'哲学の現在'に該当される記事5件

  1. 2019/07/31 科学と相対主義
  2. 2019/06/04 哲学的疑問と哲学的感情
  3. 2019/04/03 哲学の端緒は「驚き」ではない
  4. 2019/04/03 討ち入りの諸論点から
  5. 2019/04/03 哲学は科学ではない

科学と相対主義(哲学の現在 第五回)

 

第一回で私は、「哲学は科学ではない」と述べた。「それなら宗教や趣味と同じなのか」という問いが出るとしたが、これは相対主義の問題にかなり重なる。つまり伝統的には、(科学と違って)主観的な好悪は相対的でしかない、という観念が前提されているのだが、現代では科学そのものにおいても相対主義的立場が幅を利かせている。そして私はそれに反対である。

科学が客観的認識であることを否定する哲学的立場としては、実用主義(pragmatism)がある。またフッサールやハイデガーのように現象学的立場から、科学ははじめから特定の態度によって認識内容を仕立て上げるものだとするものがある。ニーチェにおける「すべては解釈」という主観主義とも結びついて、これは「ポストモダン」でかなり共有されている。ローティのように、これを実用主義と統合するものもある。さらにこうした哲学的動きを助長したのが、科学史論における「パラダイム」論である。科学を科学者の合意による間主観的認識とか、イデオロギーと同様とみる社会構築主義などもこの流れに乗っている。

パラダイム論のもっともなところは、科学の進展が、知識が増えるといった量的変化だけでなく、考え方の新しい枠組みの確立のような質的変化を持つことである。しかしこの変化は主観的な好みの変化によるのでなく、科学者は変えることを(客観的根拠で)余儀なくされる。新旧の枠組み(パラダイム)は別のスポーツやゲームの規則のような共役できないものでなく、その変化は「発展」である。たとえば相対性理論によればニュートン物理学は「厳密には」正しくないが、物体の速度が光速度に対して小さい場合は近似的には真理である。ニュートン物理学は自然の一側面の近似的な客観的認識である。アインシュタイン物理学は、自然のより一般的な認識であり、よって古典物理学からの単なる転換でなく発展なのである。同様に、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学の拡張であり、後者は前者の限定された真理である。量子論の場合はもっと複雑だが、これは自然を(その階層性に即して)「より深いところから」認識したものと考えられる。等々。ただ、より「広い」とか「深い」とかいっても(カントや現象学者がうるさく言うように) 絶対的な自然「自体」の認識ではないので相対性を持つとは言える。しかしより広く、より深くという客観的方向性はあるので、相対主義は一面的な態度である。

近似的であれ客観的と言えるのは実験(実践)による検証による。これに対し、観念論・不可知論・懐疑論は、それは検証されたとあなた()が思って(言って)いる観念で(物自体でない)と、と言う場合がある。確かにその通りなのだが、これは同義反復的真理であり、「批判」として成り立っていない。私()が思ったり言ったりすることはすべて私達の観念であるが、ある観念について、それが客観的真理である、つまり私()がそう思っているだけではない、と思ったり言ったりすることには、何の矛盾もない。

社会構築主義者などは、科学における認識内容と認識活動との混同があると思われる。科学においても認識活動としては主観的関心が働いており、価値自由ではない。「2+2=4」も「水は水素と酸素からなる」も、数学や化学を役立てたいという、あるいは単にそうした知識自体を価値あるものとして得たいという欲求が生んだものではある。しかしそれは加算や化学組成の正しい認識内容が、それを人間が価値あるものとしているということではない。熱力学は、科学活動としては、産業革命時代の英国の産物と言ってもよかろう。しかしその認識内容としてのたとえば「エネルギー保存の法則」は、中世ドイツにも平安朝の日本にも、人類が生まれる前の地球でも、つまり客観的に成り立つ。「男女平等」は、古代ギリシャや先カンブリア紀の地球には成り立たない。これがどちらも「人間の観念」であっても、科学的認識とイデオロギーとの違いである。

添付画像
ところでただし、以上の主張は科学そのものでなく「科学哲学」という哲学の一分野に属する。ゆえに(私としては残念ながら)「客観的真理」であると証明できない部分を含んでいる。こうした問題を含め、私とかなり重なる立場にあって、科学哲学の諸問題をわかりやすく解説している本として、戸田山和久『科学哲学の冒険』(
NHKブックス,2005)は、お勧めできるものの一つである








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2019/07/31 20:21 2019/07/31 20:21
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哲学的疑問と哲学的感情(哲学の現在:第四回)

 

前回、私の哲学の端緒(したがってまた目的)を倫理的なものとした。これは、いま私にとっての哲学を整理するとこうなる、ということであって、私の人生における哲学の「端緒」の話ではない。「哲学者」になるような者の多くは、学校や書物で「哲学」に接する前から哲学をしていたと思う。私もまたそうであるが、しかし「哲学者」にならない者でも、何かしら「哲学的」な問題を考えたことはあっても、どこかでそれをやめる。今回はこども時代(から)の私をとらえた二つの「哲学的」問題にふれたい。

一つは、十歳くらいからのもので、世界はなぜあるのか、というものである。哲学者ではライプニッツなどが問題にしたようだ。今日では私はこれは考えないようにしている。なぜなら問題として成立していない、言い換えれば「答」が出る「問」ではないからである。「なぜあるのか」の答え方の一つは、目的を答えることである。しかし世界はある目的のためにつくられて存在するのではない(。これへの異論はある。しかし理由は略すが、私は今日では多数派のものであるこの考えに与する)。もう一つの答え方は、原因を答えることである。しかしAの原因がBであるということは、AとBの両者の「存在」が前提でその関係を述べている。「世界」とは「存在するものの全体」であるから、その原因となるような他の「存在」はない。それを「無」と言っても、無が存在の「原因」だとはどういうことか了解できない(。これも了解できるという人もいるが、私は多くの人同様それは無理と考える)。だから私はこのことを「考えないようにしている」と書いたが、「考えない」とは書かなかった。考えても答えができないと了解しても、この問いを出させた「気持ち」はなくならないのである。よってこれは論理的「問題」というより「感情」であろう。それを強いて言葉にすれば、「世界はなぜあるんだ(むしろ無でなく)?!」とでもいうものになる。論理的にも倫理的にも無益としておさえようとしつつ、五十年後の私も時折この感情に襲われてしまう。

もう一つは、漠然としたかたちでは六歳ころからで、第一のものよりも強く襲う、自分はなぜあるのか、というものである。目的や使命という意味での自分の「存在理由」の問題ではない。自分はなぜこの家、この国、この時代等々に生まれたのか、を不思議と思う者はたまにいる。つながる面もあるが、それを言うならそもそも自分(というもの)の存在自体が不思議ではないかと思うのだ。しかしそれを問題にした一般人には会ったことがない(。哲学者では永井均氏あたりがとりあげているかもしれない)。これに対して、この「自分」がたとえば山田太郎なら、山田家に生まれたこどもに太郎という名が付けられ、かくかくの遺伝子としかじかの環境を受けてこの心身を持った山田太郎がいま存在するのであって何の不思議もない、と答える者もあろう。しかしそれが必然だとしても(実際には偶然もあると考えるが)そのようにして生まれたその山田太郎が「この自分」である必然性はない、ということを問題にしているのだ。もっと字数を使った説明ができても、ちょっと何言ってるかわからない、という「サンドイッチマン」状態の者もいるだろう。気にせず同じことを裏から言うと、その山田太郎とは別に、「この自分」は木村拓哉であってもクレオパトラであってもいいし、世界(の実在は認めるとして)のいつどこにもそんなものは存在しなくても何の不都合もない、ということである。この問題も「答」の出しようのない「問題」であると考える。同時にまた、そのような「偽問題」の烙印によっても「解決」したという感情にはならない。

どちらも、なぜそんな感情が起こるのか、という心理学的問題に変更すれば答えは簡単である。世界や自分の存在に違和感や恨みを覚える者の感情なのである。元気はつらつな人は、肝臓がどこに存在するのか、人間には胃がいくつ存在するのか、無関心でいられる。その違和感や恨みの原因をさらに問うこともできようが、いずれにしてもそのことでもとの問題が答えられたり解決したりするわけではない。

誤解されないように強く言いたいが、私はこれらの問題を哲学的に重要とするのではない。哲学の中にも外にも、考えるべき大事なことはほかにいくらでもある。こういうことに関心がない者や聞いてもぴんと来ない者は程度が低いなどとはまったく考えない。ではなぜ書いたかというと、哲学者としての私のなかにはこのような面もあるということをどこかで記しておきたかったことが一つである。より大きな理由としては、もしかして同様な問題ないし感情があり、それを持つことで悩んだり恐れたりしている者がいるとしたら、似た者の存在を知ることで荷が軽くなればよいと思うことからである。


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≪画家説明≫Catia Chienは、ブラジルのサンパウロに生まれ野生動物とトロピカルフルーツに囲まれて育った。2004年に米国カリフォルニア州パサデナのArt Center College of Designを優等で卒業、現在はニューヨークのアートスタジオでイースト川と古い鉛筆工場の眺めを楽しみながら創作に励んでいる。Random House、Candlewick、Panda Press、Penguin、Houghton Mifflinなどのイラストを手掛けている。子供向け書籍の『The Longest Night』でSydney Taylor金賞、『Sea Serpent and Me』でSociety of Illustrators LA金賞を受賞。





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2019/06/04 08:09 2019/06/04 08:09
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哲学の端緒は「驚き」ではない(哲学の現在第三回:『メテウス』会報第23号)

 

哲学のはじめは「おどろき」であると言ったのはアリストテレスである。哲学の教科書や入門書のなかには、まるでこれが証明を必要としない公理か、哲学者すべての一致した見解であるかのように記してあるものがある。しかしこれはあくまでアリストテレスの意見に過ぎない。タレスをはじめ、彼以前の哲学者で明示的にこう言った者はいない。また内容的に考えて、たとえばソクラテスなどは明らかに異なる考えであろう。私自身もそうである。では何が哲学の端緒かと言われれば、一語で表すのは難しくはある。ただたとえばアウグスティヌスならば、幸福の追求といったところになろうが、こちらのほうがずっと腑に落ちる。

しかしアリストテレスが驚きを端緒としたのは「誤謬」というわけではなく、彼としては真実なのであろう。つまり哲学の端緒は一つではない。幸福の追求は彼の倫理学の主題になっており、つまり彼にとってどうでもいいことではない。しかしそれが彼の哲学全体の端緒でないということは、それが彼には最も重大なことではないということである。自分を不幸と嘆いている人や、自分の生き方に悩んでいる人ではないということである。つまり最も根本のところでは、満足しており、悩んでいない人なのである。そのような人にとっての驚きとは、単に知識欲を満たしたいということを出ない。彼は、「ただひたすら知らんがためにであって、なんらの効用のためでもな」いと言う(『形而上学』982)。この言い分は憎い。

批判の立場はいくつかある。アウグスティヌスやパスカルらからすれば「知のための知」の追求は、肉欲や権力欲とならぶ邪欲である。この批判は了解できるが、蒙昧主義(この二人はそうではないが)や、宗教的信仰の優位を前提させるものならば賛同できない。アリストテレスが、この知のための知を、生活に不自由せず安楽な暮らしが備わって可能になった、とぬけぬけということを憎む立場も了解できる。ただそこから、つまりしょせんそのような哲学は奴隷所有者階級のものであって現代の勤労者のものでない、というのは清算主義であり、器が小さすぎる。私としてはただ、人生に苦しみ悩み、なんとか救われたいともがいている者として、彼の余裕のすがたが憎らしいのだ。

むしろここでアリストテレスが、「純粋な観想」に対置するかたちで「生活の必要」を挙げることから判明するのは、彼がカントの言う「実践的」と「実用的」の区別をしないことである。彼の「実践哲学」が、カントの言う仮言的な問題設定になっている、つまり究極目的は与えられたうえでそのためには何をなす「べき」かというかたちになっていることである。カントの「実践理性の優位」に加えて、ハイデガーによる「好奇心」への批判も、「理論哲学」優位への批判と言える。ハイデガーがこれを、「世人」の「おしゃべり」などとともに「退落」とする構えと表裏一体の、彼特有の大衆蔑視は逆に批判されなければならないが、実存的な関心が知に先行するのが「本来的」だという主張は肯ける。

アリストテレスは最終目的や究極価値がなんであるかについてはあまり悩まず、彼の実践哲学(広義の倫理学)は問題の整理整頓や技術(テクネ―)の知という位置づけになり、ここから理論哲学なかんずく存在論が「第一哲学」とされる。これに同意しない私としては、むしろ倫理学が第一哲学だと言うレヴィナスに賛成する。アリストテレスの用語を使って(『分析論後書』71等)妥協をはかれば、存在論は「それ自体として先なるもの」であり、倫理学は「私達にとって先なるもの」と言えるかもしれない。しかしそれでもずれは残る。彼が「私達にとって先なるもの」というのは、認識の立場にたっての感覚などのことであり、ハーバーマスのいう「認識関心」ではないからである。

哲学の端緒は驚きではない。「驚きをはじめとする哲学もある」、が教科書ならせいぜい言えることである。そのような哲学とそうでない哲学とがあることを記し、どこからその違いが生じるのかを考えさせるならば、哲学書として悪くはあるまい。

苦悶や懐疑や絶望から考えないではいられない人、それらは特になく、ただ不思議な物事にうたれまたは興味をひかれ、知識を増やしたり疑問を解き明かしたりすることに、それ自体として大きな喜びを感じる人、両者の溝は、実人生においても、哲学においても、とても深い。


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2019/04/03 17:05 2019/04/03 17:05
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討ち入りの諸論点から(哲学の現在第二回:『メテウス』会報第22号)

 

いわゆる赤穂義士による吉良上野介への討ち入りの是非に関しては、いろいろな議論がなされている。以下はそれを整理しつつ自ら考えてみたい。

まず復讐を完全に否定すれば討ち入りは悪である。よってここではこの立場は考慮しない。復讐の是非はもちろん論議に値する問題だが、そのためにはわざわざこの問題をとりあげる必要はない。個別の問題を理論的に考察する場合には、ちゃぶ台返しは避けるべきであり、仮に前提そのものを否定するにしても、まず内在的に批判したうえで、そうなる以上前提を変えねばならない、と戻すべきである。同様に「封建的主従関係」をここで批判しても始まらない。かたき討ちをありうべきものとし、君臣関係を前提したうえでも、この討ち入りを非とする思想家は当時からいた。

吉良は浅野のかたきではないという批判論が、荻生徂徠や太宰春台などからなされている。浅野は吉良に殺されたのでなく、幕府による処罰として死刑になったからというのである。これに対して浅見絅斎は、直接の原因は幕府による処罰でも、そのもとにある本質的原因は吉良の振る舞いが浅野にとって許せぬものであったことで、彼にとって問題なのは吉良に対する遺恨を晴らすことであり、義士たちがそれを継ごうとしたのは当然であると答えている。これはもっともな論理である。かたき討ちをする者は、誰のかたきというその「誰」の恨みを果たすことである。不当な死の原因を究明するという合理的行為ではなく、恩義ある者の気持ちにこたえる、というのが道徳では優位になりうる。(浅野が、もっともな理由で吉良への刃傷に及んだことと遺志を家臣に託したこととは史実としては確証がないが、これも前提とする。)片手落ちという意味で幕府の裁定が不当であっても、それをただすということは陪臣である赤穂藩士の権能には属さない。

以上によってもまだ問題は残る。仮に浅野が死罪にはならなかったが、吉良をうてずに辱めを受けたままとなり、家臣に仇討ちを命じたとしたならば、今までの前提では彼等はそうすべきとなる。現実がこれと違うのは主君は死にお家は取り潰されたということである。これが意味するのは、その時点で大石らは旧赤穂藩士の浪人に過ぎず、もはや家臣ではないということである。それでも仇討すべきか。

法的には、そこまでする「義務」はない。大石らも、旧家臣は皆そうすべきだとは思っておらず、加わらなかった者(そのほうがずっと多い)を咎めていない。不参加者を非難した世人も、それを不法行為としてでなく不徳義な行為としてであった(その非難にはもっともなものも不当なものもある)。ここで明らかになることの一つは、道徳は伝統主義的であり得るが、法律は「いま生きている人」中心主義だということである。現在の法律でも、遺産相続は義務でなく放棄できる。これが行使されるのはふつう負の遺産、つまり借金を相続しないためである。法律だけで是非をいう立場に立てば不参加組は非難すべきでなく、むしろ参加組が違法行為として非となる。しかしそのような法律万能論はごく少数の奇論であろう(「セクハラ罪はない」という理由で配下を弁護した某大臣などはこれに属するかもしれないが)。一般的には法律は最低限の道徳と位置付けられている。法的義務でないが道徳的な行為がある(よきサマリア人のごとく)ように、違法ではなくても不道徳な行為もある。

しかしここで問題なのは、この討ち入りは道徳的であるとともに(許可を受けていないので)不法であることである。幕府の処置を正当とみなす林信篤は、士の道からは褒められるべき(打ち首論を退ける)で、法を犯した点で処罰されるべき(放免論を退ける)と、道徳的不法を認める。個人倫理としてはどうか。アイヒマンは合法であるがゆえに正当だとするのはごく少数で、道徳的不法もあり得ると認められるのではあるまいか。

伝統主義や道徳主義が最悪の結果をもたらした時代の体験者である丸山眞男が徂徠を評価したのは、政治的立法行為を正当性の源とする近代主義の先駆としてであった。十分理解できるし、正しく評価すべきであるが、今日では足りないところも考えてよいであろう。徂徠は討ち入りを義と認めないが、直方と違って情において酌量すべきとした(『四十七士の事を論ず』、なおいわゆる徂徠義律書は偽書であろう)。彼の学派は、法令の徒と文芸の徒に分裂した。現代哲学でローティが、社会思想ではハーバーマスやロールズに賛成しつつ、ニーチェやハイデガーを趣味の問題として両立できると言う(拙著『共感を考える』参照)のを思わせる。プラグマティズムとはそんなものだと言えばそれまでだが、それでいいのだろうか。個人の趣味とすべき事柄(たとえば文芸)と、公共的外的規範の領域(法)との間の橋渡しの機能として、倫理や哲学があるのではなかろうか。


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2019/04/03 16:14 2019/04/03 16:14
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哲学は科学ではない(哲学の現在第一回:『メテウス』会報第21号)

 

ちかごろ『哲学史』を上梓した(行人社、2018)。これをテキストとした学習会を主宰している。これには私を含め何人かの「メテウス」会員も参加している。似たような、つまり哲学的な問題に関心を持つ社会人による勉強会は前から行っている。そのなかでだんだん感じられるようになったことの一つに、「哲学」になじまない人が思っていた以上に多いということがある。直近では『共感の思想史』(創風社)『共感を考える』(同)『入門政治学』(東信堂)といった拙著を用いたので、哲学的領域も多いが分野にとらわれない勉強を志向していたのだが、「哲学史講座」になったことでより強く感じられるようになった。これはある意味では当たり前のことである。こちらは「哲学科」に入って出た後も同業者と「学ぶ」ことが多かったわけだが、それは世間のごく一部に過ぎないので、多くの人がそれほど「哲学的」でないのにいまさら驚くのが井蛙の見というものであろう。とはいえ資格を得られるわけでもない勉強会に来るのであるから、学ぶことや考えることが嫌いという意味で「非哲学的」というわけではない。むしろまじめかつ熱心であり、「哲学」に対しても関心や意欲が強い人々である。にもかかわらず私が哲学に「なじまない」と言ったのは、哲学を「科学」的にとらえようとすることである。

そのなかには、もっぱらまたは過度に「真偽」を追究する人々がいる。これは自然科学的知識への関心が強いか、その方面を既に学んできた者に多い。そのことは哲学の本質でないことがわかっておらず、科学の延長として哲学をイメージしているのである。高校の教科書も、この点を以下のように注意している。「これ〔科学〕に対して、哲学は、この人生、この現実が全体として何であり、またいかにあるべきかを問題にする。このようなことがらは、純粋に客観的な知識とはなりえず、各人一人ひとりがみずからの人生を生きつつ、それに向かって問うなかで明らかにされていくことである。したがって、哲学においては、自分自身にかわる問題として主体的に問うという態度が何よりも大切」(竹内整一・他著『倫理』東京書籍、201840頁、下線は引用者)と。また社会科学的思考の強い者やその分野を既に学んだ者は、哲学上の思想を真偽の問題とはしないが、もっぱらまたは過度に社会現象としてとらえ、何々哲学はこの時代のこの階級の思想である、というような解明をすれば事足れりとしがちである。哲学において真偽の問題がどうでもいいものではないように、こうした社会性の解明は重要ではある。しかしそれも「主体的」態度ではない。この時代に生まれこの環境で育ったので私は民主主義や男女平等を支持する、と言っても、そう言われたときの「私」は客体であって主体でない。

しかしそれなら哲学は宗教や趣味と同じなのか、と科学派は問う。客観的知識よりも主体的選択、という意味ではこれらは重なっている、と言ってよい。科学派はこれに、一元論か多元論か、実在論か不可知論か、といった論点は「一人ひとり」の選択であると仮に認めるにしても、ファシズムか民主主義かといった論点で、サッカーか野球かと同じではまずいのではないか、と言うかもしれない。これに対し、ポストモダン派はいや同じなのだと開き直り、他の多くの哲学は同じではないが、しかし科学とは違うやり方で扱われる、と答える。それらについての私の考えは機会が与えられれば別に述べることにして、ここで問題にしたいのは、たとえばファシズムの「偽」を科学的に示すべきだという科学派の考えである。哲学も科学にしようという哲学もあることは客観的事実であり、そのなかで現時点で有力なのは功利主義系であろう。勉強好きな科学派はベンサムの快楽計算はむしろ発想の基盤として、脳科学、ゲーム理論、ダーウィニズムによって、思想や社会の「妥当性」や「進化」を「説明」することに喜びを覚える。「主体的選択」が前提している「自由意志」は幻想なのであり、人間は脳内物質によって本質的に決定されている。対人行動は自らの快楽または「効用」を最大化するための戦略としてとらえられる。すぐれた社会制度とは、そのような各個人が「合理的」行動をしたときに、プレイヤー総員の利得が最大化されるようなものである。そしてそうでないものは淘汰されることによって社会も進化していく、という世界観・人生観である。

みてのとおり、ここには、道徳原理、自由意志論、社会思想、歴史観といった、伝統的哲学の諸問題もかかわっている。よってこうした世界観・人生観を、単に非哲学として門前払いするわけにもいかない。それらがいま強くなった理由をまさに科学的にも解明しつつ、哲学の問題としても対峙しなければならない。近頃の私の課題であり、苦しみである。



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Metis(メーティス)とはギリシャ神話に語れている「英智の女神」を意味します。

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2019/04/03 16:02 2019/04/03 16:02
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