美学と芸術の歴史 第四章 北方ルネッサンス

 

【1 総論】 「北方ルネッサンス」は「アルプス以北(特にフランドルとドイツ)におけるルネッサンス」をいう。「ルネッサンス」とは、14-16世紀の欧州における文化の革新運動であり、その発生地および中心はイタリアであった(本稿第三章)。ここで問題になるのは、この「北方ルネッサンス」が、「北方におけるルネッサンス」として、「ルネッサンス」を種的同一性を持つものとして、「北方」を、イタリア中心のものに対する種差として考えるのか、それともそれを、イタリア・ルネッサンスに対応する北方の文化運動として、「ルネッサンス」を類比的統一性を持つものとして考えるのか、ということである。これは「ルネッサンス」の本質をどう規定するかということ、あるいは「イタリア」と「北方」との共通性と差異のどちらに力点を置くかということが問われているのである。裏を返せば、共通性と差異があること、まったく違うものでもまったく同じものでもないことはみなが認めているということでもある。両者の適度な関係性をどうみるかが、各人に問われるところである。西洋美術全般についてまだ多くを知らない者には、「ルネッサンス」の一環という大きなくくりでみるほうが有効であろうが、前章で「イタリア・ルネッサンス」を学んだ私達としては、その違いに注意することで、より興味深くみていくことができよう。

ルネッサンス一般にあてはまる特徴としては、「人間」と「個人」の重視ということがあり、この点では、イタリア・ルネッサンスにおいてみてきたことを北方ルネッサンスでもみることができよう。他方違いを列挙すれば、まず、イタリアでは「人間中心主義」が強いのに対し、北方では「自然の評価」がみられる。イタリアでは理想主義的であるのに対し、北方では一方では現実性、他方では幻想性の評価がみられる。イタリアでは美そのものが第一の価値とされるのに対し、北方では真や善の優位もみられる。相対的にイタリアでは世俗性がより強く、北方では宗教性がより強い。技術面では、イタリアにおける遠近法の完成に対し、北方では油彩法の高度化が注目される。

両者の差異の面に関して、当事者の言葉を一つの証言として引こう。ミケランジェロによる、北方ルネッサンスの風景画に対する否定的な評価である。すなわちそれは、外面的な視覚を欺くために目に快いものを描き、内容も力も、道理も技量も、均衡も比例も、選択も勇断もない、と( 166頁)。私達には驚くべき断罪だが、ここからまた「イタリア・ルネッサンス」がこだわっていたものについてもわかってくる。

【2 ファン・アイク】 ファン・アイクJan Van Eyck,c.1390-1441、文献⑩などでは「ヴァン・エイク」)。また兄(Hubert,?-1426、実在を疑う説もあり)とともにファン・アイク「兄弟」とも言われる。フランドルの人で、ソンブルク(ランブール)生まれか? 1422年頃、ホラント伯(ハーグ)の宮廷画家になっている。25年、ブルゴーニュ公フィリップの画家兼侍従となった。スペイン、ポルトガルに旅行した。32年、ブリュッヘに移住し、結婚。同地で没した。

古くは油絵の発明者とされたが、厳密に最初の者ではなさそうである。しかし乾燥油と樹脂や希釈剤を用いた新しい素材の改良者であり、油絵の技術を使いこなして歴史的な傑作を残した最初の者とは言えよう。深い宗教性と象徴性を持っており、この意味ではむしろ中世的な肖像画の完成とされるかもしれない(文献⑩項目「エイク」)。

「ヘント(ゲント)の祭壇画」c.1426-32、ベルギー、シント・バーフ大聖堂)は、大きな三連祭壇画である。教義と、近代的写実との見事な融合がみられる。12枚のパネルに20の場面が描かれており、それぞれに見事であるが、なんといっても中央下の「神秘の子羊の礼拝」が印象的である。主題としては宗教画だが、自然が「背景」を超え、緑豊かな色彩美においても細やかな写実においても目をひきつける。「魂の救済を求める中世の人々にもまたゲント祭壇画で実現された新しい自然主義は、大いに訴えるところがあったにちがいない」(文献①55頁)。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」1434、イギリス・ナショナルギャラリー蔵)は市民夫婦の肖像画である。作者の署名が入れられているのは近代的である。「宰相ロランの聖母」c.1434、フランス・ルーヴル美術館蔵)は祭壇画である。「宰相ロラン」はこの絵の寄進者である。寄進者の姿が絵の中に描きこまれることはイタリア・ルネッサンスでもあるが、下のほうに慎ましくではなく、このように聖母子と向き合うかたちで大きく描かれるのはきわめて異例である。また風景が大胆に取り入れられている。橋の上から遠くを眺める後ろ姿の人物とともに、鑑賞者もまた実に細かく描かれた「背景」を見飽きない。この作品は、「宗教画」と「肖像画」と「風景画」の三要素の融合であるように感じられる。

【3 ボス】 ボスHieronymus Bosch,c.1450-1516、「ボッシュ」とも)はネーデルランドの人である。スヘルトヘンボスに生没とされるが、これは当時ネーデルランドの四大都市の一つであり、オルガンの製造など音楽文化の拠点であり、武器の鋳造工場もあった。ケンピスの『キリストに倣いて』(1472)を生んだ宗教運動devotio modernaが盛んな地であったともされる。早くから名声を得、スペイン王フェリッぺ2世などにより収集された。約30点の板絵が現存する。

人物表現は理想化されない。つまり「美しく」はない。寓意(アレゴリー)が多用されている。グロテスクな怪物が随所に活躍する。この点ではグリューネバルトと重なる。

「手品師」(c.1475-c.85)は寓意画である。「石の切除手術」(c.1475-85)も同工異曲である。人間の愚かさを風刺している。

「乾草車」(c.1485-c.1505、現プラド美術館)。

「愚者の船」c.1485-1505、フランス・ルーヴル美術館蔵)はいわゆる阿呆船を主題としている。ドイツの詩人ブラントの同題の著作(1494)に直接の動機を得たものか。

「聖アントニウスの誘惑」c.1485-c.1505)は宗教画である。しかし、悪魔の誘惑にうちかつ聖人のすばらしさよりも、作者の関心は、彼の幻想に現れる魑魅魍魎たちを生々しく描くことにあると感じざるを得ない。

「快楽の園」c.1505-c.16、スペイン・プラド美術館蔵)は三連祭壇画である。いやらしさと美しさ、恐ろしさと楽しさが同居した、なんとも言えない作品である。

「十字架を運ぶキリスト」(ヘント美術館)。民衆の表情が生々しい。

 【4 グリューネバルト】 グリューネバルトGrünewart,c.1470/75-1528)はドイツの画家である。ただし間違ってその名で記録され定着したもので、本名はMatthias Neithard Gothartとされる。1485年頃からアシャッヘンブルクに住み工房を持ち祭壇画などを作った。1508年頃から、マインツ選帝侯・大司教の宮廷画家兼芸術顧問を務めた。1514年頃から「イーゼンハイム祭壇画」(現コールマール・ウンターリンデン美術館)を制作したが、彼の最大傑作である。イエスの痛ましい死体の迫真性が強烈である。もともと当時猛威をふるった病気の守護聖人を表に立てた教会のためのもので、参詣者はイエスの苦しみを自分達への共苦とうけとったであろう。奇怪な化け物たちの跳梁、復活するイエスの神々しさや天使の総額なども、彼の筆を通じて、私達の目にも印象的であるが、当時の人々には創作というより現実そのものと映ったであろう。彼自身、人々の苦しみに強く共苦する人だったのか、1525年、農民戦争が起こるとその側に立ち、選帝侯・大司教のアルブレヒトから追放された。そして異郷で寂しく死んだ。20世紀初めに再発見され、再評価が進んだ。

【5 デューラー】 デューラーAlbrecht Dürer,1471-1528)はドイツの画家である。ドイツ最大の画家とする者もいる。ニュールンベルクに生まれ、同地で没した。父は金細工師。1494年、結婚し、ヴェネチアに赴き、イタリア・ルネッサンスを研究した(05-07年にもヴェネチア行き)。95年に帰郷して工房活動を開始。ザクセン選帝侯らのため祭壇画などを描いた。

「イタリアの山」(1494-95)は水彩画である。きわめて早い風景画であることが注目される。

帰国直後の1498年、制作した木版画集の「黙示録」により名をあげた。宗教画であり、木版画を多く描いたことも彼の特徴の一つである。

「自画像」1500、現ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)も注目される。自画像という分野の登場自体が「ルネッサンス」の大きな内容であり、またイタリア・ルネッサンスではそれは群衆の一人にまぎれこませるようなかたちで現れてきたことは前章で述べた。「自画像の誕生は、彼等〔画家〕がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している」(前章)。自画像は四種に区分できる。①モデル代を払う必要がないので練習として描くもの、②端役の一人として描き入れるもの、③扮装をさせて(建前上は別人として)描くもの、があるが、④しかしここでデューラーは真正面からの本格的な自画像を描いており、画期的である。なおデューラーの人となりについて、ナルシシズムに近い虚栄心を指摘するものもあり、彼の場合に(一般論として「芸術家」の自尊心ないし虚栄心は検討課題となり得よう)それも一因と言えるかもしれない。

「アダムとエヴァ」1507、現プラド美術館)は宗教画である。しかしおそらく宗教的動機に劣らず、人体の造形が彼を動かしている。そしてこれはドイツで最初の理想的裸体像なのである。

「聖三位一体の礼拝」(1511、現ウィーン、美術史美術館)は宗教画の大作である。

「メランコリア」(1514)は銅板による寓意画である。「メランコリア」(羅、英メランコリー)は、古代からの四体液論によれば、黒胆汁が優位な性格で、内向的な憂鬱質である。そしてもともとはのらくら者など否定的評価を伴うのがふつうであったが、まさにルネッサンスに逆転が起こる。学者や芸術家など、創造的天分と結びつけられたもので、書物ではフィチーノの「三つの生活について」(1505)などに現れている。デューラーのこの作品はその美術版とも言える。

1520-26年にフランドルに旅行。

「四人の使徒」(1526、現アルテ・ピナコテーク)は宗教画である。1517年、ルターによる宗教改革が始まった。デューラーも宗教改革とともに進むことになる。

またデューラーは草木や小動物のデッサンにも、きわめて見事な写実力とともに独特の魅力を持つものがある。彼は一木一草も神の被造物として価値あるものと考えたようである。これは地中海文化にはほとんどみられない、自然と風景への北方的関心である。しかし越氏によれば(文献②105頁他)、彼と同時代のインテリを魅したのは、風景よりも古典神話に裏付けられた寓意的人物像であり、彼も結局は人物像を最高とするイタリア的美意識に従ったのだという。

【6 クラナッハ】 クラナッハLucas Cranach,1472-1553)はドイツの画家として最も名を成したが、半ばルネッサンス的「万能人」に属するとも言えそうである。クローナハで出生。父もおそらく画家であった。1501/02-05年、ウィーンで制作活動し、ドナウ派に属する。また当地の人文主義者たちと交わった。05年、ザクセン選帝侯フリードリッヒ(賢侯)の宮廷画家としてヴィッテンベルクに居住。08年、皇帝マクシミリアンへの使者としてネーデルラントに赴いた。1512/13年、ゴータの市参事会員の娘と結婚。17年、ルターが宗教改革を始めるが、19年、そのヴィッテンベルク市の参事会員になった(-45)22年、ルター訳の『新約聖書』が出版されたが、その木版挿絵を描いたのが彼であった。24年、ニュールンベルクに行き、デューラーに肖像を描かれている。25年、「ルターとカタリーナの肖像」を描いた。30年、「ヴィーナスとミツバチ泥棒のアモル」を描いた。神話画である。33年、「ルクレティア」を描いた。歴史画である。34年にはヴィッテンベルクの市長に選ばれた(中断を経て44年まで)46年「若返りの泉」を描いた。寓意画である。53年、ヴァイマールで没した。

デューラーの理想的人体と比べ、クラナッハの人物はより写実的である。小生のような下根の者は、古典的なプロポーションを持つが冷たいイタリア的・デューラー的裸婦には美しいのだろうが「ふん」と通り過ぎたくなるのに対し、生々しさを感じさせるクラナッハの裸婦のほうにひきつけられるものがある。美術「鑑賞」としてはいけないのでしょうか。対象に即して言っても、「若返りの泉」のような世俗的官能性と、ルターへの肩入れとがどう折り合えるのか、不思議な気がする。ルターは「酒と歌と女」を愛する人でカルヴァン以下の「禁欲的プロテスタント」と違うからかまわないのか。もっともクラナッハはカトリック諸侯の肖像も描いている。

【7 アルトドルファー】 アルトドルファーAlbrecht Altdorfer,c.1480-1538)はドイツの画家であり、建築家である。亡くなったレーゲンスブルクの生まれか。ドナウ派最大の画家とされる。1519年、レーゲルスブルク市会議員になり、26年からは同市の「公的建築家」として、城壁や塔(1535)の造営に携わった。

「聖ゲオルギウスのいる森」(1510)はいちおうキリスト教伝説に基づく主題だが、本質的には風景画である。森が生々しい。

「マクシミリアン帝祈祷書」の挿絵(c.1515)はデューラーとの共同制作である。

「アレクサンダー大王の戦い」1529)は歴史画である。しかし俯瞰した大画面には、膨大な人馬が細かく細かくうじゃうじゃと描かれ圧倒される。本質的には歴史画というより地表の熱病的な煮えたぎりと越氏は言う(文献③149頁)。

「ドナウ風景」c.1532)は、最初の純粋な自然風景画ともされる。それは、具体的な場所の実景に基づき人間抜きの風景画であるという意味においてである。ちなみに、特定できる現実の景観を描いた最初の作例とされるのは、ヴィッツの「奇跡の漁り」(1444、現バーゼル、無論少なくとも建前的には宗教画)のようである。西洋美術において基本的に多くない「風景画」のなかでも、まったく人がいない(家のような人工的なものもない)作品は現在に至るまできわめて少ない。一見そう見えても、寄って観ると、隅のほうに小さく人物ないし神の姿があったりしがちである。私はがっかりするとともに、どうしても人間なしにはいられないのかと、西洋の強迫観念を感じる思いがする。越氏は「人物の消失」に、魂の救いがすべての原動力であった「中世」の克服をみる(同書、155頁)。しかし私達日本人からすれば、自然への融解にこそ救済があるのではないか。「うつせみはかずなき身なりやまかはのさやけき見つつみちをたづねな」(大伴家持、なお家永三郎「日本思想史における宗教的自然観の展開」参照)。西洋でも特にゲルマン系には自然を評価化する精神はあり、それはロマン主義で前面に出て来る。しかしそれでも西洋との違いはある。夏目漱石は学生時代から、イギリスロマン派の詩と漢詩とにおける「自然」観念の比較研究などを行っていたが、「東西文学ノ違」について次のようなノートも残している。「nature.Wordsworthnatureinterpretationヲ見ヨ。Arnold,Browninginterpretationヲ見ヨ。吾人はnaturenatureトシテ渇仰スルナリ花ヤ鳥其物ガ愉快デタマラヌナリ。其裏面ノ主意ヤontological meaningハ不必要デアル」(『漱石資料――文学論ノート』岩波書店、1976197)。日本的本覚思想の行き着いた先としての木非成仏論はこの精神をもっとも端的に表しているのではなかろうか(拙稿「自然成仏の思想と文化」『唯物論』第83号、東京唯物論研究会、2009、参照)

なお中世の風景画として、ランブール兄弟による時祷書の挿絵がある。これはこれで美しく、また魅力的なものである。しかしそこでは人間が自然に持ち込んだ秩序というラテン的精神がみられるのに対し、アルトドルファーでは秩序に敵対する自然という、すなわち自然に「自由」や「崇高」をみるゲルマン的精神がみられる(文献③147頁参照)ことも興味深い。

【8 パティニール】 パティニールJoachim Painir,c.1480-1524)はフランドルの画家で、アントウェルペンで活躍した。

純粋な風景画ではないが、物語の内容より自然の風景を強調して描き、デューラーから「よい風景画家」と呼ばれた。他の画家の風景部分も担当している。「聖ヒエロニムスの懺悔」(1515以降)などがある。

【9 ブリューゲル】 ブリューゲルPieter Bruegel,1525/30-1569)はフランドルの画家である。ブリューゲル村(現オランダ)の生まれか?1551年、アントウェルペンの画家組合に登録している。イタリアに旅行し、ローマ、ナポリ、シチリア島に赴き、55年までに帰国。旅中にものしたアルプスの素描を25枚の銅版画として刊行した。63年、結婚を機にブリュッヘに移住。69年、同地で没。

はじめは主にボス風の幻想的風刺画が多いようである。「大魚が小魚を呑む」(1557)、「七つの大罪」(1558)などがある。ボスと比べると、よりユーモラスで「楽しめる」要素がより多い。「謝肉祭と四旬節の戦い」(1559)などは宗教性はただのネタ元でマンガ的な作品に思えてしまう。「ネーデルラントのことわざ」(1559)は絵としてのおもしろさのほかに、謎解きのおもしろさが加わる。「こどもの遊び」なども同様で、こども好きだったのではないかと思わせる。「怠け者の天国」(1567)は見る者をにやりとさせないではいない。「農民の踊り」なども風俗画として楽しいが、風刺や謎解きといった知的な態度よりも、写実によってひきつける。そして彼の写実は、超絶的な技術による客観的再現というだけでなく、対象への感情移入の力にもよると思われる。ランブールの月暦の農民はそれとして興味深いが、画家は農民も自然の一部である「光景」として突き放して描いているように感じられる。ブリューゲルは踊り、あるいは飲み食いする農民に共感しており、私達はそれを「眺めている」というよりそこに「居合わせている」感じを抱く。イタリア・ルネッサンスの「理想化」ともボス風の「戯画化」とも違う、リアリズムの本道があるように思われる。「雪中の狩人」(1565、ウィーン、美術史美術館) も庶民の生活を描いているが、風景画としての「美しさ」や風俗画としての「面白さ」を超えた深みを感じさせる。獲物が乏しかった狩人たちの、また共にした猟犬たちもの、疲れが重い足取りとともに伝わってくる。それでも帰っていかなければならない。生きることの重さも感じさせられる。遠くではこどもたちが無邪気に氷遊びに興じている。彼の宗教性についてはどう考えるべきなのか。「バベルの塔」(1563)はまずその精緻な描写で見る者を圧倒するが、技術力のすごさだけでない何かによって私達を考えさせる。塔(建築)や各種の船(商業や戦争)等に示される人間の生活欲や果てのない創造力に改めて感嘆するとともに、しかしそれがとんでもない愚かしさや虚しさと結びついているのではないかという疑念もわかせる。「イカロスの墜落」(1555、ベルギー王立美術館)はギリシャ神話に基づく絵である。しかし一見して神話上の形象は見られず、風景画のようである。大船も行き交う海の果てには日が沈もうとしており、遠くに高い山が連なる。手前の岸では農夫が馬で耕し、羊飼いもいて風俗画の要素もある。天に迫ろうと塔を建てたバベルの人々のように、太陽と競ったイカロスは熱で翼を溶かされて海に落ちるのであるが、――よくよく見ると右下の隅に、足だけ水面上に出した「犬神家」状態になっているのがイカロスなのである。主題が中心に描かれず、探さないとわからないような端っこにある。もしかしたらそれが本当の悲劇なのかもしれない。重大な出来事に人々は気づかず、いわば眠っている。農夫は足元を見つめ、羊飼いは空を見上げているようだが、ばたついているイカロスには背を向けている。近くの岸の赤帽の男も、目の前のイカロスでなくて手元に気をとられている。「十字架を担うキリスト」(1564)でも、群衆の中にキリストは埋没しており、探すのに苦労する。これに立ち会った人々の大部分にとってこれは救済史的な、人類と自分に決定的な出来事ではなく、「ユダヤの王」としてかつがれた反体制派の首領の処刑として、ありがちな、いっときは煽情的だが間もなく忘れられるような「事件」の一つだったのかもしれない。「幼児虐殺」「ベツレヘムの戸籍調査」(1566)も新約聖書の挿話を描いている。雪が積もった村の光景はパレスチナというよりフランドルである。ヘロデ王の虐殺の史実自体疑わしいが、画家は事柄の普遍性を見抜いているようである。独裁者は自らの権力を脅かす存在に脅え、それを絞め殺そうとする。そしてその巻き添えで多くの無垢な者たちが殺されてきた。まさにこの時期、スペインのアルバ公は、フランドルの新教徒の大弾圧を始めるのである。「二匹の猿」(1562)は鎖につながれ、窓の外の、海を行く船や空を飛ぶ鳥に目を向けず、背を丸めている。

 

文献案内

 

    『世界美術大全集、第十四巻、北方ルネサンス』(責任編集 勝国興)小学館、1995

    ベネシュ『北方ルネサンスの美術』岩崎美術社、1971

    越宏一『風景画の出現』岩波書店、2004

    掛下栄一郎『神の狂気の美を求めて――ヒエロニムス・ボッスの旅――』成文堂、1992

    デューラー『自伝と書簡』前川誠郎訳、岩波文庫、2009

    中野孝次『ブリューゲルへの旅』[1976]文春文庫、2004

    『土方定一著作集2ドイツ・ルネサンスの画家たち』平凡社、1976

    土方定一『ブリューゲル』美術出版社、1963

    クラーク『風景画論』[1949]佐々木英也訳、岩崎美術社、1967

    『世界美術辞典』新潮社、1985


添付画像

Die Schlacht zwischen Alexander dem Großen und dem Perserkönig Darius III. bei Issus im Jahre 333 v. Chr. beendete das Vordrängen der Perser. Alexander siegt und Darius wendet sich zur Flucht.



2020/01/11 22:31 2020/01/11 22:31
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美学と芸術の歴史 第三章 イタリア・ルネッサンス

 

【1 語義と外延】 「ルネッサンス」とは、その語義からすれば、古典古代の学芸の復興である。「古典古代」とは、古代ギリシャと、その継承者としての古代ローマを意味する。これを復興するとは、中世の学芸の否定または革新を意味する。ただし当事者がこの言葉(伊rinascita、たとえばヴァザーリ:1550)でこの事態を呼ぶことはあまりない。私達がこの言葉を負うのはむしろのちの歴史家にであり、用語としてミシュレ(仏La Renaissancec.1840)に、意味またはイメージにおいてはブルクハルト(文献④)が大きい。

「ルネッサンス」はフランス語の普通名詞としては「再生」「復興」一般であるが、歴史用語としては(また「○○ルネッサンス」のようなものを全部含むものとしてでなく、それらの派生用語の本家としては)、特定の時・所・分野で限定される。時代としては、おおまかには「近世」に属する。始まりは早い場所・分野では14世紀の初め、終わりは遅い場所・分野では17世紀初めまでの300年となる。場所はイタリアを中心とし、おおまかな意味での「西欧」である。「北方ルネッサンス」は次回でとりあげる。分野では造形芸術・文芸・思想に渡る。このうち文芸と思想は別稿で扱うこととし、本稿では造形芸術を主題とする。

【2 本質】 「ルネッサンス」は語義からは「復興」であるが、その本質は復興よりも革新にある。このずれは歴史上よくみられるものである。革新的な運動も、当事者には現状の否定が「古きよき昔」への復古として意識されたり、またそれを旗印にするほうがわかりやすかったりするためである。すなわちルネッサンスとは、西欧近世における、造形芸術・文芸・思想における革新運動である

いずれにせよ彼等はその現状、すなわち中世をなぜ革新したのか。ここで日本人にありがちな「ルネッサンス・イメージ」を反省したい。すなわちこのイメージでは、ルネッサンスとは、反中世=反キリスト教=反宗教=「人間中心主義」=「世俗的」「現世的」、というものである。しかしまず言わなければならないのは、ルネッサンスは反宗教でも反キリスト教でもなく、ほとんど反カトリックでもない、ということである。それは宗教-キリスト教-カトリックが、ルネッサンス芸術の大きな内容でありまた支え手でもあったことは、実際の作品を少し多く見れば、すぐにわかることである。バークによれば、絵画において世俗的主題のものの割合は、1420年に5%に過ぎず、1520においてさえ20%にとどまる。つまり宗教画のほうがずっと多いのであり、ダヴィンチの「最後の晩餐」やミケランジェロの「最後の審判」などもそうである。「中世」と「近世」の対照はもっと正確に考えられなければならない。そこで中世(a)とルネッサンス(b)との対照を次のように図式化したい。(1a)「神は尊く人は卑しい」。(1b)「神は尊く人も尊い」。(2a)「来世重視・現世軽視」。(2b)「来世を否定しないが現世も重視」。(3a)「救いのために禁欲」。(3b)「快楽追求を必ずしも罪としない」。(4a)「教会の一元的支配」。(4b)「教会を否定しないが、個人の経験や思想も重視」。(5a)「伝統と統一性」。(5b)「創造と個性(名誉心と競争心)」。(6a)「汎ヨーロッパ的(ラテン語)」。(6b)「民族的(近代語)」。

【3 芸術上の特質】 ルネッサンスの人々にとって芸術とは何か。その答えは前回のアリストテレスと同じ答えになる。すなわち「芸術とは価値ある対象の模倣(μιμησιςミーメーシス)である」と。では「価値ある対象」とは何か、と言ったときにキリスト教があがるのは古代とは違うところであり、他方、異教神話や世俗的な重要人物もかなり該当することは、中世と異なるところである。

以上は内容面であるが、技術面で言えば、中世よりも写実的になっているのがまず目につく。

形式的性格としては、初期は晴朗で健康的である。ギリシャ的な均衡論の蘇りがみられる。中期は調和的であるとともに優美である。遠近法の発達が確立し、「人間の視点」が次第にはっきりしてくる。後期は力動的で巨大趣味も現れる。世俗性も強くなる。

 【4 社会的性格】 前節でルネッサンスの中世との違いを確認した。だがそれは近代とも異なる。中世との違いを過大に見積もると、近代との違いが見えなくなるが、これはいわばルネッサンスのロマン主義的解釈である。ロマン主義では芸術は芸術家の個性の自由な表現とされる。しかしルネッサンスでそれは稀でしかない。作品は注文主の指定によってつくられる。制作者は「芸術家」というよりいまだ職人であり、ギルド(薬剤師や印刷業など)に所属する。注文主は内容だけでなく費用にいたるまで細かく指示することも多く、それは個人の美意識によるよりも社会的・文化的な規範に大きく制約される。注文主をパトロン、注文行為をパトロネージと言い、「芸術家」が自分の美意識なり「霊感」なりで自由に制作して作品を市場に出し、それを気に入った者が商品として購入する、といったことはほとんど行われていない。ルネッサンスは中世との単純な断絶ではなく、中世の実りの秋という面も持っている。ブルクハルトはキリスト教に対抗的なバイアスが強い歴史観である。日本の中・高の歴史教育にはその影響が強く、ルネッサンスから新時代、というイメージを与える教科書が多い。

 それでもルネッサンスが革新でもあったことは事実だが、それは何によるのか。最大の要因は、文化の新しい担い手として、市民階級が成長してきたからである。それゆえルネッサンスは、まさに14世紀に、まさにイタリアに、そしてまさに都市において起こったのである。富裕な市民(個人としてのほかに、職業団体としてや、都市共和国としてのものもある)は、教会と並んで、芸術のパトロンになっていった。しかしこのバトロネージについても、いろいろな動機を含むことが注意される。つまりそれは①いわば純芸術的なものもあるが、他に➁名声欲、③公共心、④宗教心、によってもなされたのである。またパトロネージの形態も多様である。工房へのふつうの注文を別にすれば、①市場での売買もなくはないが、近代以降と違って稀であり、➁期限の定めのない庇護関係や、③(注文作品ができるまでの)限定的な食客関係も多く、さらに④半ば公的な「アカデミー」の会員とされたり、⑤都市共和国などから補助金を受けたりすることもある。

文化の担い手のうち制作者は、中世においてもまだ職人という一つの(そしてどちらかと言えば「卑しい」とされる)身分である性格のほうが強かった。より力動的に言えば、職人と芸術家の二つの側面が次第に強い内的対立になっていく過程が、ルネッサンス期の芸術制作者にみられる。自画像の誕生は、彼等がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している。また職人は専門家であるが、ルネッサンスが理想像とするようになったのは何でもできる「万能人」であった。これは狭くは身分制、広くは分業がもたらす疎外に対抗する、人間性回復の要求を、近代的・大衆的な基盤においてではなく、少数の「天才」においてみようとしたものであった。

【5 ルネッサンス批判】 ルネッサンスに対して、賛美・謳歌だけがあるのではない。

宗教改革の立場からは、ルネッサンスの快楽主義が批判される。そこには道徳性が欠如しており、無秩序であり、虚飾である。ロレンツォ・メディチの有名な歌は刹那主義である。このような精神性は混乱と暴力を、すなわち力の支配を生み出すものである。実際ルネッサンスは戦国時代であり、テロも横行していた。離れた安全地帯で天才の作品だけ見る私達は黄金時代とも思いかねないが、ふつうの生活者にとっては暗黒時代であった。またそれはカトリック教会・大資本家・王侯など特権的強者に寄生したものであり、国民的文化ではなかった。

科学革命の立場からは、ルネッサンスの「学問」は科学の方法論の理解に至らず、スコラ学からプラトン的古代哲学に権威を変えただけである。

以上は外からの(ただし隣接し一面では重なりもする)地平からの批判であるが、内在的な、「限定性」への批判もある。まず分野においては、音楽が問題となる。パレストリーナやジョスカン・デブレなどすぐれた音楽家はいたが、前との断絶性といえば、次の時代のバロックのほうが強い(「バロックが音楽におけるルネッサンスだ」)ともされる。

また地域的には地中海世界の特殊性ということが問題になろうが、これついては次章の「北方ルネッサンス」でとりあげたい。

【6 ジオット】 ルネッサンス美術はジオットGiotto diBondono,c.1267-1337)から始まる。半ば伝説的な記録によると、彼は羊飼いの子であり、羊の番をしながら地面に杖で描いていた絵の見事さにガチマブエの目にとまり、その弟子にされたという。1290年頃独立し、1305年にフィレンツェで工房を組織したことは確認される。ローマにも滞在し、1329年から33年はナポリ王の宮廷画家であった。34年にはフィレンツェ大聖堂の造営主任に任じられ、いまも残る鐘楼を起工した。35-36年にはミラノのヴィスコンティ公のために働いている。在世時より高い評価を受け、同時代のフィレンツェ人ダンテも名を挙げている(『神曲』煉獄編11:94-96)。人となりも、単なる職人を超えた「芸術家」気質の片鱗があり、やはり同時代の文芸家サケッティが、自尊心あるその性格を示すエピソードを伝えている。

作品として最も有名なのは、「聖フランチェスコの生涯」(1297-1305)であろう。題材の聖人の地アッシジの教会に描かれたフレスコ画であり、小鳥たちに説教する場面などを含む。別人説もあるが、このような問題があること(工房として少なくとも部分的には関与した蓋然性は高い)自体、まだ「作者」の概念が確立していないしるしでもある。

パドヴァにある「スクロヴェーニ礼拝堂壁画」(1303-05)は、聖母とキリストの生涯を題材にした、見事なフレスコ画である。①宗教画であるが、力点は神の威厳よりも人間の精神や道徳の重さにある。②正面向きの紋切り型ポーズでなく、その場にふさわしい姿が与えられている。③約束事による象徴的構図でなく、写実的な劇的構成がとられている。④したがって見る者は図解的に意味を読み取るというより、登場人物の意志と感情を直接に伝えられる。⑤平面的でなく、短縮法による遠近法が用いられている。以上は中世との違いであるが、ルネッサンス内部で言えば⑥様式性を重んずるシエナ派と異なり、世界のリアルな描出というフィレンツェ派の特質が現れている。――私がここに入ってすぐ感じたことが二つある。一つは、「青」の美しさである。ラビズリーによるその色は、輝かしいが深みもあり、内容の精神性とよくシナジーしている。もう一つは、「聖なる」諸場面の前後左右につらなりに、曼荼羅を連想したことである。上に述べたように、よく見れば近代性が重要なのだが、近代のはじめだけに、最初の印象としてはむしろ中世精神の雰囲気を強く感じさせもするのである。――パドヴァを訪れる折がある人は、ガリレオが講義した大学とともに、この礼拝堂をぜひ見られたい。

ちなみに礼拝堂であるから当然宗教画であるが、パトロンは教会でなく大商人である。父が悪名高い高利貸しで、その贖罪のための私設礼拝堂なのである。そしてこの動機が「父親の贖罪以上に〔子の〕エンリコ[・スクロヴェーニ]自身の権勢の誇示にあったことは疑いを得ない」(文献 96頁)。実際、見事な礼拝堂を建てられて隣接する修道院が抗議したという。贖罪もポーズでなく本心、権勢誇示も本心、この並立がルネッサンスである。

【7 マザッチオ】 マザッチオMasaccio本名Tommaso di Diovanni Mone,1401-28/29)はフィレンツェの人で、父は公証人であった。兄ジョバンニ、その二人の息子、その孫、ひ孫も画家である。

フィレンツェの「ブランカッチ礼拝堂壁画」はフレスコ画である。モニュメンタルで厳格だが、説得力ある人物像が描かれている。緩やかなリズム、古典的に秩序付けられた構図も印象的である。ここも多くの場面からなるが、「貢の銭」では作者自身の像も登場人物の一人として描かれている。自画像の出現をルネッサンスの特質の一つに挙げたが、従来の価値観からはよくないことであるために、はじめはこのような「裏口から」のものであった。ブランカッチは富裕な絹織物商人である。スクロヴェーニ礼拝堂と同じく、名ある大聖堂などと違って、大規模でなく外はふつうに古びていて、意識的に探さないとみつからない。しかしのちのフィレンツェの巨匠たちがこれを学習素材としたというように、美術上重要である。私が見に行ったときはすいていた。やはりそうだったパドヴァは場所的にやむを得ないが、フィレンツェに来たら、いつも長蛇の列のウフィツィ美術館だけでなくこういうところも見たいものである。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「聖三位一体」(1427-28)は遠近法の教科書的代表である(私の美術史の教科書にもあった)。建築家のブルネレスキ(彼によるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はこの町の象徴である。丸天井の上からみた街並が美しい。)から一点透視図法を学び適用したものという。この聖堂は町の中心近くにあるが、入ってこの絵は意識的に探さなければならなかった。説明版も柵もなかったからである。そういうところにもすごさを感じてしまった。

若死にしたこの画家は、合理主義的で自然主義的なフィレンツェ・ルネッサンス精神を絵画で代表している。

【8 ボッティチェリ】 ボッティチェリBotticelli本名Alessandro di Mariano Filipepi,1444/45-1510)はフィレンツェの人であり、フィリッポ・リッピに学んだ。

」(c.1478)はギリシャ神話による美の三美神である。「ヴィーナスの誕生」もギリシャ神話を題材にしている。ともに形而上学的道徳の象徴である。後者の注文主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ家の統領イル・マニフィコの従弟で、(フィチーノの解釈による)プラトン哲学に強い関心があった。ただし画家は思弁に劣らず優美な女性美それ自体もめざしていることは疑えない。

題材が既にルネッサンス的であるが、中世に皆無だったわけではない。「春」の古代版・中世版と比べてみよう(図1)。まず目につくのは、中世版が厚い衣服を着していることである。なぜか。肉体は価値的に劣るものであり、したがってそれを「模倣(ミーメーシス)」することは美術の意図に反するからである。しかし肉体が価値的に劣るとは考えず、肉体的にも美を追求したのがルネッサンスである。とはいえ古代版が全裸であるのに対し、ボッティチェリの美神は薄物をまとっている。なぜか。ルネッサンスはキリスト教を否定したわけではない。肉体がそれ自体として醜いものではないにしても、それは人間が他の動物と共有するものであり、精神がより高い価値を持つという思想は、ルネッサンスがキリスト教から受け継いでいる。裸体を「恥じる」のはしたがって精神性の表れであり、美神は薄物で、ヴィーナスは自分の手でそれを隠す。それなしでは「獣の美しさ」になってしまう。他方で「隠す」のは精神を「表す」ためであるから、(均衡のとれた美しさを持つ)体の線を示すことは妨げない。また中世版の「三美神」は三者が金太郎飴である。単に作者が下手ということではあるまい。同一性に価値があるという中世的美意識と、個性的な者たちの調和を価値あるとするルネッサンス的美との違いを見るべきであろう。すなわちルネッサンスは中世の一面的な否定、古代の一面的に復活でなく、両者の弁証法的止揚なのである。

ボッティチェリの趣味にはマザッチオの合理的自然主義と違いもある。優美さを重んじときに装飾性も廃さない。ゴシック様式を部分的に復活させているところも、歴史的弁証法であろうか。

 15世紀末、フィレンツェはサヴォナローラの宗教政治が行われ、反宗教的な華美が排斥された。ボッティチェリも改心して、自らの作品を火中に投じたとも言う。このヴァザーリの報告は疑いの余地があるが、後の彼の作品の弱々しさを見ても、繊細でやさしい気質と思われる彼が、この出来事にかなりの影響を受けたことはありそうに思われる。またこの出来事を、国難(仏軍の進駐)において狂信者に煽られた愚集の集団ヒステリーと軽くあしらってはならない。前述のルネッサンス批判の観点からは、まさにその中心地において、ルターを20年先取りするような事態もあったとみなせる。

 ボッティチェリが今日のような高い評価と人気を得るのは、19戦期後半のラファエロ前派とペーターによるところが大きい。

 【9 ダヴィンチ】 ダヴィンチLeonard da Vinci,1452-1519)は公証人の庶子であり、14歳ころ、フィレンツェのヴェロッキオの工房に入った。79年頃独立。82年、ミラノに移住し、イル・モーロに仕える。1500年、フィレンツェに帰還。02年にはチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍した。13年、フランス王フランソワ1世の招きでフランスに行き、その地で没した。「万能人」の典型であり、その多才と自負はミラノ公宛の自薦状に明瞭であり、またその膨大な手稿が裏付けている。彼は絵画の学問的性格を強調した。

 「岩窟の聖母」「聖アンナ」は、近年、実在の商人の妻をモデルとする肖像画であることがほぼ確定した「モナ・リザ」(1503-06)とともにルーブルでみることができる。「最後の晩餐」(1495-95)はミラノの教会の食堂に壁画として描かれたものであり、現在は予約が必要で総入れ替え制で見学させている。デッサンでは、幾何学的調和を追求した「ウィトルウィウス的人体図」や、「自画像」が有名である。

 【10 ラファエロ】 ラファエロRaffaello Sanzio,1483-1520)はウルビノ生まれで、父も画家であった。ペルージャでベルジーノの弟子になり、1504年、フィレンツェに出、08年、教皇ユリウス二世によってローマに呼ばれた。

 ヴァチカンの「署名の間」を飾る「アテネの学堂」(1511)は、古代の哲学者たちをそれぞれにふさわしい姿で描き出したもので、これがまさに教会の中心にあるというところにルネッサンスの象徴がみられる。

 ラファエロといえば何と言っても数々の聖母子である。図2をみられたい。聖母子は無論伝統的な宗教画であり、中世のものとラファエロのものを並べてみた。比べよと言われて素人がまず感じるままを口にすればラファエルのほうが上手ということたがが、ではなぜそう感ずるのか。彼のほうに立体感があることが大きい。ところで中世の聖母子が平面的なのは、遠近法が欠如しているということたが、これを単なる技術的未熟さに還元してはならない。中世人はたとえその技術があっても、聖母子にそれを用いる意志を持たなかった。遠近法は見る側の「視点」によるものであり、聖なる対象をそのような「人間的観点」から描くべきではないとしたからである。また素人がラファエロのものだけをみれば、聖母子でなくそこいらの母子の絵とも見るであろう。中世のほうはそれは不可能である。これは聖母子であるぞとの記号が含まれている。最も顕著なのは光輪である。実はラアァエロのものにもあるのだが、画集のかなり正確な図版だけでなく、本物でも意識しないと見逃してしまうほどかすかなのである。意地悪く言えばいいわけ程度であり、ラファエロは聖母子を超越的な神々しさによってでなく、晴朗な表情と内面的な気高さを持った健康的な人間の美しさとして描いている。これがまさにルネッサンスである。

 【11 ミケランジェロ】 ミケランジェロMichelangelo Buonarotti,1475-1564)はフィレンツェ近郊に生まれた都市貴族の出身である。14歳でメディチ家の保護を受けた。1496年、ローマに赴き、1501年フィレンツェに戻ったが、05年ふたたびローマに行った。

 サン・ピエトロ大聖堂にある彫刻「ピエタ」(1499)など、前半期は古典主義の完成がみられる。「ダヴィデ」像はフィレンツェに戻ったときの共和国の注文によるもので、市庁舎前におかれた(現在はアカデミア美術館)。個人的には彼が学んだドナテルロの「ダヴィデ」像のほうが、いろいろな意味でこれ見よがしのミケランジェロのものより好きだが。

 彫刻を本分と考えていた彼には、システィナ礼拝堂天井画(「天地創造」その他)は教皇の命令でいやいやながら成し遂げた傑作である。メディチ家の廟墓や「モーセ」像などもこのころである。「最後の審判」(36-41)が代表する晩年は神秘主義的傾向が現れ、内面的情念を強調する肉体表現はマニエリズムを予告している。好敵手のダヴィンチが調和のとれた静的完全性を示しているのに対し、力動的で複雑な構成に後期ミケランジェロの特徴が表れている。

 

文献案内

 

    『世界美術全集、11、イタリア・ルネサンス』小学館、2003

    ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』[1550]平川・小谷・田中訳、白水社、1982

    レッツ『ルネサンスの美術』鈴木杜幾子訳、岩波書店、1989

    『世界の名著56ブルクハルト〔イタリア・ルネサンスの文化〕』中央公論社、1979

    『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫(上下)、195458

    バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』[1972]森田・柴野訳、岩波書店、1992

    羽仁五郎『ミケルアンジェロ』岩波新書[193919682

    高階秀爾『ルネッサンスの光と闇』[1966-69]中公文庫、1987

    コール『ルネサンスの芸術家工房』[1983]越川・吉沢・諸川訳、ペリカン社、1994

佐藤康邦『絵画空間の哲学』三元社、1992



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Sandro Botticelli (1445-1510)
The Birth of Venus
2020/01/11 22:14 2020/01/11 22:14
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美学と芸術の歴史 第二章 アリストテレス

 

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【1 生涯】 アリストテレス(Αγιστοθελης,BC.384-322)は古代ギリシャ最大の哲学者である。

新興国マケドニアに生まれた。父は王フィリッポス二世の侍医。

BC.367年頃アテネに出、プラトン(第一章、本誌第26号、2009)の主宰する学校アカデメイアに入学し、最大の弟子となる。

BC.347年頃、プラトンの死によりアカデメイアを出て各地を遍歴。

BC.342年、フィリッポス王に招かれ、BC.340年頃まで王子(後のアレクサンドロス大王)の教育にあたった。BC.335年、アテネに戻り、学校「リュケイオン」を創設し、多くの弟子を教え「逍遥学派」の祖と呼ばれた。研究範囲はほとんど森羅万象に及び、「万学の祖」と呼ばれる。

BC.323年、アレクサンドロス大王の死を契機にアテネで反マケドニアの機運が強まり、市民から涜神のかどで訴えられた。彼は「再びアテネ人に哲学を冒涜させないため」とソクラテス裁判を諷しつつエウボイアに亡命した。翌BC.322年、胃の病で死去。遺書はきわめて周到に死後の指示がなされており、性格を示している。

20年間プラトンの下に学んだのであるから、彼の哲学がプラトンの大きな影響を受けていることは当然である。しかし結局彼はその亜流とはならなかった。アリストテレスは医者の子である。臨床医はまず目の前の病人をよく観察することが重要である。「逍遥学派」の名は、一説には、彼が戸外に出て気象や生物、人々やそのなりわいを実際に観察させたことからきたともいう。また医師の対象は動き成長し衰える生き物であり、アリストテレスの学問のモデルは生物学である。頭の中の論理操作を重視する幾何学をモデルとし、詩人的直感にすぐれたプラトンとは、「持って生まれた」資質が異なる。プラトンとの共通性と違いを意識しながら整理すると、アリストテレスの哲学はより把握しやすくなる。ラファエロの名画「アテネの学堂」では、天を指差すプラトンと地を示すアリストテレスが並んでいる。理想主義と現実主義の二大巨匠が意味されている。

【2 哲学全般】 彼の哲学全般に関してより詳しくは文献①を参照されたいが、簡略に示しておくことにする。

アリストテレスは人間の活動を三つに分けた。第一が観想θεωρια)であり、内容からは学問と言ってよい。第二は実践πραχις)であり、内容からは政治と言える。第三は制作ποιησις)であり、基本は経済だが、付随的に文化も入る。そしてこの三つに価値の序列をつける。人間の生物的生存を目的とする制作(米作りや道具作りなど)が最も低くおかれる。実践はこれより価値が高いという。それは物に対してでなく、他の人々に対し、手でなく言葉を用い、共同体全体の善を目的とし、それによってまた自らの人間的卓越を示す行為であるとする。しかし観想が最も高い価値を持ち、それゆえそれは自己目的であるという。

アリストテレスはまず論理学をつくった。論理学とは正しい思考が則るべき法則・基礎についての学問である。

 存在一般を対象とする理論は「形而上学」とも言われる存在論である。「存在」(ある)という語には二つの意味がある。一つは「がある」(実体)であり、もう一つは「である」(属性)である。属性はすべて実体の属性である。実体は「それ自体として存在するもの」である。実体には四種類の原因(アルケー)がある。①質料:机が実体なら木材やスチールなどである。②形相:たとえば木材という質料が椅子でなく机という「その」実体をとらせている形であり、いわば設計図に当たるものである。③動力:たとえば木材を机にする際に職人が用いる力である。④目的:机なら「本を載せる」などである。プラトンはイデアを実体であるとした。イデアは普遍的存在という意味でアリストテレスの形相と重なるが、アリストテレスはイデアを実体とみなさない。形相は現象から離存するイデアでなく、質料に内在する普遍性であり、両者が結合した個物が実体だとする

 自然物の質料因としては土・水・火・空気の四種類を認める四元素説である。動力因としては、機械論をとらない。第一に運動を位置の移動に限定せず、質的変化を含め豊かに理解する。第二に運動を実体に内在するものとし、外力によるとしない。おたまじゃくしは蛙の可能態であり、蛙はその現実態である。プラトンの哲学は本質的に時間のない幾何学をモデルとし、アリストテレスは生成する生物の世界をモデルとしている。ただしアリストテレスは、運動を最終的には循環として質的発展を認めない。これは「目的」を実現する活動、円環的、自己完結的行為に大きな価値を置くこととつながっている。いわば世界全体の設計図であり最終「目的」である「形相の形相」は神である。万物はこれをめざして運動するが、神そのものは不動であって他の万物を動かしていく第一動者である。

 人間の本質として、アリストテレスは二つを挙げる。第一は「理性」であるとともに「言葉」でもあるロゴスλογος)を持つということである。第二は、国家すなわちポリスπολις)を形成してその中で生きるということである。第一の点からは彼の哲学が合理主義的であることが、第二の点では彼以後の「世界市民(コスモポリタン)的」すなわち個人主義的な思想(ストア派とエピクロス派)と異なることがわかる。

徳の本質として、アリストテレスは事柄に適しており、不足でも過度でもない中庸を挙げる。こうした考え方はいわば良識的なものとも言える。完全なる「善のイデア」に向かってのたえざる努力を説いた理想主義者プラトンに対して、現実主義者アリストテレスの特徴がみえる。

ソクラテスおよびプラトンは徳を得るのは知性によるとした。彼等を継ぐアリストテレスもそれを第一とはするが、より現実主義的に、知性的徳とともに、習性的徳も認める。道徳的な人間関係をアリストテレスは親愛φιλια)とする。プラトンが求める愛慕(’ερως)と比べると、やはりより現実主義的である。親愛はまず自他の等しさによって成立する。次に相手の「よさ」によって成立し、これは第一にはやはり道徳的な善さであるが、付き合って楽しい人、面白い奴も親愛の第二の対象と認める。さらには付き合えば自分が得する相手もまた、親愛の第三の対象となり、プラトンの崇高だが窮屈な道徳と比べると凡人にも受け入れやすい。

プラトンは理想の国家を哲人王による君主政とした。アリストテレスもまたこれを最善とするが、そうでないなら悪いとはせず、国家の目的である共同体全体の福利が実現されていればよい国家とする。正統な統治形態の中では、君主政・貴族政・民主政の順でよいが、不当な統治形態の中では、衆愚政・寡頭政・僭主政の順でより少なく悪い、と考える。アリストテレスは当時存在した奴隷制を正当なものとして認めているが、これも彼の現実主義である。彼は自由人と奴隷の関係を人間と動物との関係に、また魂と肉体の関係に類比する。ここにも彼の思想が支配階級のイデオロギーであるということと、それが哲学的観念論と結びつくということが表れている。

「経済学」もその源はアリストテレスにあるが、今日のその名称(の語源)で彼が意味しているのはむしろ「家政術」である。物質面での家(奴婢も含めた広範な経営体)の経済が扱われている。彼はこれを「貨殖術」と対置する。観念論的ではあってもプラトンのような精神主義者でない彼は、物質的富の追求を是認するが、それは自己目的ではないので、有限であるとする。貨殖術はいわばその堕落形態であり、貨幣そのものが目的とされるので無限となる。貨幣が自己目的になるということは、貨幣の量的増加が追求されるということであり、投資家の行為(G-W-G’)である。家政術の場合貨幣は質の異なる物品を入手するための媒体に過ぎない(Wa-G-Wb)。これは今日のマネー資本主義を反省させる。

【3 著作『制作術』】 ここに『制作術』と訳したアリストテレスの著作名はラテン語でars poeticaである。arsは英語art(芸術)のpoeticapoem(詩)やpoet(詩人)の語源である。よってこれを『詩学』と訳すものもあり、というよりそのほうが多い。しかしそれは正確な訳ではない。まずarsは「芸術」というより「技術」一般を指す語である。次にpoeticaは、「詩」の制作に限らない、前項で挙げた人間の制作活動一般としてのpoiesisにかかわる、という意味である。「芸術」も「詩」も無論古代ギリシャにあったが、私達過去の日本語で頭に浮かべるものとはかなり違う。また実際この著作の内容も、「詩学」という日本語で思い浮かぶものとずれがある。よって私は原語により忠実に「制作術」とするが、ここでとりあげられているのは演劇、特に悲劇である。

 【4 古代ギリシャの演劇】 古代ギリシャでは演劇が盛んであった。野外で行われたのは、照明技術のせいというより、天気がよく暖かい地中海性気候のせいであろう。円形劇場は建築学的に見事であり、舞台の小さい音も最上段でちゃんと聞こえるという。アテネでは国家行事として毎年劇作のコンクールが行われた。悲劇と喜劇の二分野にはっきり分かれていた。悲劇は仮面劇であり、少数の登場人物が仮面をつけてせりふを言い、また合唱隊(コロス、「コーラス」の語源)がいる。興味深いのは、わが国の古典劇も、荘重な仮面劇である「能」と、滑稽な「狂言」とが組み合わされて上演される仕組みであったことである。悲劇の題材は神話か歴史である(古代人には両者は画然と区別されるものではない)。能もまた「本説」といい、権威ある物語に基づくものであること(平家物語による弁慶や伊勢物語による業平など)が求められる。

ギリシャ悲劇の作者としては三人が有名である。アイスキュロス(作品『縛られたプロメテウス』など)、ソフォクレス(作品『オイディプス王』『アンティゴネー』など)、エウリピデス(作品『メディア』など)である。

喜劇の作者としてはアリストファネス(作品『女の平和』など)が名高い。喜劇は本質的には古今東西そう変わらないように思われる。つまり、だじゃれ、どたばた、しもねたなどが主要部である。ギリシャ喜劇の場合は、実名による個人攻撃が目を引く。有名な政治家や文化人(ソクラテスなど)などが(ときに歪められて)嘲笑されているのをみると、卑猥な身振りなどとともに、「表現の自由」がかなりあったことが察せられる。

【5 オイディプス王をめぐって】 ギリシャ悲劇の中で最も有名なのは、ソオォクレスの『オイディプス王』である。オイディプスは生まれたとき、成長すれば父を殺し母を娶るというまがまがしい予言を受ける。これを聞いた父は殺害を家来に命ずる。忍びなく思った家来は面従腹背して、わが子として彼を育てる。成長した彼は予言のことを聞き、しかし養父母を実の両親と信じているので、予言が成就しないように家を出、武者修行の旅に出る。当時ギリシャ人を苦しめていたのはエジプトの怪物スフィンクスであった。これはなぞなぞ大好きの怪物で、相手が答えられないと殺してしまう。特に困っていたのはテーベの国である。王は行方知れずになってリーダーもいないので、スフィンクスを倒した者を王に迎えると決めていた。この怪物のなぞなぞは周知のように、「朝に四本足、昼に二本足、夕方に三本足のものなあんだ」である。これを解いたのがオイディプスであり、答えは「人間」である(なぜかは考えてみてください)。これによって怪物は倒れ、オイディプスがテーベの王となり、先王ライオスの后を娶った。だが国に禍がやまないので占い師に問うと、先王が殺されたためという。そこで犯人探しをすると、オイディプスが旅の途中で正体を知らずに殺した老人こそその人であり、しかも実の父であることがわかった。こうしてこの英雄は父を殺し母を娶るという予言を成就させてしまったことを知る。

ここでヘーゲルの美学に少し脱線しよう。彼はよれば美は絶対者の感性的表れである。東洋人は自然の中に、ギリシャ人は人間の中に絶対者をみた。東洋をギリシャにつなぐエジプトは、したがってその中間の性質を持ち、それゆえ「謎の国」である。その象徴は人面獣身の怪物スフィンクスであり、動物的状態から人間性がもがきでようと顔をのぞかせている。謎の怪物は謎をかけるが、謎の答えは「人間」だと解いたのがギリシャ人オイディプスであり、この西洋の人間主義によって東洋の自然主義は乗り越えられたのである、と。

なおオイディプスの物語は、フロイトの芸術論を扱う章においてもとりあげることになろう。

【6 芸術および演劇一般】 私達が今日「芸術」と総称するものを「模倣」(μιμησις)とする点では、アリストテレスも師プラトンを継ぐ。よってこの点は詳述を省く。彼が名を挙げている分野は、絵画、文芸、演劇、音楽、舞踏である。

では演劇では何が模倣されるのか。神々または人間の行為である。ギリシャ演劇は二種類に分かれていた。私達がその違いを問われれば、劇の内容および効果に漢字を対応させて、「悲しい」出来事の「悲劇」と「喜ぶ」出来事の「喜劇」と言うであろう。しかしアリストテレスは、その違いを何を模倣しているかの違いによるものとする。すなわち悲劇」は「すぐれた人」の、「喜劇」は「劣った人の」模倣とする。これは私達には少し説明を必要がいる。まず私達は「すぐれた(劣った)」者とは何かが自明でないが、この場合、「すぐれた者」とは神々、なかば神である半神、そしてその子孫とされる王侯貴族などであり、「劣った者」とはふつうの人々つまり観客よりも「劣っている」と考えられる者である。ここで注意すべきことが三つある。①前近代では、事実と価値とがはっきり区別されておらず、価値も人間が「価値付けた」ものとしてでなく、存在そのものの客観的性質として考えられていた。②前近代は身分制社会で人間は平等という観念はなく、貴族などが「すぐれた」人というのは同義反復的な観念であった。③ギリシャ人はすべての物事を「優劣」で判定する傾向がきわめて強く、価値的に同等だが質的に異なる(「みんな違ってみんないい」)といった考え方は乏しかった。

【7 悲劇の分析】 悲劇をアリストテレスは、次のように規定する。「悲劇は高貴で完結し相当な長さを持った行為の模倣であり、その部分部分には、各種の快く飾られた言葉が用いられ、叙述でなく演技により、憐れみと恐れを通じて、これらの感情のカタルシスを行うものである」(1449b)。――「高貴」な行為であるのは「すぐれた人」の行為だからである。短すぎるのも長すぎるのも、彼によれば悲劇に適さない。だがここでより重要なのは、彼は悲劇に「完結」を持つことを求めていることであろう。悲劇の言葉は日常用語とは異なる。歌舞伎なら七五調が使われたりするたぐいである。誰何されて「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州掛川在…」などと朗々と答えることは実生活ではなく、ここでは「快く飾られた言葉」が楽しみの一つを構成しているのである。だがより根本的なこととして、そもそも西洋演劇のせりふは基本的に韻文であり、それゆえそもそも演劇が詩の一分野としても分類されるということである(西洋の古典的な詩は、叙事詩、叙情詩、劇詩に三分される、叙景詩はない)。そしてその言葉は第三者の叙述でなく登場人物のせりふであるから全体は演技によって運ばれるのである。

アリストテレスは、悲劇の本質的な要素を三つ挙げる。①μυθος]②性格’ηθος]③思想διανοια]である。今日の言葉では筋はプロット、性格はキャラクターである。「思想」がわかりにくいかもしれないが、いわば芝居のコンセプトであろうか。キャラたちが出来事を通じて筋を形づくるが、それを結びつけるものがこれで、たとえば主人公が竜の球を集めようとしているとか、海賊王をめざしているとかである。アリストテレスはここで、その結び付け方に合理性が必要であると言う。たとえばオイディプスの父親殺しを考えてみよう。ここで若者は、自分の運命にうちかつべく武者修行に出て怪物にも立ち向かう、血気さかんな性格とされている。頑固なじじいにかっとなり、結果的にあやめてしまったのは不条理ではない。他方相手の老人は王座にあったものであり、生意気な若造には譲るどころかやはり立腹するであろうことは道理である。もしオイディプスが弱気な、あるいは謙虚な青年であったり、ライオスが仕えられることよりも仕えることに慣れた、あるいは右の頬を打たれたら左を出すような老人であったりすれば、この出来事は成り立つまい。演劇は感情を、したがって感情的な行為を内容とする。これは師プラトンが既に言ったことであり、そしてそれによって演劇を批判したのだった。アリストテレスも事実としての感情性を認めるが、しかしそこから演劇批判には向かわない。たとえば怒りは確かに感情である。しかし侮辱されたときに怒るということは「合理的」である。侮辱されて喜ぶのは「不合理」である。パスカルは心情にはそれ自らの理由(理性)があるといった。アリストテレスは演劇にこの感情の合理性をみいだし、あるいは求める。感情より理性を上におく点では、師プラトンと同じである。しかし感情「でなく」理性という二択でなく、感情そのものの合理性を求めることによる。より一元論的でより現実主義的であるゆえんである。

さて悲劇が憐れみをもたらすのは、主人公が不幸になるからである。その際主人公は悪人でも善人でもないことが必要だとアリストテレスは指摘する。悪人が不幸になるのは自業自得というものであわれには思えない、ざまをみろと快く思う者さえいるかもしれない。かといって善人が不幸になるというのは、憐れみというより憤りを感じさせかねない。では「たまたま」不幸になるのはどうか。これもアリストテレスの合理主義はしりぞける。偶然は少なくとも舞台上ではあるべきでないと彼は考える。行き詰ってしまうようだが、ここで彼は言う。不幸は主人公の「あやまち」[‛αμαρτια]によると。自分の父と知って殺すことは悪人の所業であり、同情しかねる。しかしそうと知らずに争った相手を殺してしまったということはあやまちであり、悪いことではあるが同情の余地がある、という具合である。憐れみとともに必要とされる恐れというのも、怪物(そのものはもとより)のような悪逆非道の人間が恐ろしいのでなく(「悲劇」と「ホラー」は別のジャンルである)、とんでもない結果をもたらすようなあやまちを自分もしてしまうかもしれないことが恐ろしいのである。

筋が(偶然に頼らず)合理的で、しかし観客の感情を効果的に動かすには、「発見」と「逆転」が有効であると言う。「発見」とは重大事実を登場人物が知ることで、たとえばオイディプスが自分の罪を知るようなことである。「逆転」とは運命の急に反対になること、いわゆるどんでん返しであり、たとえばオイディプスが自分がまさに破滅を免れたと思った直後にその打撃を受けるようなことである。「発見」と「逆転」は現在に至るまで悲劇作家が愛用する手法である。

【8 悲劇と歴史】 近代的通念では悲劇は「虚構」であるが、アリストテレスは「模倣」ととらえた。ではそれは歴史とどう違うのか。彼によれば、悲劇は可能なものの、歴史は現実のものの模倣である。たとえばヘロドトスの歴史ではペルシャ戦争が言葉によって再現すなわち模倣されるが、それは現実にあった出来事である。そこで重要なのは、いつどこで誰が何をしたかという事実そのものであり、年号、地名、人名などである。マケドニア軍が玉砕したのはテルモピレーであってマラトンでもサラミスでもなく、その指揮官はレオニダスであってペリクレスでもテミストクレスでもない。『オイディプス王』の場合はこれと異なる。これは事実あった出来事ではなく、主人公の名前や土地の名前は別でもよい。尊属殺人や近親相姦は(めったにあることではないが)起こるかもしれないことであり、あるいは運命に逆らおうとしても人の思い通りにならないこともあり得ることである。

芸所の本質が個別性を通じて普遍性を示すことにあるとしたのは、アリストテレスの卓見である。ただし歴史を個別的事実の記録としてみ、理論的にとらえられなかったのは、当時の通念を越えていない。よって芸術が歴史「よりすぐれる」というのは蛇足であり、「歴史」の理解不足とともに、比較すると「優劣」をつけないではいられないギリシャ的発想の弊害でもある。また、悲劇を可能なものの模倣としたことは(広義の)リアリズム芸術の観点である。芸術を「現実」と抽象的に対立させる観点からすれば本質的にすぐれている。しかし非リアリズム芸術(彼の時代にほとんどなかったことは事実だが)がすべてよくないわけではないということからすれば、狭い観点であるとも言える。

普遍性に価値をおく点では、アリストテレスは師プラトンを継ぐ。そしてプラトンは普遍を個別的感覚的対象から「離存」するとし、したがって後者「でなく」前者を、よってまた芸術「でなく」学術をという二択に追い込まれた。しかしアリストテレスは普遍を個別的感覚的対象に「内在」するとすることで、後者「を通じて」前者を、という道を開き、したがって芸術に対しても、あるべき社会に向けて存在意義を与え得た。同様に彼は感情を否定することなしに合理主義を主張できた。すなわちすぐれた芸術における感情が対象や程度において的を得ているという意味で合理的とすることで、感情そのものの中庸化、純化、陶冶に、芸術の意義をみた。

 

文献案内

 

    拙稿「哲学史」第五章『おきな草』第14号、2003

    拙著『共感の思想史』(第四章アリストテレス)創風社、2006

    出隆『アリストテレス哲学入門』岩波書店、1972

④『世界の大思想20アリストテレス』河出書房新社、1974

⑤アリストテレス『形而上学』出隆訳、岩波文庫(上下)、1961

⑥『アリストテレース「詩学」・ホラーティウス「詩論」』松本・岡訳、岩波文庫、1997

⑦『ギリシャ悲劇全集』人文書院、全四巻、一九六○

⑧『ギリシャ喜劇』ちくま文庫(上下)、1986

⑨エーコ『薔薇の名前』東京創元社

⑩三浦洋「『悲劇の定義』の規範性」日本哲学会編『哲学』第67号、2016

 

③は抄訳と解説。まず読むべきもの。④は「ニコマコス倫理学」「デ・アニマ」「詩学」を収録。⑨はあったかもしれないアリストテレスの「喜劇」論の思想的意味の示唆や、思想の自由と社会の関係についても考えさせる名作ミステリー(映画も興味深い)。


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2018/03/04 14:34 2018/03/04 14:34
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美学と芸術の歴史 第1章 プラトン

 

【1 生涯】 プラトン(Πλατων,BC.427-347)は古代ギリシャの哲学者である。ソクラテス(拙稿「哲学史」第三章『おきな草』第20号、2006)の弟子になり、29歳頃のとき、その刑死にあった。またピュタゴラス教団(拙稿「哲学史」第二章第三節、『おきな草』第14号、2003)の影響を受けた。学校「アカデメイア」を創立した。最大の弟子はアリストテレス(拙稿「哲学史」第五章『おきな草』第14号、2003)である。多くの著作を書いたが、それは登場人物「ソクラテス」が他の人物と対話するという形式になっているので、「対話篇」と呼ばれる。影響は後の西洋哲学史全体に及ぶ。彼の哲学全般については、文献①を参照されたい。

 【2 美とは何か】 プラトンの著作『大ヒッピアス』の主題が美(美しさ)である。ここで「ソクラテス」が対話する相手の名が「ヒッピアス」である。エリスというポリスのソフィストであるというが、詳しいことはわからないので、ここでは登場人物と同一視して以下「」はつけずに記す。自分を無知であると考えている「ソクラテス」は自他共に「ソフィスト」すなわち知者と認めているヒッピアスに「美(το καλου)とは何か」を尋ねる。これにヒッピアスは、それは「美しい乙女」であると答える。すると「ソクラテス」はでは美しい「馬」や「琴」や「鍋」はどうなのかとさらに聞く。それらも「美しい」ことを相手も認めるが、ここからわかるのは問と答のずれである。問は「美とは何か」つまり美の本質であるが、答えられたのは「何が美か」つまり美の具体例である。後者は美「である」というより美「を持つ」物であり、さらにいえば幾分かの美しさを、したがってまた幾分かの醜さをも持つものであり、「美」そのものではない。後者はプラトンが言うところの美の「イデア」である。ここでヒッピアスは答え方を変えて、美とは「裕福・健康・尊敬・長命」など具体物というより価値ある性質であるとする(希英辞典でκαλοςをみると、beautifulのほかfair,good,right,nobleなども出る)。これに対し「ソクラテス」は、たとえば長命はふつうはよいが、憎まれて長生きするより惜しまれて死ぬほうがよい(美しい)こともあることなどを指摘する。つまり先ほど「乙女」のような答え方は求められている本質に対し(論理学用語で言えば外延が)狭すぎるのに対し、今度は広すぎることが注意されている。「ソクラテス」はこのように対話者が具体例から出発することを受けて、それが狭すぎたり広すぎたりすることを修正することで、ぴったりの答えに迫ろうとするのである。事柄の本質をはっきりさせることは学問にとって基本であり、したがって学問としての美学にとって美の本質の探究はまさに中心問題の一つである。さてヒッピアスはそれを今度は「ふさわしさ」というかなり抽象的なものに求める。これに対しては「ソクラテス」はふさわしく「みえる」ものなのかそう「である」ものなのかを問う。「イデア」が物事の本質であると述べたが、ここではさらにそれが現象でなく客観的な実在として考えられていることがみてとれる。現象はみる人(主観)にとって相対的である。イデアは、それにあてはまる(プラトン用語ではそれを「分有する」)諸々の個物の総括として広すぎも狭すぎもしないだけでなく、どの主観にもあてはまる(つまり客観的な)ものでなければならないのである。ヒッピアスはまた美の本質を「有用性」とも言う。これは近代的な発想である。これに対し「ソクラテス」が悪事に有用ものは美ではないとするのは古典的な発想である。真・善・美の一体性が古典的観念であり、ヒッピアスもこれに基づいて「善への有用性」を美と修正する。これへの「ソクラテス」の反論は、そうすると美は善の手段になるということである。美的経験が道徳性を涵養したり、よくできた芸術作品が道徳的教化の手段として役立ったりすることはよくあるが、だからといって美の本質を道徳の手段と規定するのはかなり偏狭な考え方であろう。(ただしここから近代人が美と善の独立性を言いたがるのに対し、プラトンは美と善の一体性の立場からこの功利主義的美学に反対している。)最後にヒッピアスは美とは「視覚・聴覚を通じての快」であると言う。これは近代主観主義的で感覚論的な美学である。これに対する「ソクラテス」の批判は三点ある。①非感覚的な美が排除されてしまう。さきにκαλοςはfair,good,rightなどの意味も持つといったが、日本語でも「美しい行為」や「美談」などという。これは見た目にきれいな行為や耳に響きのよい話ではなくて、意味を理解してfair,good,rightと感じられる事柄である。②感覚的快としては飲食や性などの快も含まれる。視覚・聴覚に限定することでこれは排除されるが、その根拠は何か。③視覚と聴覚は別のものである。どちらも快いものを含むが、ではその共通の快さとは何か。②③は実は同じ問題となる。つまりそれによって「何が美か」について適切に示されている(言葉の意味がわかる)としても美の本質は示されていない(論理学用語では、外延はあるが内含がない)のである。以上によって、「大ヒッピアス」は、「美とは何か」という主題に答が与えられないままで終わる。

 【3 芸術は技術か霊感か】 次に『イオン』という著作をみてみよう。「ソクラテス」と「イオン」の対話である。イオンはホメロスの叙事詩を歌う者(ラプソドス)であり、以下「」なしで記す。ここでは主題は芸術の性質であり、ここでは吟唱という事例に即してその名人とされるイオンに「ソクラテス」が尋ねていくというかたちで進む。問いは芸術が技術か霊感かというものである。両者は反対の概念である。技術は知性によって把握されるものであり、訓練によって習得される。霊感は人知を超えた神的なものであり、訓練して学んだり上達したりするものではない。よってこれは二者択一の問いとなる。これに対しイオンの答えは霊感説である。彼はその働きを磁石にたとえる。芸術家をひきつけるのは芸術の女神(ムーサ→英語の「ミューズ」)である。磁石に引かれた鉄が磁力を帯びて他の鉄をひきよせるように、芸術家は鑑賞者を同様にひきつける。女神に対する芸術家の状態は受動的であり、知性を働かせているどころか一種の神がかりとして正気を失うものでさえあるとする。

この著作では相手に対して「ソクラテス」はほとんど反問せずに終わる。しかし積極的に賛成もしておらず、著者の考えは「大ヒッピアス」に劣らずわかりにくい。プラトンには「神的狂気」の説があることがまず参考となる。ふつうの狂気は病気であり望ましくない。しかし正気ではないが価値ある「神的狂気」として彼は、①予言や占いなど宗教、②恋、③そして芸術にみられるとする(この箇所のほか『パイドロス』244A245A、『弁明』22B-C、『メノン』99C-D、『法律』Ⅳ719C)。してみるとプラトンはこれに賛成しているのか。彼の合理主義からして、むしろ逆説として提示しているのか。また事実問題として芸術霊感説を認めるとしても、それを賛美しているのか、それともそうであるからこそ価値的には警戒しなければならないという問題意識なのか。後の「新プラトン主義neoplatonism)」はプラトンひく合理主義なので、まさに霊感評価の立場に立ち、これはルネッサンスに影響していくことになる。

「女神の霊感」など、幼稚な神話と一蹴したい者もいよう。しかしこれを「無意識」の別名であると解するならば、深層心理学的な芸術論にもなり、現代的論点になることが理解されよう。

 【4 ホメロス】 ホメロスはギリシャ最大の叙事詩人である。伝記的史実はよくはわからない。少なくとも『イーリアス』『オデュッセイアー』という二大叙事詩の作者とされるが、彼ひとりの単独の作でないとする説もある。『イーリアス』は一言で言えばトロイ戦争の詩である。英雄アキレウスや「トロイの木馬」の作戦を立てた策士オデュッセウスなどが活躍する。ギリシャだけでなく西洋文芸の最大の「古典」とされるが、私個人としては、実に殺伐としていてまったく好きになれない。『オデュッセイアー』はその後日談であり、オデュッセウスが、トロイ方の神々によって終戦後の引き上げを邪魔され、妖怪や怪物などと戦いつつ帰郷を遂げる話である。どちらも長大なもの(文献④⑤)で、近代詩よりも日本文芸なら『平家物語』のようなものがまだ近い。どちらにおいても印刷術もなく識字率も低い古代であるから、文芸とは読むものでなくまず聞くものである。『平家物語』では琵琶法師が吟じたように、ホメロスも吟じる人がいたのであり、イオンはその一人である。そして少なくともホメロスの場合、それを聞くことは単なる娯楽でなく重要な教養とされていた。芸術家の創作でなく、事実の物語とされており、またその中には学ぶべきいろいろな技術(戦争の、政治の、造船の、等々)や倫理(神に対して、国家に対して、友に対して、等々)が盛られており、したがってホメロスは知者であり民族全体の教師と思われていたのである。ところで『イーリアス』の冒頭は、「怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの〔怒りを〕」となっている。この「女神」はまさに詩神であり、その声を彼が伝えるべく訴えている。つまりホメロスはこれから自分の「創作」を述べるのでなく、「磁石」として女神の歌うところを聴衆に伝えるという宣言であり、イオンの霊感説はそもそもホメロス自身のものであると考えられる。

 【5 存在としての芸術】 プラトンの主著『国家』をみてみたい。この主題は「理想の国家とは何か」である。その中で「ソクラテス」は、理想の国家に詩人はいらない、という議論を展開する。詩人追放論、あるいは一般化して芸術否定論と言われるものである。プラトン(以下この著作での「ソクラテス」と同一視する)はそれを三つの面から、すなわち①存在論的に②認識論的に③人間論的に、論じていく。

まずプラトンの存在論(詳しくは文献①第2節)の面から。彼によれば、あらゆる存在は「イデア」と「現象」に分類され、イデアは現象の「原型」であり現象はイデアの「模造」であった。そして芸術は「模造の模造」である。たとえば寝椅子を描いた絵を考えると、これは「現象」としての寝椅子の模造である。現象の寝椅子は個別的・具体的な存在であるから、普遍的・一般的な「寝椅子のイデア」の模造である。ゆえに寝椅子の絵は寝椅子のイデアの「模造の模造」または「間接的な模造」であることになる。ここでわかるのは、「模造」(ミーメーシス)が単なる模写や複製ではないことである。イデアと現象の関係では明白であろう。現象の芸術の関係でも、たとえば前者が三次元で色つきなのが絵画では二次元であり、彫刻では色がないことによって理解されよう。存在の種類としての別の次元に属しつつ、「臨在」と「分有」という関係性において結びついているのである。プラトンは芸術をまず「模造」という存在性格において考える。

これは近代人にはすぐには了解できない。まず浮かぶ疑問は、写実的ないし具象的でない作品は何の「模造」なのかであろう。だが抽象画やどんな現象の模造でもない「オブジェ」などは現代の産物であり、プラトンがそれらを考えていないのは自然である。文芸も作家が創作した虚構でなく事実の模造とみなすのがギリシャ人の発想であった。しかし音楽はどうか。これにも答えはある。プラトンにとって、ソクラテスについで影響を受けたピュタゴラスが答えている。音楽は音からなるが、音同士の「調和」(`αρμουια)(同時では和音、継時では拍節や旋律)に音楽の本質がある。この調和関係は数学的性質を持つ。音は波であり、和音は共鳴現象で生じるので、ここまではピュタゴラスは近代科学的にかなり正しい。ただしここから彼は形而上学的宇宙論に飛躍し、宇宙にはこのような調和が偏在すると想定し(、というよりそのように調和したものとして「宇宙」(κοσμος)を想定していたのがギリシャ人であった)、たとえば天体の運動の法則性から、そこにおのずから音楽が成り立っているのであり、人間が行う音楽活動はその模造であるとされるのである。

前近代の思想では存在論はそのまま価値論である。原型は模造より、普遍的で永続的なものは個別的で一時的なものよりも価値が高いとプラトンは考える。前近代人にとっては当然であり、現代人でも少なくない者が賛成しよう。それゆえ模造の模造である芸術は最も価値が低いとプラトンは結論する。また「存在」を「つくられたもの」とみなすのは西洋にとって常道である。してみると寝椅子の制作者を考えると、イデアとしては神であり、現象としては職人であり、絵としては画家である。制作者の価値もこの順序ということになる。理想の国家にそのような最も劣る存在やその制作者は必要ないということになる。

【6 認識としての芸術】 存在をイデアと現象に分けるプラトンは、知識をイデアの知識と現象の知識に分ける。いうまでもなく前者のほうが価値ある真の知識とされる。『イーリアス』のような叙事詩に学ぶべき知識をみていた一般のギリシャ人からすれば、ホメロスのような詩人はたいへんな知者であるとされた。確かにそこには将軍や船乗りや船大工などなどについて、もっともなことが述べられている。しかしプラトンは言う。ホメロスはたとえば戦争がどう「みえる」かをよく知っているが、それが何「である」かを知っているわけではないと。つまり詩の知識は現象の知識であってイデアの知識ではないと。戦いの仕方は将軍が、船の操り方は船乗りが、舟の作り方は船大工が、詩人よりよく知っているのであり、詩人はただ将軍等々がどう「みえる」かについてよく知っているということなのである。ゆえに詩人は無知ではないとしても、理想の国家に価値の劣る知識は必要なく、この意味でも詩人はいらない。その国民はすべからく学問('επιστημη)によってイデアの知識を得るべきとされる。

 【7 人間と芸術】 イデアの認識は理性の純粋な働き(能動)であるが、現象を認識するのは感性を通じてである。後者の場合魂は身体の作用を受け取るという受動的なあり方をしている。この「受動」とか何かを「こうむる」とかということが「パテー」ないし「パトス」(παθος)の原義である。言うまでもなくこれは「情念」の意でもあり、知的活動の原理である「ロゴス」(λογος)と対比される。ここからプラトンは、「詩に対する最も重要な告発」を、人間にとってそれが何かという面から行っていく。「我々のうちの最もすぐれた人たちでさえ、一人の英雄が悲しみにくれて、長いせりふを涙ながらに縷々と語るありさまとか、不幸を歌って胸を打つありさまとかを、ホメロスなり、他の悲劇作家の誰かなりが真似て描写するのを聞くとき、〔…〕我々は喜びを感じ、我を忘れて同情共感しつつ、ついていく。そして我々を最も強くそのような状態にさせる作家のことを、すぐれた作家であると真剣にほめたたえるのだ」。――ここで「真似て描写する」と訳されているのは「ミーメーシス」のことである。またここでわかるのは、詩の(当時は散文芸術はほとんどないので文芸の、と言ってもよい)価値ある主題が人間の情念であること、そしてそれをミーメーシス(描写)することによって、享受者(当時としては読者というより聴衆や観客)の情念に訴え、そこに共感という作用を及ぼすということである。文芸は二重に人間のパトスを本質的な場とする。以上はそれに関してギリシャ人における定説であることが確認され、プラトンも事実問題としては異論を唱えない。彼が問題とするのはその価値付けであるが、そのためにいったん芸術を離れて日常生活を顧みる。「ところが、我々自身の身に悲しみごとが起こった場合には、我々は反対のことを――平静を保ちそれに耐えることができるということを――誇りとする。それこそが男の態度であり、さっき褒め讃えたようなのは女のすることだと、こう考える」。すなわち理性によって情念を抑えるのがよい、というのが一般的倫理であり、プラトンもそれを肯定する。そして、現実生活では恥ずべきものとされる態度を文芸作品においてはほめたたえるのは「理屈に合わない」。ゆえに、と結論すれば紋切り型の合理主義だが、プラトンはさらに深層心理をえぐる。すなわち人は自分でなく、他人の、しかもすぐれた他人の不幸を嘆くのは恥ずべきことではないと言い訳する。自分の不幸には「無理に抑えていたが、本当は心ゆくまで泣いて嘆いて満たされることを飢え求めていた」ものが、詩人によって満足させられるので、それは得でもあるとする。芸術は抑圧されていた無意識的欲望の充足ということになる。しかしだから有用だとプラトンは言わない。この苛烈な合理主義者は、あくまでもエスをエゴに置き換えることを求める。文芸の享楽によって情念の無意識的充足の快楽を「はぐくみ、いったん強力にしたうえは、自分自身の苦難にあたってそれを抑えるのは、容易なことではないのだから」。つまりプラトンは、芸術と実生活に区別があることは事実問題として認める。しかしそこから芸術内部の価値とてして情念の充足を認める道はとらない。区別されつつも、両者の影響関係という事実を重んじて、実生活優位の立場から芸術を断罪する。悲劇的情念だけでなく、「愛欲や怒りについても、さらにはあらゆる行為にともなう〔…〕すべての欲望と快苦についても、詩作による真似(描写)は、〔…〕そうした衝動に水をやって育てるのだ、本来は干からびさせなければならぬのに、そして我々が劣ったみじめな人間にならず、すぐれた幸福な人間となるためには、本来それらは支配される側におかれなければならぬのに」。プラトンの二元論は、「二世界説」とも言われるが、穢土としての現実界と浄土としての理想界とを単に並存させて、前者からの逃げ場として後者を祈念させるていのものではない。穢土そのものを浄土にせずんばやまないという戦闘的な理想主義である。イデアを認識した者が再び洞窟に戻ってきて仲間の魂を向きかえようとすることは、伊達や酔狂ではない。

【8 考察】 プラトンの美学のうち、「美とは何か」「芸術は霊感か技術か」は、少なくとも論点としては納得されると思われる。しかし、芸術の価値を否定する議論にはショックを受けた者もいるかもしれない。美学は、芸術が価値あるものであるということを自明としないし、前提ともしない。それどころかそれを否定する思想家は実はプラトンだけではない。そのような立場からのものも含めて、芸術の価値についての議論も美学には含まれる。芸術はすばらしいものだという価値観を持っている者も、美学を学ぶ場合は少なくともそれを当然とは思わない心構えが求められる。

また、解釈問題について但し書きを入れれば、『国家』における詩人追放論を、芸術否定と解さない見解もある。その一つとして、芸術はイデアの「間接的な模造」でありその分有であるということは、イデア(真実在)とつながっており摸像(ミーメーシス)という資格でそれを表現しているという意味で価値が認められているとするものがある。この解釈は、近代美学がミーメーシスに替えて「創造」を芸術原理としてもちあげることに対する批判につながるものとして、考慮に値する。また理想国家から追放すべきとすべき芸術については限定的に解すべきであり、芸術全体の否定とみるのは短兵急だという見解もあり、確かに著者の意図や、場合によっては意図せずに現れている思想も含めて、より慎重または深い読解を示唆するものがある。

通説に従ってプラトンが芸術一般の価値を否定したとみるとき、その論法への異論としてはどのようなものが考えられようか。第一に大本のイデアを否定する考えはもちろんあり得る。第二に、存在論としてのイデア論は認めるとしても、それを価値に連動させるのを認めないこともできる。この論点は古代中世哲学と近代哲学との対立に少なからず重なる。第三に、価値論の中で言えば、まず、諸々の価値をあまりに「優劣」の上下関係でとらえる発想には異議があってしかるべきであろう。プラトンの貴族主義は、政治的民主主義への否定だけでなく、水平面での多様な価値の承認という思想を美学においても困難にしている。また第四に、普遍・永遠に価値あり個別・一時的よりまさるという価値観への意義があろう。この論点は西洋と日本の価値意識の違いという論点につながる。第五に、芸術の価値を(「理想国家には不必要」というような)社会的観点からみていることの問題が挙げられよう。これは近代美学における「芸術の自立的価値」との対比になる。ただ、芸術を社会的効用の道具としてだけしか認めないのは偏狭であるが、両者を無関係としたうえでの芸術至上主義が、かえって芸術そのものも貧しくしているという反省はなされるべきであり、両者の関係性を論ずること自体をしりぞける態度は適切であるまい。第六に、理性と情念においても、一方的な上下関係でとらえるのはどうかと思われよう。非理性的というより反理性的な情念(または欲望、衝動、本能等)をもちあげる(たとえばニーチェの)「美学」はおおいに危険である。しかしその逆の、理性の名による情念の抑圧は、「病的合理主義」の一種として、人間疎外の表れであろう。プラトンは、芸術に対して確かに大きな意味のある「告発」をしたと認め、それを正面から受け止めたうえで、人間の幸福や救済に、また(単なる道具としてではないが)理想社会を築いていくことにもつながるような、そのような芸術のあり方を求めていきたい、というのが私の立場である。

 

文献

 

    仲島陽一「哲学史 第四章プラトン」『おきな草』第26号、2009

    『プラトン全集、10〔ヒッピアス、ヒッピアス、イオン、メネクセノス〕』岩波書店、1975

    プラトン『国家』藤沢令夫訳、岩波文庫(上下)、1979

    ホメーロス『イーリアス』岩波文庫(上中下)、1964

    同『オデュッセイアー』岩波文庫(上下)、1971

    プラトン『饗宴』久保勉訳、岩波文庫、19652

    同 『パイドン』村瀬能就訳、角川文庫、1978

    同 『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、1967

    同 『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫、1967

    斉藤忍随『プラトン』岩波新書、1972





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ルソ-の理論
悪の原因と克服

仲島陽一 / 北樹出版
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入門政治学
― 政治の思想・理論・実態

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共感の思想史

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2015/06/11 16:07 2015/06/11 16:07
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  1. fghfd 2015/10/01 16:20  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    しかしその逆の、理性の名による情念の抑圧は、「病的合理主義」の一種として、人間疎外の表れであろう。プラトンは、芸術に対して確かに大きな意味のある「告発」をしたと認め、それを正面から受け止めたうえで、人間の幸福や救済に、また(単なる道具としてではないが)理想社会を築いていくことにもつながるような、そのような芸術のあり方を求めていきたい、というのが私の立場である