西郷隆盛

日本史 2018/02/14 00:14

西郷隆盛

仲島陽一

 

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【1 序】 西郷隆盛は、歴史上の人物の人気投票をしたら、おそらく十指に入る有力な候補である。西郷についての私の考察は、明治維新との関連が重きを占めることになろう。まず次の問いを立てたい。①西郷はなぜ倒幕を決意したのか。その際彼は幕府に替わるものとしてどのような政権(および政策)を思い描いていたのか。②明治維新における西郷の位置および意味は何であったのか。③西郷はなぜ「征韓論」を唱えたのか。④西郷はなぜ「西南戦争」の将となったのか。

 第一の課題は以上の四つであるが、ついでに「西郷人気」の理由についても考えてみなければならない。①「判官びいき」としての西郷人気はわかりやすい。「革命」の功労者でありながら「冷徹」な「権力者」によって賊の汚名をきて非業の最期、というのは九郎判官義経と同じ図式である。とりわけ勝者である岩倉・大久保政権が必ずしも「大衆の味方」とは言えないだけに、その敵となった西郷への同情はわかりやすい。しかし私ははじめからこうした講談的評価には同感しなかった。義経に対する頼朝の裁きを正当とみる歴史的認識を持っていたのと同様、西郷の立場が大久保よりも「右」であり、その反抗はより反動的な側からのものであったことを認識していたからである。(塩冶判官や伊藤に追い落とされた大隈には同情ができる。)②しかしまた西郷の人気は、その「人柄」へのものがある。これに対して一部はもっともと思う半面、警戒心も抱きたくなる。そのような「人柄」は、今日、保守政治家においてときにみられる、あるいは彼等において比較的「理想」とされるものだからである。それははたしてすんなりと受け入れてよいものか。また伝えられるその「人柄」はそのまま実像とみてよいのか。少し調べていくうちに、「謀略政治家」西郷という面も目に入ってきただけに、考え直してみたい問題ではある。

 【2 幼少期・青年期】 西郷隆盛は、1827(文政10)年、薩摩藩の鹿児島で生まれた。幼名は小吉、青年時代は主に吉之助、維新後は父と同名の隆盛を名乗った。父の隆盛は郷士で、勘定方小頭を勤めていた。家は貧しく、隆盛を第一子に七人の子を得た(三男が従道)。同じ町の三つ年下に大久保利通がおり、早くから仲良しだった。

 1844年、18歳で郡方書役助の職につく。のち書方に昇進し、27歳まで勤めた。農村を巡回して村役人を監督指導する役である。

 【3 斉彬のもとで】 1851年、薩摩藩では島津斉彬が藩主となった。幕末の藩主で最も開明的な人物である。言路洞開に努めた彼は、西郷をその意見書によって注目する。ペリー来航の翌54年、藩主としての最初の参府となった斉彬は、随行した西郷を庭方役につけた。外交的根回しの任であり、水戸・越前などとの交渉に用いられた西郷は、藤田東湖、橋本左内などと交わるようになり、識見を高めた。57年、斉彬は西郷らを伴い帰藩。西郷は途中京都で僧月照に合う。

【4 逆境の日々】 同年、開明派の老中阿部正弘が39歳で病没。再び江戸詰を命ぜられた西郷は、将軍の後継ぎに一橋慶喜をつけるために奔走した。しかしこれに対抗した彦根藩の井伊直弼が巻き返して58年、大老になり、通商条約に調印するとともに将軍後継ぎを紀州の慶福とした(同年就任家茂)。徳川斉昭(水戸)・松平慶永(越前)・徳川慶恕(尾張)を謹慎、彼等が擁立しようとした慶喜を登城停止として弾圧を始めた(安政の大獄)。島津斉彬は薩摩で病没した。絶望した西郷は帰郷して殉死を思ったが、月照に止められた。その月照に幕府の追及が及んだので、西郷は彼を薩摩に落とした。しかし斉彬後の新藩主忠義の父として実権を握った久光は幕府をはばかり、月照を見殺しにすることにした。死を覚悟した彼に西郷は責任を感じ、ともに入水したが、彼だけが生き返り、奄美大島に流された。

 しかし1860年に桜田門で井伊は斬られ、情勢は変わってきた。島津久光は大久保利通らを連れ、挙兵上京を策した。この策を成功させるため西郷に帰藩命令が下り、62年2月に鹿児島に戻り、3月に発った。京阪に先乗りしていたいわゆる尊攘激派の暴発を抑えるため大阪に向かった西郷は、もとから彼に反感を抱いており彼への讒言を受けた久光によって、徳之島送りに処せられ、8月、さらに沖永良部島に移された。

【5 復帰と活躍】 1863年8月、薩摩と会津を中心とする公武合体派は宮廷クーデターに成功し、長州派公卿を追放した。彼等は権力の新たな中心として64年、参与会議(久光のほか、慶喜、春嶽、容堂、伊達宗城、松平容保)をつくったが、結束できず久光は孤立した。大久保利通による再登用の提議が容れられ、3月、赦免を受けた38歳の西郷は入京し、軍配役に任じられた。6月、池田屋の変で、長州を中心とする尊攘派が新選組によって大きな打撃を受けた。激高した長州は三家老を立てて武装上洛した。朝廷は動揺し、内大臣近衛忠房は西郷を呼んで意見を求めた。彼が是とした慶喜の論により、長州討伐の方針に定まった。7月、長州軍は攻撃を開始(禁門の変)。宮廷を守る十余藩の主力である薩摩軍はおおいに活躍して長州勢は撃退され、久坂玄瑞も戦中で死んだ。指揮に当たった西郷は名を高めた。彼は朝命が下った征長で長州をたたきのめすつもりであった。

【6 勝との出会いで転換】 このとき西郷は1864年9月、勝海舟とはじめて会った。その第一印象を彼は、「実に驚き入り候人物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候処、とんと頭を下げ申候」と大久保利通に書き送っている。「どれだけか知略の有るやら知れぬあんばいに見受け申候。……現事に臨み候ては、この勝先生とひどく惚れ申候」と告白させたこの幕府は、彼を軍艦奉行から罷免し、海軍操練所も閉鎖した幕府の腐敗ぶりをあけすけに話し、諸藩の尽力による改革も無益とした。ではどうしたらよいか。「明賢の諸侯四、五人も御会盟」して新政策を出せば「天下の大政も相立ち、国是相定ま」るという。これを聞いた西郷は「一度此策を用い候上は、いつまでも共和政治をやり通さず候ては相すみ申すまじく」と大久保に書いている。井上清によれば、この勝の「賢侯会議」、西郷の「共和政治」(無論本来の共和政のことではない)は、朝廷の諮問機関に過ぎなかった「参予会議」とは異なり、将軍を(最大の領主として相当の地位を与えつつも、)最高の執政権者とするのでなく、「雄藩連合」による日本全体を支配する政権(構想)であるという。それまでの西郷の意図は、薩摩藩が幕政に強力に参与することを通じた改革、であったろう。幕薩連合から、雄藩連合による政権へと、西郷の政治目標は変わった。これはいまだ倒幕論ではない。ただしこれによって長州をつぶすことや、それによって幕府権力を強化することはかえってよくない、という認識に転じた。10月、尾張藩主徳川慶勝が総督となり、その下で総参謀になった西郷は、戦わずに収拾する策を練った。11月広島に着く。三家老の切腹、藩主父子の謝罪などの成果をおさめた。尊攘派公卿の追放については、殺される覚悟で下関にはいり、この条件で征長軍を解兵させたほうが有利であることを高杉晋作や山県有朋に説いて容れられ、慶勝は12月に解兵した。

薩摩に帰る西郷に、勝は、操練所閉鎖で行き所をなくした門下生で、土佐脱藩の坂本龍馬を託した。坂本は西郷に紹介されたときの印象を勝にこう答えた。西郷は馬鹿である。その馬鹿の幅がわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。

この後幕府(引っ張ったのは将軍家茂でなく慶喜か?)は6510月、条約の勅許を勝ち取り、この問題を主導権獲得に利用しようとしていた雄藩連合派をくじいた。同月勢いに乗じて長州再征の勅許も得たが、これには従わない藩も多く、むしろ苦境を招いた。慶喜らとしては、長州をつぶして一挙に徳川絶対主義体制をつくろうとしたのであろうか。長州は、木戸・大村を中心にこれに備えるとともに、薩長同盟を結ぶという運びになる。661月、坂本龍馬の仲介で成立するこの第一次同盟は、防衛のためである。幕軍に対抗して藩を守るとか、藩主らの復権を図るとかいうことは必ずしも「倒幕」ではない。このとき既に、場合によっては、という含みがあったとみられるのであろうか。ないとしたらもう一つの疑問は、(それまで経済的協力の積み上げはあったが)薩摩はなぜこの同盟に踏み切ったかである。幕府による長州つぶしを許せば、次は薩摩だ、と考えたのであろうか。6月、第二次征長開始。薩摩は出兵拒否。幕軍の敗北相次ぐ。7月、将軍家茂が急死し、これを理由として9月、休戦が成って幕府は撤兵した。12月、新将軍についた慶喜は攻勢を強めた。しかし直後に反幕派に有利な状況も生じた。幕府との融和を求めていた孝明天皇が急死し、少年の明治天皇に替わったことである。雄藩連合派は兵庫開港を問題化して四候会議で主導権を得ようとしたが、慶喜に跳ね返され、1867年5月、挫折した。この結果、薩摩は挙兵倒幕の方針に至り、長州のほか、土佐の中岡慎太郎などが一つになった。これを圧力として利用しつつ、大政奉還したうえで徳川家も重要な役割を持つ新体制の構想を出したのが、坂本龍馬らの公議政体派である。西郷らはこの構想に支持を与えたが、「其の策を持出し候ても幕府に採用されなくは必然に付、右を塩に幕と手切の策にこれ有り。」云々(『防長回天史』)という目論見であった。7月、西郷は英公使パークスの懐刀サトウと会った。このときサトウはフランスが幕府を助けているのに対抗して、英は倒幕派を援助しようともちかけこれに対し西郷は、「日本の国体を立て貫いて参る上に、日本政体変革の処は、いずれとも我々尽力致すべき筋にて、外国の人に相談致し候面皮はこれ無く」云々ときっぱりと拒絶した。明治維新が外国の干渉・植民地化を許さなかった直接の原因として評価されてきた姿勢であるが、近年では英国は中立であったという見解が強くなっている(文献⑥)

10月に土佐藩がこの建白書を出すと、幕府はこれに応じて、朝廷に大政奉還を申し出、許可された。

 ただしその狙いは土佐藩と幕府とでは異なる。6月の「薩土盟約」では、「将軍職に居て政柄を執る、是れ天地間有るべからざるの理なり。宣く侯列に帰し、翼載を主とすべし」という立場からの「諸侯会議」を構想している。これに対し徳川慶喜に近い西周の議題草案では、「公方様即ち徳川家時の御当代を尊奉し奉りて是が元首となし、行法の権は悉く此の権に属し候事。」など、大政奉還後も、徳川家が最も強い統治権を保持することになる。(以後この立場を「公議政体論」および「公議政体派」と呼ぶ。)

【7 宮廷クーデター】 いずれにせよ「大政奉還」が実行されてしまったわけで、倒幕派はさしあたり挙兵の「塩」を失ってしまった。当時は朝廷そのものも、公議政体派のほうが有力であったのである。そこで残る手だてとしては、宮廷クーデターに訴えることになる。67129日、前日からの会議で罪を赦されたばかりの岩倉具視らが宮中に入り、薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の藩兵が出動して宮門をおさえた。大久保・西郷・岩倉らの計画による。宮廷守備にあたっていた会津・桑名の兵は、抵抗せずに二条城にひいた。宮中では召命を受けた親王・公卿にさきの五藩の代表等が集まった夕方、「王政復古の大号令」により、幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職をおき、その任命が行われた。

 これに基づき、同日夜から最初の三職会議が小御所で開かれた。公議政体派の前土佐藩主山内容堂が慶喜の参加を求め、これに対し岩倉らは幕政を非難し、まず慶喜が「忠誠の実証」として辞官・納地を行うことを求めた。これに容堂や松平春嶽(前越前藩主)らが反対し、公卿陣は動揺した。休憩となったとき、参与の岩下佐次右衛門(薩摩藩士)は西郷に相談したが、彼は「短刀一本あれば片付くことではないか。このことを、岩倉公にも一蔵〔大久保〕にも、よくつたえてくれ。」と言ったという。岩倉はこれを聞いて短刀を懐に入れた。しかしその決意を知った参与後藤象二郎(土佐藩士)が容堂と春嶽を説得し、彼等も抵抗を諦めたので朝議は慶喜への辞官・納地命令を決定した。宮廷クーデターは成功した。

 このクーデターにおける西郷の役割をどう評価すべきであろうか。第一に彼はけっしてイメージ通りの「大衆政治家」ではない。そうであったなら、もし「王政復古」あるいは幕府の廃止が正義だとしたら、そのために頼るべきは民衆であるはずで、宮廷クーデターではないからである。第二に、彼の「短刀一本」の一言によってこのクーデターが成功したというのは結果論に過ぎない。もし天皇の前で岩倉が容堂を刺すような事態になったとしたら、会議は、ひいては政局は大混乱になったかもしれないのである。もし西郷が主観的には民衆のために倒幕・王政復古が必要だと思っていたとしても、彼のやり方は、人民大衆を重んじず、一部陰謀家のクーデターやテロリズムを過大評価する点で、「極『左』冒険主義的」なのではなかろうか。「これまで、西郷にふさわしい、殺気を含んだこの一言こそが、新政府を生み出したと評されてきた」。しかし、と井上氏は言う、公議政体派(容堂)の「十分に根拠のある発言に対して、天皇の権威と藩の武力を背景にして押しつぶす、恫喝以外のなにものでもなかった」(文献⑥156頁)。

【8 西郷の撹乱と挑発】 小御所会議で一旦屈した公議政体派もただちに巻き返しに出、1230日の朝廷は、徳川家の納地は謝罪のためでなく、政府経費のためとし、また続いて他の諸侯にも同様の負担とし、辞官については「前内大臣」の称を許した。9日の決定の完全な骨抜きである。その間慶喜は大阪城に下がって兵の再結集を図った。ここで西郷が改めて「短刀」に訴えることとなる。

 先立つ10月、慶喜の大政奉還によって武力倒幕の「塩」を失った西郷は、江戸の薩摩藩士益満休之助・伊牟田商平、郷士相楽総三らに秘策を授けていた。彼等は倒幕をめざす志士(国学関係者が多い)や多数の無頼の徒、合わせて約五百名を配下に置いた。後者は相楽が毎晩市中で強そうな浪人やごろつきにわざと喧嘩を売り、羽織や金を与えては「食えなかったら薩摩屋敷へ来い」と言って糾合したものである。彼等は市中を横行して富豪等の家に押し入り、たかり・暴行・略奪をはたらいた。幕府兵力を江戸に釘づけにし、幕府の力の衰えを人々に印象づけ、かつ幕府を挑発して軍事行動へと導くという一石三鳥の策であった。しかしこうした撹乱・挑発策は「大衆政治家」の策ではなく、乱暴きわまりない暴力団的策である。「過激派テロリスト」にして「暴力団の親分」としての西郷! 1225日、ついに幕府側は庄内藩兵らを中心に薩摩藩邸を攻撃、焼き払い、この知らせは28日に大阪城にも着いた。慶喜らは68年正月1日「討薩の表」をつくり、2日、京都に向けて軍事行動を開始した。西郷の挑発はきわどいところで成功したのである。

【9 戊辰戦争】 正月3日、朝廷は、幕軍が撤退しなければ朝敵として討伐することを決定、同日両軍は京都の鳥羽および伏見で交戦状態に入ったが、6日に幕軍の総崩れになり、慶喜は大阪城から船で江戸に逃げ帰った。7日、朝廷は慶喜の大政奉還は名のみの詐謀であり、その「大逆無道」を責めて慶喜追討令を出し、内乱の公然化、全国化に進んだ。

この内乱(戊辰戦争)の重要場面であり、西郷礼賛の一根拠になっているのが、勝との対面による江戸城開け渡しである。江戸に戻った慶喜は、まもなく「官軍」との抗戦姿勢から「謝罪恭順」に方針を変えた。それでも西郷らは、「是非切腹までには参り申さず候ては相すまず」(大久保あて書簡)という心づもりであった。それが慶喜はじめ抵抗しなかった幕府側は赦され、江戸市民が内乱に巻き込まれなかったのは、勝と西郷との「すぐれた人間的資質」によるものであったのか。井上清によれば、これは官軍強硬派が民衆の力を恐れたからである。すなわち一揆・うちこわしは、それを倒幕のために利用しようとした官軍の思惑を越える秩序変革へと動いており、官軍はむしろその弾圧にまわっている。しかるにその段階で謝っている慶喜を追い討ちにして戦争に持ち込むことは火に油を注ぐことであり、江戸民衆も、(勝の西郷あて書簡の脅迫的文句を借りれば)「今日の大変に乗じてなにをするかわからない」と思ったからだ、というのである。また石井孝は、西郷の方針変更の原因を英公使パークスの圧力に求める。すなわち勝・西郷会談の前日、パークスは(イギリスの利益のために)、江戸の戦乱を望まぬ意向を西郷に告げた。しかもこれには事前に勝がパークスに根回ししていたという(文献④209-212頁)。これに対し井上氏は、勝・西郷会談で決められたものと「基本的には同じ」条件は既に(3月9日)駿府で決められていたという論拠で、これを批判している(文献②102頁)。石井氏はパークスの力を過大評価しているとは言えそうであるが、パークスの言葉が講和の条件を徳川家にとって有利なものにした(④214215頁)ということは言えよう。江戸開城はこうした複雑な政治状況とかけひきの産物であって、けっして単に「両雄」の「至誠」と「度量」が生み出した「美談」ではなかった。

10 帰郷】 今まで私達は大陰謀家・策士としての西郷をみた。しかしこれがあたって政変の最大の功績者になったとき、彼は新政府の職につかず、あっさりと帰郷してしまう。これは彼が権力欲の強い政治家ではなく、むしろ通説のような彼の「無欲」さを、かなりの程度まで証明する。しかしこれと今までみた西郷の異常な頑張りとはどう調和させられるのか。ここから断案するならば、西郷は「狂信者」型の人間、己れの信念のためには己れおよび他人の犠牲も顧みず屈せずに働くが、利のためではないということである。①「狂信者」であり、②熱情と酷薄さを合わせ持つ、いささか冒険主義的、「小児病」的な「革命家」であり、③「身内」意識の相手には義理と人情に厚いが、そうでない者には冷淡か残酷な「やくざの親分」、である西郷! 内村鑑三が感心するのは①の西郷であり、井上清が共感を寄せるのは②の西郷であり、現代の保守的政治家が崇めるのは③の「大西郷」である。

11 征韓論】 まず注目すべきは、征韓論は西郷だけのものではないことである。木戸孝允はほとんど明治維新と同時に唱えていたし、西郷の征韓論に反対した大久保らも「内治優先」を唱えたのであって征韓そのものに反対ではない。また73年の征韓派仲間でも、板垣退助のそれは西郷のものとまったく同じではない。ここでは73年の西郷の征韓論だけを考えることにする。

 紙数の制約で大要だけを述べる。①朝鮮の日本への「無礼」というのは、征韓論の原因ではなくて口実であり、少なくとも戦争の理由としてはまったくのいいがかりである。②征韓論(73年の、また西郷のに限らず)の真の原因は、維新以前から少なくとも日清戦争(94年)に至る、倒幕勢力の思想構造自体の中にみいだされなければならない。③73年における西郷と大久保の対立は、征韓それ自体の問題ではなく、今征韓するか内治を優先するかというものであった。内治優先論の論拠の一つが、岩倉遣欧使節による、わが国の大きな遅れの自覚にあることは明らかである。では西郷はなぜ今征韓しなければならないと思ったのか。このままでは士族が没落するか、あるには既に始まり出したように彼等の反乱を招くであろうからである。西郷はそのどちらも望まなかった。(前者を望まなかった理由は、筆者もまだ納得できるところまで分析しきれていない。勉強不足のせいもあるが、結局西郷の政治理想が何であったのかがいまひとつつかめないのである。義理人情の「親分」的政治家には、自分の政治理想を意識化することは難しいのかもしれないが。)そこで西郷は士族を生かすために(殺すためにではなく)征韓を行い、返す刀で(この戦略がまたすこぶる不明瞭だが)士族により厚い政権へと第二の政変を狙う意図であったと考えられる。すると征韓論争は外交論争ではなく、実は新政権そのものの路線を争う政治闘争であったということになる(井上氏の表現だと大久保の「官僚独裁」路線と西郷の「士族独裁」路線)。

12 西南戦争】 73年、征韓論に敗れて下野した西郷は、77年、西南戦争でついに倒れた。維新の英雄は、十年後にして「逆賊」として討たれた。この戦争に西郷は積極的ではなかった。「不平士族」にひっぱり出される形で、西郷は起たされた。大久保政権を倒す気が下野後の西郷にあったとするならば、その実際行動は、「戦略家」西郷としてはあまりに無策である。したがって彼の立場は他の「不平士族」ほど頑迷ではない。しかしまた大久保らと組んでいけるほど「近代的」でもない。西郷は「政治の道徳的理想」については強烈なものを持っていたと思われるが、明確な「政治理想」は一貫して持たなかったのではなかろうか。

13 西郷の評価】 西南戦争では、気の毒な面はあるとはいえ、彼を評価するものはほとんどいないが、妥当であろう。征韓論と西郷との関係については、一部異論もあるが、否定的な評価のほうがかなり多く、私もそう考える。政治家としての西郷を評価するのに最も挙げられるのは、明治維新の大たてものとしてである。しかしこの面でも私は彼をあまり評価しないが、それは明治維新をそう肯定的には評価しないからである。なぜなら第一に明治維新は市民革命ではないからである。それは近代化ないし絶対主義化とも同一視できない。それらは徳川家主導でもできた。明治維新とは、この改革を誰が主導するかという権力争いであった。そして私は、それは薩長・朝廷中心でなく、公議政体派の、つまり坂本龍馬や横井小楠の線で行われたほうがよかったと考える。薩摩がその路線に乗ることも不可能ではなかったと考える。西郷らがその路線を選ばなかったのは誤りであったと考えるが、しかしその要因としては慶喜の「不徳の致すところ」のほうが大きいように思われる。彼がめざしていたところは倒幕派に劣っていたとは思われないが、徳がなく策と力に頼りすぎた。越前・土佐はもちろん、うまくやれば木戸や大久保も取り込めたのではなかろうか。しかし幕臣勝(彼は家茂とはうまくやっていた)にさえ、愛想をつかされるところがあり、長州だけでなく西郷らも敵に回して自滅したのではなかろうか。西郷は「近代政治家」としては私は評価しないが、この点で、巧みな軍略家としてだけでなく、私心を離れた徳望を持っていたことによって、大きな仕事と影響力とを残したように思われる

 

        【参考文献】

  小西四郎『日本の歴史、19、開国と攘夷』中公文庫、1974

  井上清『日本の歴史、20、明治維新』中公文庫、1974

   同 『西郷隆盛』(上)(下)中公新書、197O

  石井孝『明治維新の舞台裏』岩波新書、196O

  猪飼隆明『西郷隆盛――西南戦争への道――』岩波新書、1992

  井上勝生『幕末・維新』岩波新書、2006

  内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫、1941


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仲島先生の本を紹介します。
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2018/02/14 00:14 2018/02/14 00:14
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日本六大悪人  その二 伊藤博文
                                                                  
仲島陽一


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 【前置き】 「その一 吉田茂」の読者の多くは、「その二」の対象が伊藤博文であることを予想したであろう。その主な理由は吉田をとりあげたわけからである。わけの第一は、明らかであることほどわざわざとりあげる値打ちは低くなるからであり、この意味でたとえば東条や岸より敢て吉田を「悪人」としてとりあげることに意義が多いと考えるからであった。第二のわけは、「事件」的な「悪」よりも「体制」的な「悪」のほうがより重要だからである。さらに歴史的対象の「善悪」をあげつらうあり方の例として、「大日本国憲法」の場合を(「その二」を予想してもらうための読者サーヴィスも兼ねて)挙げておいたからである。よって「日本六大悪人」の二番目が近代の人であろうとさえ想像すれば、(たとえば悪人イメージが既に強い山県有朋などより、そして「偉人」視もいまだに強い)近代日本の「体制」の創設者である伊藤博文が浮かび上がるはずである。

 【幼少年時代】 伊藤博文は、1841(天保11)年、周防国熊毛郡束荷村(現:山口県光市)に生まれた。父の林十蔵は村の庄屋を務める本家を補佐する畔頭、母は琴。すなわち農民であり、あまり豊かでもなかった。幼名は利助で数度改名するが、以下断らない。長男である。46年、父は破産して単身で萩に出、伊藤は母とともに母の実家に預けられた。父は足軽伊藤直右衛門に仕えて気に入られ、その養子となり足軽身分となり、49年妻子を呼び寄せた。53年、ペリー来航は12歳で迎える。

 56年、幕命で海防を分担した長州藩の従者の一人として相模に赴任。そこで来原良蔵に見込まれ、教えを受ける。来原は桂小五郎(木戸孝允)の妹を妻としていた。翌年の帰国に際し吉田松陰への紹介状をもらった。

 【青年テロリスト】 1857年(16歳)、来原良蔵の紹介で松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受ける。伊藤を考える際まず考慮すべきなのはこのことである。松蔭(拙稿「日本春秋 吉田松陰篇」『理念』第70号、1998、参照)もこのシリーズに入れたいほどの人物であり、伊藤が「日本六大悪人」入りできた大きな要因はこの大悪人が彼の師であったことに求められる。58年、松蔭の推薦により、学習のため藩より選ばれた青年六人の一人として京都に派遣された。同じく選ばれた一人で三歳年長の山県狂介(有朋)と知る。

1859年、来原はその義兄木戸の従者として伊藤を江戸に送る。その藩邸に住み、六歳上の藩士井上馨と知る。吉田松陰、刑死。「外国密航を企てたり、幕政を批判したからである」と伊藤之雄氏がしている(①30頁)のは間違いである。老中暗殺計画による。伊藤は木戸について遺体を受け取り、埋葬した。またその遺志を継ぎ、過激な尊攘派としてテロにはしる。1862年、松蔭の高弟であった高杉晋作(拙稿「日本春秋 高杉晋作篇」『理念』第42号、1991、参照)らとともに英国公使館を焼き討ち。また藩士山尾庸三らとともに、廃帝を調べているとして国学者塙次郎を斬殺した。

【藩内での台頭】 1863年、こうした「活躍」により「準士雇」にとりたてられた。入江九一の妹すみと結婚。

1863年、藩は航海術習得のため、井上馨・野村弥吉・遠藤謹助・山尾庸三とともに伊藤をイギリスに密留学させることに決めた。藩が攘夷の実行として下関で外国船の砲撃を始めた二日後、彼等は出発した。上海で既に井上は攘夷の誤りを感じたが、ロンドンで伊藤も同調した。と言われ、ふつうの意味ではこれを間違いとは言わないが、本質的な意味では伊藤の尊攘思想は生涯変わらなかった、と私は考える。「攘夷」に関して言うと、「現在」「テロという方法での」ものは否定した。しかし<暴力的手段を含めて自国の利害を追求すべきである>という意味に「攘夷」思想を広げれば、彼がそれをやめたしるしはみられない。すなわちこのように改変された尊攘を目的としつつ、彼はイギリスでまず英語を学び、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで海軍に関係の深い講義をとった。

1864年、しかし弱い「現在」、外国船砲撃という稚拙かつ無謀な方法での「攘夷」を藩が行ったことを知り、やめさせるために井上とともに日本に帰国。イギリス滞在はわずか半年ほどに過ぎない。しかし、日常会話程度の英語はできるようになり、なにより先進国の実態を直接目にしたことは大きな経験となった。藩は帰国した二人の意見を容れず、むしろ二人の立場も悪くなった。7月、藩は池田屋の変への復讐心などで、京都で幕府軍に開戦、敗れ(禁門の変)、久坂は死に、木戸は隠れた。幕府はこれにより長州征伐を決定。他方で四国艦隊は8月、下関を砲撃。戦闘に敗れた藩は高杉晋作を講和使、伊藤・井上を通訳として講和を結んだ。幕府に対してははじめ恭順策をとり、三家老切腹などの処分を行った。これを不服とした高杉は挙兵、伊藤が加わり、奇兵隊を率いる山県有朋なども合流して藩の正規軍に勝利し、藩の方針を幕府との対決に戻した。ただしそれは同時に攘夷派の復活でもあった。しかし65年に戻った木戸が藩内の融和を実現させ、高杉、伊藤、井上などのほか大村益次郎を抜擢して幕府の再征に備えた。また坂本竜馬と会い、怨念のある薩摩と組むことを決断した。66年、薩長同盟締結。すみ子と離婚し、仲仕(船に荷を積む人足)の娘梅子(当時十六歳)と結婚。幕府、第二次長州征伐。グラバーとともに上海に行き汽船を買い入れる。67年、士雇に昇進。高杉晋作、死。幕府、大政奉還。討幕派、王政復古のクーデター決行。

68年1月、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争の開始。

【新政府の官僚】 同1月、日本人と外国人との衝突事件のことを聞いた伊藤は旧知のイギリス公使パークスに会ったが、彼から新政府の知らせがないと苦情を耳にした。彼はこれをただちに新政府に告げ、外国事務取調掛の東久世通禮がこれを受け入れて諸外国代表に政権移行を伝えるとともに、彼を外国事務掛に任じた。5月、大阪府判事兼外国事務官に、続いて外国に開かれた神戸港を管轄する兵庫県知事に合わせて任じられる。対外的関係から集権国家の必要を感じて廃藩置県に向けた提言を提出し岩倉具視に気に入られるが、69年、保守派の反発によって判事に降格。

69年、会計官権判事に任じられ中央政界入り(27歳)。版籍奉還に際し、旧藩主の知事世襲に反対し井上とともに辞表提出。これにより世襲は撤回された。新官制で大蔵小輔に、続いて兼職で民部小輔に任じられる(大輔はともに三歳上で佐賀出身の大隈重信)。70年、三浦五郎(悟郎)を兵部省に推薦、権小丞として入省させた。財政幣制調査のため福地源一郎らとともに渡米。71年、帰国。同5月、彼の建議により政府、新価条例を制定。6月、大蔵卿は大久保に交替。9月、工部大輔に就任。

【岩倉使節団】 7111月、岩倉使節団の副使として出国。他の副使は木戸・大久保・伊藤・山口尚芳(佐賀出身、外務小輔)である。この使節団の第一目的は条約改正であったが、最初の交渉相手アメリカから全権委任状がないことを指摘され、72年、これを受け取りに大久保利通とともに一時帰国した。半年後にこれを得た使節団は交渉を始めたが、「最恵国待遇」の意味をはじめて理解するなどで、6月、交渉の中止を決定し、第一の目的は挫折した。これらにより伊藤は木戸からの信用を少し失った。他方、大久保は欧米を直接見聞することでより進歩的な見地をとることになり、伊藤との関係をよくした。ヨーロッパでは、73年、ドイツで皇帝と宰相ビスマルクに会見。渡欧中、井上馨の兄の子勇吉(博邦)を養子とする(後に伊藤家を継ぐ)。

【近代帝国への道】 1873年、使節団の帰国を迎えた留守政府では征韓論が強まっていた。8月の閣議は、岩倉帰国後の再評価という条件付で、出兵を含んだ朝鮮への使節派遣を決めていた。9月、帰国した岩倉・伊藤らは内治優先の考えから反対し、大久保を参議に入れて覆そうとしたが、政府は割れ、最高官の三条実美太政大臣は病に倒れた。そこで岩倉が太政大臣臨時代理となり、使節派遣に反対する上奏を出し、容れられた。これにより10月、征韓派の西郷・板垣・江藤・後藤・副島が参議を辞職。伊藤は参議兼工部卿になった(32歳)。優先すべき「内治」のため、11月、政体取調べを命じられる。

しかしまずは下野した参議を巻き込んでの反政府運動が強まった。74年、板垣・後藤・副島らは民選議員設立建白書を提出し、ここに自由民権運動が始まった。他方武力蜂起を起こす不平士族の乱が続き、同74年、佐賀の乱で江藤らは処刑された。

74年、征韓同様に中国との戦争のおそれを含む台湾出兵を政府は計画。英米などの抗議によりいったん延期を決めたが、長崎で準備中の西郷従道司令官は命令を無視して出兵、政府は事後承認した。近代日本の宿瘂となりある意味で「死に至る病」になった、軍の独走と政府の追随」の第一号である。出兵自体にも反対であった木戸は激怒して参議を辞任。しかし伊藤は追随を認め、むしろ木戸離れを強めて大久保を支える姿勢になっていった。諸方面からの反対に対抗するため政府は木戸の復帰を願い、台湾問題が無事収まると、伊藤がその根回しをし、18751月、大阪会議を経て木戸と板垣の参議への復帰が実現した。またその際の合意に基づき4月、漸次立憲政体樹立の詔が出され、立憲国家への道が開かれた。他方で新聞紙条例などで言論弾圧の制度も整えた。

75年、日本の軍艦が朝鮮のソウルに近い領海に立ち入り測量を実施、射撃を受けると江華島の砲台を占領した。黒田清隆を使節として朝鮮の「暴挙」を詰問することになり、これも戦争のおそれを含んだ上での決定であった。76年、黒田は軍艦で威圧し、日朝修好条規を結んで帰国した。戦争は避けられたが、これは朝鮮に不利な不平等条約である。一連の動きからわかるように、伊藤(と政府主流)は現時点での戦争はなるべく避けたいと望んではいたが平和主義でないのは勿論、絶対に戦争を避けるという方針ではなく、また近隣諸国と対等に交際するのでなく力づくで支配しようとする方針であった。(健康も悪化していた木戸は再び辞任。)ここで明治政府の対朝鮮問題に論及しよう。その「独立」を助けるためという言い分は、併合の事実により反証されるが、もともとは中国(清)が宗主国であったため、日本が支配するにはまず「独立国」であることを認めさせなければならなかったからである。また近代化を助け欧米列強から守るためという言い分もあるが、それならまず自らが強いた不平等条約を改めねばなるまい。伊藤を含め日本政府は強いられた不平等条約でどれだけ苦しんだかを熟知しながら、朝鮮に対してはそれを強い、やめようとはしなかった。それで朝鮮(韓国)が日本を本気で信じたら不思議である。

1877年、西南戦争。薩摩の不平士族、反乱に敗れ、西郷は自刃。その間、木戸も病死1878年、大久保利通、暗殺される

「琉球王国」は明治維新後も日清両属を望んでいた。直接のきっかけは漁民の殺害であるが、台湾出兵の本質はこの地の領有であった。中国がこの件での発言権を失った後、日本政府は琉球藩を廃し県を置くことを決定したが、藩王尚泰ははじめ拒否した。政府は79年、警察と軍を伴って使節を送り、彼を東京に行かせて初代の県令が来て「琉球処分」を終えた。

ここで日本は近代国家形成の第一段階を終えた。それは欧米からの不平等条約を負ったままで、朝鮮や中国には攻撃的で従属させる形での国家形成であった。その過程において伊藤は主導的な役割を果した一人であった。

【大隈との政争】 明治維新は内外の危機を契機に、外様雄藩の下級武士を中心に反幕府の権力闘争を通じた、絶対主義的近代国民国家への政変であった。新政府は天皇を権威としてかついだ藩閥の「有司専制」として、「上からの近代化」を憲法も議会もつくらずに進めた。これに反対する自由民権運動は不平士族の反動という側面を西南戦争後薄め、民主主義革命運動として(豪農を含む市民中心に)もりあがってきた

三条と岩倉は、憲法制定に関して各参議に意見を出させることにした。黒田は国会開設尚早論を出した。山県、井上は積極論だが、いつ誰がどんな憲法を決めるのかは明確でない。伊藤は意見書を井上毅に起草させ、8012月に上奏した。国会開設はやはりまだで、当面元老院拡充などで準備するというものである。その元老院は憲法草案を出したが伊藤は「日本の国体」などを考慮しないものとして批判し、元老院国憲取調局を閉じた。

18813月、大隈重信は、英国流議院内閣制による憲法を本年制定し、83年に国会を開くという意見書を左大臣有栖川宮熾人親王を通じて上奏した。同年6月、これを見た岩倉は井上毅の意見を求め、プロイセン流欽定憲法主義を説く意見書を彼から受け取った。7月、伊藤は大隈に対し、「君権を民権に放棄する」彼の構想には同期できず、参議にあって「福沢〔諭吉〕のごときものの代理」を務めることと批判した。同月、北海道開拓使官有物払い下げが聴許され、これへの批判が起こった。伊藤は岩倉のほか盟友の井上馨、払い下げ問題で追及された黒田らと連携した。10月、彼等は大隈の免官を上奏し、受け入れられた。大隈、参議を辞し下野(明治十四年の政変)。翌日、政府は官有物払い下げの取り消しと1890年の国会開設を発表した。ここで伊藤の実質的な最高権力が確立した。それは上からは明治天皇と岩倉の支持を受け、山県・井上の長州閥と連携し、黒田・西郷従道・松方正義・大山巌の薩摩閥とも結ぶかたちでつくられた。

伊藤がこの政変を断行したことについては、いくつかの理由が挙げられている。憲法構想での対立。政府内部での主導権争い。憲法制定や国会開設の時期をめぐる対立。大隈を福沢と結びついたものとみ、さらにその背後に民権勢力を見て、そちらに権力を奪われまいとする国家全体の権力闘争。――これらの関係をどうみるかについては見解の違いや対立がある。なお大隈の背後に岩崎(三菱)があり、これと黒田の背後の五代友厚さらには三井(井上馨と緊密)との対立関係が絡まること、しかし最大の要因でないことは共通に認められている。ふつうはaで説明されるが、伊藤が議院内閣制の原理的反対者でなかったことは文献①②の強調するとおりであり、これだけなら最大で妥協の余地があり、少なくとも大隈追放まで考えなかった可能性は小さくない。①はcを最重視するようだが、時期尚早論が客観的に妥当しゆえにそれを理由にした伊藤の怒りが妥当する、という認識に私は同感できない。私はむしろd、しかもその後半部を最重視したい。岩倉や伊藤は、政府の外の幅広い人民の政治闘争を最も恐れ、それに支えられている限りでの、当時としては半ば外の福沢を憂慮し中の大隈に怒ったのではなかろうか。それとの関係でcも意味を持つと思われる。(①②にはこの視点がなく国民不在である。)なお①は「大隈の裏切り」と書くが、当時の伊藤の心理からの表現としてはあり得ても、大隈の行動が客観的にそう言えるかは微妙であろう。

以上は事実問題での論点だが、評価としてはどうか。「大日本帝国憲法」はこの政争の帰結という面が強いので、伊藤が「悪人」かどうかに関して最大の論点と言えるかもしれない。従来から言っているように、憲法や国会制定はこのときの大勢であるから、それをもって伊藤の功績とするのは筋違いであり、問題はどのような憲法か、である。そうしてみると伊藤のものが天皇主権によるという点で悪い。大隈の構想がましであるが、この点では自由党系や私擬憲法案には国民主権を明示したものがあり、はっきりまさる。伊藤はこれを退け、自由民権運動を仮借なく弾圧して悪い憲法をつくった。「尊皇」家としてまっとうしたと言うべきであろう。

【明治憲法への道】 82年、憲法調査のため欧州に出発。83年、主にドイツ、オーストリアに学んで帰国。843月、宮中に制度取調局設置。同3月、宮内卿に就任。7月、華族令制定。

85年、甲申事変の処理のため清国に派遣される。李鴻章との間で天津条約調印。

85年、内閣制度を創設、初代総理大臣に任命される。86年、帝国大学創設。86年、コレラ天然痘チフス赤痢の伝染病で14万人以上死亡。伊藤首相は日本橋の待合に通って16歳で水揚げした芸妓奴(後の川上貞奴)を寵愛。湘南の別荘にも呼び寄せ、体にぴったりつくフランス製の水着を着せて喜んだ。

87年、「鹿鳴館外交」の井上馨、植民地的な「条約改正」を「三大建白」を展開する民権派に批判され外相を辞任、伊藤が兼務(882月まで)。

88年、首相を辞任し、開設された枢密院の初代議長に就任。

1889年、大日本帝国憲法発布。その直前の様子を、東大医学部のお雇い外国人で、天皇や政府高官の診察も行ったベルツは日記にこう記した。「東京全市は〔…〕言語に絶した騒ぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ」。このように明治憲法は、発布されるまでは国民はその内容を知らされず、徹底した秘密主義でつくられた。これは内容に劣らぬ悪い点である。もし国民によいものと思うなら、せめて徹底して公開して作成し、批判意見にも耳を傾けて反論するなり取り入れるなりすればよい。そして第三に、そして私はこれが実は最大の悪い点と考えるのだが、これを(つくったのは伊藤その他だが)決めたのが天皇である(欽定憲法)ということである。政治では「何が決められているか」以上に「誰が決めることができるか」が重要だからである。

【初期議会から日清戦争まで】 1890年、第一回帝国議会開会。

91年、大津事件。

92年、政党の結成を企てるも天皇の反対で実現せず。

 同92年、第二次内閣成立。

1894年、日清戦争勃発。95年、下関条約締結。

【日露戦争まで】 95年、三国干渉。

96年、首相を辞職。

 98年1月、第三次内閣成立。

98年6月、自由・進歩両党が合流し、憲政党を結成。同6月、憲政党に対抗して政党結成を再び唱えるが、山県有朋らは反対。首相を辞職し後任に板垣・大隈を奏薦し、大隈重信内閣(隈板内閣)成立。

同年8月、清韓漫遊に発つ。韓国の高宗と会見。同9月、清国の慶親王、康有為と会見、光緒帝に謁見。同9月、西太后、戊戌政変を起こし、康有為らは失脚。伊藤、梁啓超を日本軍艦で日本に亡命させる。11月、帰国。

99年、全国遊説を開始。同年、宮中の帝室制度調査局を設置し、初代総裁に就任(翌年辞任)。

 1900年、立憲政友会を設立。同年、第四次内閣成立。陸・海・外相以外は政友会員。

  01年、首相を辞任。同年、エール大学より名誉博士号授与のため渡米。同年、日露協商につきロシアのラムズドルフ外相と交渉を開始。同年、元老会議、日英同盟修正案を承認。

02年、日英同盟、ロンドンで調印。

03年、枢密院議長に就任。

 【日露戦争から死まで】 1904年、2日露戦争開始。3月、韓国皇室「慰問」のため渡韓、皇帝に謁見。5月、政府、対韓施設綱領を決定。8月、第一次日韓協約締結。05年4月、韓国保護権確立を閣議決定。9月、ポーツマス条約調印。11月、渡韓し外交権を剥奪する内容を含む日韓協約の調印を皇帝に迫る。第二次日韓協約の調印を大臣たちに強請。同年12月、初代韓国統監に任じられる。06年、韓国皇帝に対し、日韓協約の遵守を迫り、韓国宮中の「近代化」に着手、宮中出入りを取り締まる。日本人をはじめとする外国人の土地所有を合法化。07年7月、韓国高宗、この協約無効を世界に訴えるハーグ密使事件。実らず高宗退位。第三次日韓協約締結。保安法を制定、言論、集会、結社の自由を制限。8月、韓国軍を解散させる。「軍令に関する件」(軍令第一号)裁可。侯爵に叙せられる。08年、新聞紙法制定、言論統制強化。09年、桂首相、小村外相により韓国併合を説得され承諾。6月、韓国総監を辞任。閣議、韓国併合の方針を決定。10月、ハルビンにおいて伊藤を自国支配の元凶とする韓国青年安重根により暗殺される、68歳。11月、陪臣出身者として初の国葬。

 【補論】 伊藤の暗殺は今日の日韓関係にも尾を引いている。日本では伊藤の帝国主義者としての面がよく知られずに単純な英雄視から、安を評価する韓国人の気持ちをわからず韓国への反感の要因とする場合がある。他方韓国人には、安の人柄や意図を汲むあまり、暗殺という行為まで肯定して彼を英雄視してしまうという問題がある。どんな立派な人が立派な意図で行っても、テロは正しい方法ではない。実際韓国は、朴政権がテロで倒れた後さらに悪い政治が行われ、民主化は民衆自身の運動でしか実現できなかったことを体験したばかりであるはずである。伊藤は韓国の併合に(最終的には反対でなかったが)積極的ではなかった。彼が倒されなかったら翌1910年の併合はなかったかもしれないこと、また日本の統治がより温和であったかもしれないことは、歴史家がほぼ認める想定である。

 【まとめ】 文献①は伊藤を「近代日本を創った男」と言う。言えなくはないが、私はむしろ「『大日本帝国』を創った男」と言いたい。そして「近代日本」を「大日本帝国」として創ったことに、彼を「大悪人」とするゆえんをみる。「大日本帝国」は無論二重の意味を持つ。一つは天皇が主権者として国民を支配する国という意味である。もう一つは、他民族を支配する国という意味である。近代日本はそうなるべきではなかったし、そうでなくあり得た。②は伊藤を「知の政治家」という。これも言えなくはあるまい。だがこれを同時に、国民の「情」を汲み取らなかった政治家、という意味でもとる。②は伊藤の韓国統治に対しても弁護的だが、彼が韓国民の感情を汲み損ねたとする。だがその前に自国の一般国民の気持ちがわかっていなかったし、わかろうという気も乏しく、むしろそれを、愚かな大衆の間違った有害なものとしておさえつけ弾圧する側に回っていたのだ。結論はほぼ同じでも、山県有朋における間違った感情的信念が、伊藤においては欧米列強をお手本とした「単なる優等生」にありがちな間違った知的信念として、それを導いたように思われる。「単なる優等生」は今でも、「近代日本は『大日本帝国』としてしか存立できなかった」といった論理を口をとがらせて言いつのりそうではないか。

 

主な参考文献

①伊藤之雄『伊藤博文――近代日本を創った男――』講談社、2009

②瀧井一博『伊藤博文――知の政治家――』中公新書、2010

③海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004





 

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横井小楠

日本史 2009/12/15 16:05


             



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吉田松陰

日本史 2009/12/14 13:55

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 八幡神社の話  -下-

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記紀神話を読む--出雲王国は存在したか? ③

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記紀神話を読む--出雲王国は存在したか? ②

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記紀神話を読む--出雲王国は存在したか? ①

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