを無理やり終わらせなければならないわけではなく、そういう人の感情自体は第三者が非難はできない。問題は社会的なけじめなのであり、その人の前では未来永劫にしゅんとしていなければならず、その人には社会的義務を免じ、またたとえばその人の家族はいつまでも結婚できないとか、そういうことはもうゆるしましょうよ、という制度なのである。

 




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共感の思想史
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2010/02/01 18:26 2010/02/01 18:26
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  1. デグニティ 2010/06/06 13:01  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    ある事件が、本当の意味で「終わり」を告げる日は、犯人が逮捕された日でも、刑が執行された日でも、加害者が謝罪した日でもない。

    被害者が、加害者を「許した」日である。



床屋道話7
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ひとを裁くこと
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共感の思想史
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