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  二葉亭四迷と女郎屋 再考
     『国際地域学研究』第15号、2012年、東洋大学国際地域学部

 

  一 問題の所在

 

 二葉亭四迷(18641909)の小説『浮雲』(1888-90)は、日本最初の近代小説というのが通説である1)。しかしまた彼が文芸創作を「男子一生の仕事」として潔しとせず、政治や経済での――主に対外的であり、自らが地位や財富を得る目的でなく国家のための「経綸」として――活動を志していたことも、日本近代文芸史をひもとく者には知られている。彼のこうした意向の一端として、一時期にロシアで日本人の女郎屋を経営しようと考えた――実行はしなかった――ということがある。このことの意味を改めて考えるのが本稿の主題である。これは二つの観点からなされる。一つは、「近代的」な人間観および恋愛観との関連においてである。もう一つは、特に明治期日本の対ロシアの問題を通じた彼の政治意識との関連においてである。

 「再考」と題したのは、丹羽文雄が1949年にこれを問題としているからである。これは二葉亭についての本格的な研究と評価を始めた中村光夫に対する批評であり、二葉亭が「小説を廃めてから軍の嘱託かなんかでロシアに行き、日本人のお女郎屋を経営しようとした」とし、「金の為か何か知らないが外地で女郎屋をやろうとする」ことを中村が知っていたかを問い、小説だけで論じるのは「片手落ち」と批判し、日本の文学が二葉亭以来進んでいないという中村の表現に不満を漏らしたものである2)

 これに対して中村光夫はすぐに応えた3)。そのうち、次の点は中村の言うとおりである。①二葉亭の女郎屋論は丹羽の言うほど知られていないものではなく、つまり隠すべきひどく不名誉なものと考えられていなかった。②ロシアで「軍の嘱託」で女郎屋を営むことは不可能であり、二葉亭はまったく民間の事業として構想している。③二葉亭の目的は彼自身の金儲けでなく、直接には「日本の商業」の振興のため、ひいては対ロシアの日本の国益を考えてであり、「汚い根性」からでなかったことは少し調べればわかる。――以上の反論の力は大きく、二葉亭に対する風俗小説家丹羽の批判的言説が、実は二葉亭を「完全に丹羽文雄化した」解釈に基づくものに過ぎないという結論は痛烈である。

 しかしこれで問題は終結していない。私が「再考」を試みるのはそのためである。まず中村光夫の文章に即して言えば、次のような点が指摘可能であろう。①二葉亭は自分の金儲けのため、しかも軍の後ろ盾でロシアに赴こうとしたのではなかった。しかしそれなら女郎屋の経営そのものをどのように考えるのか。a中村自身の立ち位置はどこなのか。二葉亭は「熱烈な存娼論者」であった「点で彼の思想の古さを責めることはできませう」という言い方は曖昧さがある。中村自身が存娼論に立って、新しくてよい二葉亭もこの点では古くて悪いと批判しているのか。中村自身は廃娼論でこの点で二葉亭を是認しないが、それは絶対悪でなく道徳観の時代的推移によるもので、この点で二葉亭の「古さを責める」ことはできるが、そうした非難はあまり意義がないとする、半ば弁護論なのか。それともいまは存娼論批判の論者も多いので、そういう立場からすれば「彼の思想の古さを責めることはできましょう」と中立の立場からの注釈に過ぎず、中村自身のスタンスは明示していないと読むべきなのか。――このうちなら、中村の論理は自己矛盾していると私は考えるが、少なくとも彼の二葉亭擁護論はかなり弱くなるであろう。b「熱烈な存娼論」と近代的な恋愛観との関係をどう考えるのか。これは二葉亭の文芸そのものの近代性に疑問を付すことにならないのか。②軍を後ろ盾に外地で儲けようというのは卑しい根性だとしても、自力で反友好的な国に飛び込み、女郎屋をしてまで国益の発展や国家勢力の拡張に努めることは、賞賛すべき雄志なのか。侵略的な国家主義のお先走り、そこまで言わなくてもむしろ「政治小説」の文士にもみられたいささか粗暴な国士気取りであって、この点でも二葉亭の「古さ」が問題にされるべきではないか。中村は二葉亭が「我国」の「平和的発展」を考え、「弱国日本」の「人口問題の平和的な解決」を考察したとするが、二葉亭はそれほど平和主義者であったのか。ここでも中村が彼を時局的価値に宥和しようという少なくとも無意識が働いていないか。

 本稿では――二葉亭論というより中村論に入り込む――①aは問わないことにする。そして第二節で主に①bにかかわり二葉亭の恋愛観を考え、第三節で主に②にかかわり二葉亭が日本国家の国際状況をどう認識しどう構想したかをより明確にすることをめざす。

 

  二 恋愛観をめぐって

 

 まず問題を論理的に整理してみたい。

 北村透谷は、江戸文芸には色恋はあっても恋愛はなかったとした。後者は精神的なものであり「内面」が問題だというのである。近松の作品などを考えると包括的にこう断言できるかは疑問の余地はある。また「内」と「外」とを峻別するのはキリスト教またはロマン主義の図式であり、実際にはもっと曖昧なものだという異議は出され得る。しかし明治人にとって、西洋近代人が男女の love という語で意味するものはわが国で従来「色」や「恋」といった語で示されてきたものと異なると感じ、ために「ラヴ」などの外来語をあてたり、「恋愛」という新語をつくりだした、という事実はある。そしてそれが「近代的」恋愛とも称され、習俗だけでなく人格的承認に基づく新たな関係性として倫理の問題ともされた。このとき、為永春水の『春色梅暦』を代表とする江戸後期の文芸や、透谷や四迷と同時期にはやった硯友社の文芸は、前近代的な恋愛観や倫理に基づくものとして低評価される。このような図式を想定すると、二葉亭も「近代的恋愛」(の発見、推進、定着)の側に位置づけられるのであろうか。だがそれは、売春という行為、そのような職業、それらを組み込んだ社会制度などと両立できるのであろうかという疑問が出される。

 ところで厄介なのは、次のような意見も出され得ることである。売春を道徳的な悪と見るべきではない。それを否定するのが「進歩的」であるとか「道徳的」であるとか思うのは根拠がない。むしろそれを「賎業」視すること、したがってそのような意識に立つ限りの廃娼論や廃娼運動も批判されるべき差別である。それゆえ二葉亭が売春宿を営もうとしたことを彼が「近代的」ないし「道徳的」でなかったとみなしてはならず、むしろ彼が売春婦に対しても差別意識なく接したことで評価すべきなのであり、それと彼が(いわゆる)「近代的」恋愛観を持っていたかどうかは別問題である、という意見である。この後者の意見に対しては、さしあたり次のことだけを言っておこう。「内面」を問題にする「近代的」意識だからこそ、売春婦を快楽の手段としてでなく「恋愛」対象とみることがあり得るとは言える。しかしその相手が売春行為を続けることは、彼女の「精神」を問題にするがゆえに、平気でいられないのが自然ではあるまいか。仮に売春を不道徳としないことが不道徳ではないとしても、売春を不道徳とすることがただちに差別的で不道徳であるとも言えないのではないか4)

 話を二葉亭に戻すとして、『浮雲』においては「近代的恋愛」がえがかれていたのか。村上孝之氏は、『浮雲』には、――その二年前の『当世書生気質』と異なり、また五年後の北村透谷の恋愛論に先立ち――それが具体化していたという。その根拠として村上氏は、女性崇拝という理念が表現されていることや、女性の美が「理念にまで高められている」ことを挙げる5)が、果たしてそれが「近代的恋愛」の徴表と言えるであろうか。それは前近代の「色恋」にもあったものではなかろうか。また明治以降の泉鏡花や谷崎潤一郎にも強く見られる特質であるが、それらは「近代的恋愛」と言えるのであろうか。

 『浮雲』6)に即して言えば、「恋愛」という語は使われず、まずは「恋」が多用される。第八回になって「相愛〔あいあい〕する」という語が何度も出る。その内容として共感の不可欠性が強調されているので、従来の「恋」と違う観念――けだし「近代的恋愛」――を示したかったのであろう。そしてそこではその観点からお勢の心にこの特質がないと疑われるが、ここでは「解らない」と結論は先延ばしされる。そしてその後文三はお勢が昇に「心変わりした」という解釈に傾くが、第十六回まで来てはっきりする。ここで「恋」でなく「愛」という語が使われ、「荀めにも人を愛するといふからには、必ず先づ互に天性気質を知り合わねばならぬ」と断じられ、お勢はそれに該当せず「ただほんの一時感染〔かぶ〕れてた」と認定される。また第十九回(この回で断絶)では文三の心もイルージョンであったかのような暗示があり、未練はあっても、お勢の心事を前のように識認した彼の側も「恋愛」があったかどうかはかなり怪しいと言わざるを得ない。

 以上のことから私は次のように言いたい。①「恋」と区別される「合愛する」または「愛」という観念があるので、『浮雲』には「前近代的な色恋」と異なる「近代的恋愛」の観念がみられる。②しかしお勢も文三もこの恋愛をしていなかったということで、この小説は「近代的恋愛」をする人間をえがいた作品ではない。――ではこの作品は何をえがいているのか。著者も言うように主題から言えば社会小説であろう。確かにここには政治家も実業家も出てこず、社会的大事件も現れない。しかし市井の人々の心理や習俗を通じての、同時代の自国の社会の提示であると言えよう。――しかしそれを「近代的恋愛の挫折」というかたちで提示した、とは言えるであろうか。村上孝之氏の解釈はあるとり方をすればそのようにもとり得るが、私はそれにはしっくりこない。色恋と恋愛の区別とか後者の敗北とか言うことはこの小説の主題ではなく、おそらく二葉亭自身も特にこだわっていた点とも思えないのである。(もしそうなら、お勢文三の少なくともどちらかは「恋愛」を貫いた結果挫折する筋になるべきで、どちらもそうでなかったというのでは。)したがって近代的恋愛の内実もあいまいであるし、何が「近代的」なのか、はたして二葉亭にも明瞭な答があったのであろうか。(西洋にも古代や中世があったのだから、「西洋的」はただちに「近代的」ではない。)

 文三やお勢にとっては「西洋」と「近代」は一体であったろう。そして彼等はそれに「かぶれ」た。「かぶれる」ことは自ら咀嚼することではないので表面的であり一時的であり得る(「浮雲」のように?)。二葉亭は(後の漱石の言葉を借りれば)このような「上滑り」で「外発的」な「開花」に流れていく人々をえがくことで、同時代の自国民を形象化しようとした。ではそのとき彼――文三やお勢ならぬ二葉亭自身――は、「西洋」や「近代」を「よいもの」「正しいもの」と思っていたのであろうか。彼もまた外国語学校でロシア文芸に「かぶれ」ただけだ、とするのは明らかに行き過ぎた解釈であるが、北村透谷と比べるなら、西洋化ないし近代化について彼は知的受容はしても、倫理的ないし実存的態度としてはそこまで深くないのではあるまいか。いずれにせよ「浮雲」の作者は、「色恋」と「恋愛」の違いを描くことや後者を宣揚することを主題としてはいなかった。

 ちなみに「相愛する」という語は『当世書生気質』に出る。そこでは「色事」が上中下に等級付けられている7)。上が精神的恋愛、中は感情的な愛着で「開けざる世の遺弊」であるが「西洋にも仕入高が多い」とする。下は「肉体の快楽をば、唯専一に」する。ここから坪内逍遥は、前近代的な「色恋」と近代的「恋愛」という二分法をとらず、また西洋人の実情をそのまま規範化してもいないことがわかる。またそこで公娼制については、「同じ人間女子をもて、男の玩弄に供ふる事の、世にあからさまに許さるは、いと嘆くべきの限り」とまずは言うがすぐに続けて言う。「とはいへ是もまた、時勢のしからしむる所、西洋の開明の国々にも、淫売といふ陋習のみは、尚禁じがたき弊とぞ聞く」と容認に転じる8)。むしろ問題は、「いやしむべき娼妓に迷ふ」ことで「身の破滅」となることだと言う。それゆえむしろ「禽獣の欲」である「一旦の快楽」であると割り切って利用すればその「害も大いに減じ」ると賢明な利用法を説く9)のである。

 

  三 国家観をめぐって

 

 二葉亭四迷が文芸にかかわるきっかけは外国語学校でロシア語を選択したことにあり、その選択は文芸のためでなく、ロシアを日本が将来憂慮すべき国と考えたからである。彼が書いたところを写せば、樺太千島交換問題(1875年)での世論の沸騰を受けて、「将来日本の深憂大患となるのはロシアに極まつてる。こいつ今の間にどうにか禦いで置かなきやいかんわい」10)。ここで私達が知りたいのは、彼のこの認識が次のどれに属するものなのかである。①ロシアは日本そのものへの武力攻撃すなわち侵略を狙っている。②ロシアは満州や朝鮮への進出を狙っており、これは日本もまた狙うところであるから、この地をめぐって露日の利害は対立するので、軍事的対立(戦争)になる可能性もある。③二葉亭の認識において、①のときと②のときがある。④二葉亭は①と②とを本質的に区別あるものとはみず、状況次第でどちらにもなるものと考えた。⑤実は二葉亭の認識は漠然としており、以上のどれかとは決めがたい。

 この問題に関して、中村光夫はどう記しているのか。江戸時代から引き続き「当時の我が国はロシアの侵略の対象となる危険にさらされていた」とするが、日本そのものが侵略対象とされたとまで断定する具体的根拠は示していない。大久保利通が征韓論に反対した理由としてロシアに「漁夫の利」を得させるからと考え、逆に西郷隆盛はむしろロシア対策として征韓を説いたと、中村は紹介する11)。だがここで注目すべきは明治初年の二大政治家において、朝鮮侵略と対露対抗とが結びついていることである。(大久保の内地優先論が将来の侵略構想を含んでいたことは断るまでもあるまい。)中村は、「我国の大陸政策はその第一歩を踏み出す以前にロシアとの衝突を予想した」とするが、それは大久保・西郷の言葉を引くことでただちに証明されたとは言えまい。むしろ朝鮮などへの侵略をえがいていたがゆえにロシアとの対立を(少なくともより強く)意識した、あるいは自らの大義名分として「ロシアの脅威」を強く喧伝した、という可能性も考えなければならない。樺太千島交換条約は日本に不利であったし、当時の国力において劣っている我が国が、膨張主義的な帝政ロシアにおされ、国民が悲憤慷慨していたことは否定できない。ただ繰り返せば、それと日本への現実的侵略とは区別されなければならず、それと日本の側の(朝鮮や中国への)侵略構想との関連について、当時の人々が、無意識的に十分区別しなかったり意図的にこじつけたりすることも含めて、どう思っていたかが検討されるべきであろう。

 二葉亭に話を戻せば、彼はさきに引用した対露意識について、「右のやうな一種の帝国主義に浮かされて」と表現している。「帝国主義」という語、「浮かされて」というさめた反省は、無論執筆時のものであるが、無視できない自己規定である。「帝国主義」は無論レーニン以降の社会科学的概念ではなく、二葉亭の観念内容としては、さしあたり次のようなことが思いつかれる。第一に、問題を武力で解決しようとする態度である。二葉亭が武士の子であるということからはつながりやすい。もの心つく頃に戊辰戦争に遭い、少年時代に西郷隆盛の肩を持ち、本来は軍人志望で陸軍士官学校を三度も受験したが不合格になった結果、1881年外国語学校の露語科に入ったのである。第二は、初めの疑問への部分的な答えになろう。すなわち「帝国主義」という語によって、国際関係を諸国民の友好や国際平和という方向でなく、各国が国益の伸張を目指しその方途としては武力の行使も辞さない場とみ、つまり道義でなく強弱を優先する見方が示されているということである。これを彼はその(武士という)出自や(内外現実政治の)観察によって得たとは言えようが、思想としてとらえるなら、彼が吉田松陰に傾倒していたことに注目できる。松蔭はたとえば「久坂玄瑞に服する書」において、「アメリカ、ロシア二国を牽制し、〔…〕琉球を手中に収め、朝鮮を取り、満州をくじき、シナを圧迫し」云々と述べている12)ように、日本軍国主義の最初の立案者なのである。

 しかしまた二葉亭を端的な「帝国主義者」と規定しようとすると、彼自身がそれには抵抗してもいる。彼は言う、「私は当時『正直』の二字を理想として、俯仰天地に恥ぢざる生活をしたいといふ考えを持つてた。この『正直』なる思想は露文学から養われた点もあるが、もつと大関係のあるのは、私の受けた儒教の感化である。〔…〕私は帝国主義の感化を受けたと同時に、儒教の感化をもよほど蒙つた。〔…〕こに、私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地に恥ぢざる『正直』が形成されたのだ」13)。また彼は、「処が私はこの頃、帝国主義の反対に、社会主義に化触〔かぶ〕れた」14)とも言う。儒家思想や社会主義と帝国主義との両立は確かに困難である。孟子が覇道を退けて王道を説くのは帝国主義と真っ向から対立する。社会主義は万国の労働者の団結を説き、片山潜とプレハーノフが握手して平和を呼びかけたのは当時の日露関係の重要な場面である。

 しかし思想史研究者からみれば、儒家や社会主義についての二葉亭の理解にまず疑問が起こる。儒家思想について言えば、「正直」をその基本理念とできようか。四書でその概念はとりあげられておらず、『論語』で「直」に関して、孔子がむしろ親子でかばうことを優先する箇所もある。二葉亭本人が「上つ面の浮かれに過ぎない」15)と付言するのももっともと思わざるを得ない。また「社会主義」についても、「頗る幼稚なもの」で「政府の施政が気に喰わなんだり、親達の干渉をうるさがつたり、無闇に自由自由と叫んだり」16)とうちあけている。もとはロシア文芸から(特にツルゲーネフの『父と子』)とはいえ、チェルヌイシェフスキー、ゲルツェンからラサールまで「よく読んだ」と言い17)、内田魯庵によれば「マルクスの思想をも一通りは弁えてはいた」18)というのにこのていたらくはどういうことなのであろう。二葉亭は変装してまで下層社会に出入りし、貧乏人の人格のほうがはるかに高等社会にまさっていると言ったという19)。しかしそれも「露国の小説に誤られた」結果で、「日本の下層社会は根本から駄目だ。〔…〕腐敗し切っていてとうてい救うべからずだ」20)などと断案してしまい、また貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情していても権力階級の存在は社会組織上止むを得ざるものと見做し」21)たという。また儒教からの感化ぶりを「先生の講義を聴く時に私は両手をつかないじや聴かなんだ」という態度と、社会主義の場合の反抗的態度とを、説明抜きで結びつけるのは少なくとも飛躍であろう。しかし二葉亭はこれらをくっつけて、「つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学との感化とが結合つて、それに社会主義の影響もあつて、ここに、私の道徳的の基本観念、すなわち俯仰天地に恥ぢざる『正直』が形づくられた」22)とまとめてしまう。多くの人は若いときにいろいろな思想に雑然と影響されがちではある。しかし二葉亭は、結局思想というものを、またどの思想もはっきりとは、わからない人間だったのかという疑問が生まれる。

 二葉亭にそれらを理解する知的能力がなかったとは考えられない。また文芸家の中にはそもそも思想的問題には関心を持たない者もいるが、無論彼はそうではない。よほどの思想家でない限り、人は思想を「外から」取り入れるのであるが、「かぶれる」のでなくそれを自分の思想として「持つ」には、いわば腹から納得して咀嚼し血肉化する。これは単なる知的操作ではなく、理屈の手前での、自らの体質や気質、体験や欲求との整合性、その意識によって感動し、めざすところへ駆り立てられることである。ある種の人々にはこうした痛感や使命感が欠けている。二葉亭は「人生の目的はなんだろうなぞという問題に、思想上から自然に走つてゆく。実に苦しい。従つてゆつくりとその問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしてた」22)という。すなわち、「人生の目的はなに」かなどと悩まず、自分の快楽や世俗的な成功しか気にしない思想音痴ではない。この観点から一般に三類型が考えられよう。A:宗教的信仰、政治的イデオロギーはもとより、処世術から健康法に至るまで、強い信念を持して貫いたり、人にも勧めてやまなかったりする人々がいる。そうなるには必ずしも知的理解力や反省力を要しない。そのことによる弱点が現れる場合もあるが、そのことをもって彼等の信念がすべて内容上劣ったものだということにもならない。B:すぐれた思想的理解力を持ち、諸思想を理性的に検討できる人々がいる。言うまでもなく学者には必要な資質であるが、彼等に自分自身の思想はからっきしない場合もある。C:右の両者をほどよく兼ね備えた人々がいる。これが「思想家」であろう。勿論彼等がABと比べて「人間として」すぐれているかどうかは別問題である。――Aは「信者」や「信念の人」であってもそれだけでは思想家ではない。Bは「学者」ないし「研究家」であってもそれだけでは思想家ではない。なお「理論家」と言ったときにはB寄りの場合とC寄りの場合とがあると考えられる。

 二葉亭はこの類型ではBに入ると思われるが、職業としての学者・研究者になろうとしなかったのは、実行に強く傾いたからであろう(この意味では儒家的と言い得る)。しかし実行家として成り立つためには、A型で、失敗しても悔いず理想に準じてよしとする信念の人か、逆に、理想などは建前として以外には顧みず図太く根気よく進む人である必要があろうが、二葉亭はどちらでもなかった。「儒教」や「社会主義」に比べると、「帝国主義」が彼にはまだしも身についていたように思われる。しかしそれは、平和主義や国際主義との十分な理論的対決を通して得た見解というより、体質的、気質的な「国士」志向との整合性による面が強いであろう。

 対露意識の内実に話を戻そう。きっかけの樺太千島交換の際、「将来日本の深憂大患となるのはロシア」で「今の間にどうにか禦いで置かなきや」という表現7)からは、ただちにロシアが日本そのものを攻撃するとは思っていないこともわかる。それは客観的に妥当な、そして当時の人々にも一般的な認識であろう23)。軍人を志望したが陸士不合格により外国語学校露語科に進んだのは、その流れとして了解できる。そこでロシア文芸の魅力にとらえられ、それを通じて「社会主義」にも接して二葉亭の思想的振幅は広くなる。外国語学校の組織替えに嫌気がさして卒業間近で中退というのは、持ち前の資質と「かぶれた」反抗心の結合として了解しよう。だがそこで身の立て方が改めて問題になる。『浮雲』などの著作は金のためだという晩年の強調には、幾分かの韜晦があろう。つまり文芸的達成としてもある程度の自信や野心はあったはずだ24)。だが文芸が行き詰った後の、内閣官報局勤務時代の八年間(1889-97)をどう解すべきか。その間に日清戦争があり、関連して対ロシアでもまったく平穏ではなかったはずだが。官僚的でなく自由に国論を吐き合うような雰囲気であったようだが、それで満足していたなら、実行家としての内的欲求もどれだけ「やむにやまれぬ」ものか疑問となり、また対露の危機意識も低まっていたなら、「将来」のために「今の間に」というかつての長期的視野との整合性に疑問が持たれる。

 二葉亭が女郎屋論を弁じていた時期は厳密には決定できないが、1902年、教師を辞して徳永商店の顧問としてハルビンに行く前であることは確実であり、おそらくは内閣官報局をやめて以後の学校教師時代(1898-1902)であろう。してみると小田切秀夫が、「少年時代からのナショナリズムが帝政ロシアの帝国主義的な東方政策の展開という明治三〇年代中葉の現実を前にしてふたたび彼の心を強くゆすぶりはじめた」25)と叙述するには少なくとも真相の一面をとらえていよう。すなわち特に北清事変(1900)を機に日露関係は深刻化し、ついに戦争に至るのである。

 では二葉亭は日露戦争の本質をどうとらえたか。「万止むを得ぬから始めた戦争だ。露国が満州に盤踞しては東洋の平和は保たれぬ、従つて我国家の存在も危くなる、ソコデ」26)と彼は説明している。ここで検討すべきは、これが①客観的に妥当な認識か、②当時の一般的な認識か、③彼の思想全体においてどう位置づけられるか、である。

 第一に客観的妥当性についてであるが、ロシアの満州進出が「東洋の平和」に好ましいものでないことは認めよう。しかし「従つて我国の存在も危くなる」という論理は妥当なのだろうか。二つの問題がある。一つは、もし満州をロシアがおさえれば次に朝鮮を我が物にするであろう、そしてそれに成功すればその次には日本を侵攻するであろう、という予測になっていることである。するとロシアにそこまでの意図がありそれを進める力があるとしても、それを防ぐには「満州は日本の生命線」とばかりいまロシアと戦争をすることが「万止むを得ぬ」方策なのかということである。もう一つは、これが「一方的な見解」27)であり、ロシア側からすれば、いまや日本の朝鮮への野心は明白で、そこをおさえれば次は満州に出てこよう、満州を取られてしまえばその次はロシア本土だ、だからいま日本をたたくのは自国に不可欠だ、と(事実後に満州を事実上の植民地にした日本はノモンハン「事件」――という名の対ロシア戦争――を起こした)。つまりどちらも同じ「帝国主義」の論理である。二葉亭がその一方だけを言うのは、自国に正当性のおすみつきを与えたり、国民感情を一方に導いたりするという目的では了解できるが、客観的にフェアーな言い分ではない。

 第二に一般国民の意識であるが、まずただちに対露戦争に踏み切ることが日本そのものの防衛に必要だと考えていた者が多いとする根拠はみいだされない。他方当時は平和主義は少数の知識人にとどまっていたことは確かである。しかし戦争に正当性は必要なくあるいは勝敗がすなわち善悪だとまで割り切っていた人々が多数派だとも言い難い(また勝利の見込みについては半信半疑であったというのが開戦前の民衆の多数であったと考えられる)。多かれ少なかれ自国の正当性を感じていたと言うべきであろう。その感情を醸成した最大のものは三国干渉ではなかろうか。もとはと言えば軍事力によって中国から奪った遼東半島を返させられたものではある。しかしそれを当事者でないロシアが他の二国(仏独)も引き込んでの強要で、日本からすれば多くの犠牲で得たものをさらわれたかたちであり、しかもそれをロシアが租借して軍事基地を作るに及んでは、非難に値する覇権行為であろう。ただし政府首脳においても、伊藤博文がぎりぎりまで日露協商を追求していたように、自国防衛のためどころか大陸進出を前提にしてさえ、対露戦争を不可避と考えない立場があった。不可避論が国民の一般的認識とは言えないであろう。

 第一第二が成立しないなら、二葉亭の日露戦争観は彼自身の見地から主に説明されるべきであろう。しかしそれは彼「だけの」ものではあるまいから、二葉亭個人および当時の国民の意識史として、(本稿ではごく大雑把に触れただけだが)より詳しく検討される必要があろう。私がここにこだわるのは、二葉亭および近代精神史一般への関心だけでなく、近年、日露戦争を日本防衛のためとする見解が出てきたからである。学問的には有力でないが、「国民的作家」司馬遼太郎がこれによって書いた小説28)がNHKでドラマ化され、彼の「権威」にも乗るかたちで歴史修正主義者たちが教科書を含めて広めている29)ので、影響力は軽視できない。

 最後に、次のような疑問も出されるかもしれない。社会ダーウィニズム30)的な戦争不可避論は客観的真理性を欠くイデオロギーに過ぎないと認めるにしても、当時の国際関係においてと限定すれば、日本が(正義を貫いて滅びても仕方ないとするのでなく)独立を保つためには、大枠としては「帝国主義」であらざるを得なかったのではないか、と。これに対し私は、当時の日本を帝国主義に向かわせる大きな誘因はあったと認めよう。しかしそれしかなかったと短兵急に断じたくはないし、他の選択肢の模索も現にあった。たとえば中江兆民は、空想的非武装平和主義でも、武断的拡張主義でもなく、専守防衛力は保持するが対外侵攻はしない構想を示した(『三酔人経綸問答』)が、これはまったくの空論とは言い切れまい。田中彰氏は、「大日本帝国」においても、こうした国家構想が脈々と続いていたことをあとづけている31)。さらに言えば、そうした「小国日本」が帝国列強から身を守るに際して、同様な課題を持つアジア諸国と連帯すれば(現実的に)より強力で(名分上)より道徳的でもあろう。政府が「大日本帝国」をめざさなかったり、民間の「アジア主義者」が反植民地主義を「日本を盟主とする」勢力圏作りに悪用したりしなかったら、日本とアジア諸国との健全な民族主義勢力の協力は、実を結んだのではなかろうか。

 

  四 結びにかえて

 

 本稿の考察は、二葉亭四迷の古い面に焦点がおかれる結果をもたらしたかもしれない。すなわち彼は、近代的恋愛というものを意識しつつもその追求ということにはあまり関心を持たなかった32)。また「社会主義」や「ヒューマニティ」ということに彼なりに関心を持ちながらも、武力本位の拡張的国家主義に熱を入れた。こうした姿をそれだけとってみれば、文芸的には北村透谷ら『文学界』的ロマン主義よりは政治小説に、政治的には兆民の民権論から非戦論につながる線よりも国権論から帝国主義に進む流れ33)に、より近い。もとよりこれは彼の一面であり、二葉亭が過渡期の人として新旧両面を持っていたことは従来も言われてきたことであり、本稿も大枠でそれを出るものではない。

 ただ私の感想を付け加えれば、二葉亭における「古いもの」は単に古いのではなく、いまの問題でもあり続けていると考える。小田切秀夫が1970年に「明治時代の多くの男性と同じく売春を必ずしも罪悪と考えていなかった」4)と書いたとき、もはや克服された「古い」考えという意識がみてとれる。しかしその四十年後の今日逆に、「多くの男性」どころか「フェミニズム」の約半分にも、売春そのものは「罪悪」とは考えない状況であり、「恋愛」との関係を含めて問題であり続けている。また国際政治に関しても、社会ダーウィニズム的観点からの力への信仰がなくなっていないだけでなく、1949年はもとより1970と比べても現在の日本のほうがより平和主義的ではなく「軍事リアリズム」的言説が強くなっている。

 二葉亭四迷と日本の「近代」を考えることは、「歴史的位置付け」にとどまらない検討課題であると、私は考える。

 

注】

       引用する際に旧字は新字に直した。

       引用文中の強調も引用者によるものである。

1)      文芸史上の「浮雲」の位置について、拙稿「日本近代文芸史の歴史」『国際地域学研究』第11号、東洋大学国際地域学部、2008、参照。

2)      『風雪』一九四九年四月号(風雪出版社)「小説鼎談」での発言。

3)      「二葉亭と女郎屋」(初出『改造文芸』一九四九年十月号)『中村光夫全集』第一巻、筑摩書房、1971

4)      中村の約二十年後に小田切秀雄は、「二葉亭は明治時代の多くの男性と同じく売春を必ずしも罪悪と考えていなかった。同時にまた、売春婦であろうといっさい同じ人間として扱い、決して差別をしなかった日本近代文学の伝統の中の一人であった」と事実問題として注解するにとどめている(『二葉亭四迷』岩波新書、1970186頁)。

5)      村上孝之「ロマンティック・ラヴの成立と崩壊――二葉亭四迷の場合――」『比較文学研究』46、東大比較文学会、1984

6)      「浮雲」からの引用は、『二葉亭四迷全集』岩波書店(以下全集と略)第一巻、1964、によった。

7)      坪内逍遥『当世書生気質』岩波文庫、1937191頁。

8)      同書、97頁。

9)      同書、99頁。

10)  「余が半生の懺悔」全集、第五巻、1965265頁。

11)  「二葉亭四迷評伝」『中村光夫全集』第一巻、230-231頁。

12)  『日本の名著、31、吉田松陰』中央公論社、1984301頁による。

13)  「余が半生の懺悔」268頁。

14)  「余の思想史」全集、第五巻、285頁。

15)  「余が半生の懺悔」268頁。なお二葉亭における「正直」の観念についての詳しい考察を含む研究として、十川信介『二葉亭四迷論』筑摩書房、1971、がある。この著者はそれを儒教よりも「近代的自我」(1950頁等)との関係において把握しようとする。

16)  同書、266頁。

17)  内田魯庵「二葉亭追録」『思い出す人々』岩波文庫、1994130頁。

18)  同「二葉亭四迷の一生」同書、47頁。

19)  同書、48頁。

20)  同「二葉亭追録」同書、130頁。

21)  「余が半生の懺悔」268頁。

22)  同書、270-171頁。

23)  しかしそれならロシアに限らないことではないかという疑問も起こるが、日本政府が主として「イギリスの視点」で国際情勢を見たので「ロシアの脅威」が強調されたという。山田朗『日露戦争の真実』高文研、2010

24)  十川信介氏は、二葉亭に初志貫徹する気があれば、退学しても、坪内逍遥をではなく、外務省の要職者や志士たちを訪問する選択肢があったことを指摘する(前掲書、266頁)。

25)  小田切秀夫、前掲書、185頁。

26)  「満州実業案内」全集、第五巻、307頁。

27)  十川信介、前掲書、270頁。

28)  司馬遼太郎の日露戦争観への批判として近年出た著作として、中村正則『「坂の上の雲」と司馬史観』岩波書店、2010;高井弘之『誤謬だらけの「坂の上の雲」』合同出版、2010;山田朗、前掲書;原田敬一『坂の上の雲と日本近現代史』新日本出版社、2011など。

29)  たとえば西尾幹二他『(市販本)新しい歴史教科書』(扶桑社、2001)では日露戦争どころか日清戦争を含めて「自国の防衛」(216220頁など)の観点をおしだしているが、「司馬史観」との類似は大きい。

30)  社会ダーウィニズムそのものへの批判としては拙著『入門政治学』(第二部第一章)(東信堂、2010)参照。

31)  田中彰『小国主義』岩波新書、1999

32)  彼は後の『平凡』で「精神的」恋愛論に反発して性欲との連続性を考えている(「四十一」)。これはこの小説が自然主義のパロディであることによってだけ説明されるものではあるまい。親子の愛についても、「霊性の愛」という主張を退けて「動物的の愛」に軍配を上げている(「五」)。この小説で最も真摯な「熱情熱愛」(「十三」)は飼い犬のポチとのものである。北村透谷における精神的恋愛論がキリスト教から来た面は大きいが、二葉亭の『其面影』において主人公の恋愛を妨げる大きな要因はヒロインのキリスト教信仰におかれる。

33)  これは二葉亭が高く評価した徳富蘇峰の道であった。

2013/04/15 11:42 2013/04/15 11:42
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-*-*-*-*- 仲島先生の本のご紹介 -*-*-*-*-

 


共感の思想史

仲島 陽一【著】
創風社 (2006/12/15 出版)

291p / 19cm / B6判
ISBN: 9784883521227
NDC分類: 141.26      
価格: ¥2,100 (税込)

 


入門政治学
― 政治の思想・理論・実態

仲島 陽一【著】
東信堂 (2010/04 出版)

268p / 19cm / B6判
ISBN: 9784887139893
NDC分類: 311     価格: ¥2,415 (税込)




両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス) 
フランソワ・プーラン ド・ラ・バール (著), Francois Poulain de la Barre (原著), 古茂田 宏 (翻訳), 佐々木 能章 (翻訳), 仲島 陽一 (翻訳), 今野 佳代子 (翻訳), 佐藤 和夫 (翻訳)

(単行本 - 1997/7)
2011/10/17 16:48 2011/10/17 16:48
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2011/03/30 14:49 2011/03/30 14:49
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-*-*-*-*-*-*-*-*-
 


共感の思想史

仲島 陽一【著】
創風社 (2006/12/15 出版)

291p / 19cm / B6判
ISBN: 9784883521227
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2011/01/14 15:19 2011/01/14 15:19
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やの あやこ (堀辰雄の婚約者) 明治43年(1910~1935)東京都下砧村喜多見成城(現世田谷区に生まれる。昭和10年6月23日、婚約者・堀辰雄に付き添われ、結核治療のため富士見高原療養所に入所。しかし、5ヶ月後の12月6日に死去。25歳だった。

「風立ちぬ」は彼女との療養生活を元に描かれた。




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2010/10/07 16:32 2010/10/07 16:32
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◆仲島陽一の哲学の本◆

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス) 
フランソワ・プーラン ド・ラ・バール (著), Francois Poulain de la Barre (原著), 古茂田 宏 (翻訳), 佐々木 能章 (翻訳), 仲島 陽一 (翻訳), 今野 佳代子 (翻訳), 佐藤 和夫 (翻訳)

(単行本 - 1997/7)

 
共感の思想史
共感の思想史 仲島 陽一
 

(単行本 - 2006/12)

2010/03/31 17:04 2010/03/31 17:04
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 近頃は落語がはやっている。これは結構なことだ。小生も落語は好きだ。数学のほうは、残念ながら「好きだ」と即答は出来ない。大事だと思うし関心も持っているが、どちらかと言えば苦手なほうだ。
 落語で数学が学べるならうまい話だ、と思って手にしてみた。おもしろそうな話題を「つかみ」にして(落語式に言えば「枕にふって」)、読んでいくと途中で何がなんだかわからなくなってしまう理数系の本も多い。しかしこの本は最後まで、かつあまり苦労せずにほぼすらすらと読めた。

 使われている数学は義務教育水準で理解できるものである。高度な理論や最先端の研究を求めてはならない。またこれを読めば自ずから数学力がつくというほど虫のよい注文をしてはならない。しかしこれを読むことによって、数学的な考え方に少しは親しむ事や、数字の使え方として注意すべきこと(それは数学の本質につながるが)に、新しく気がつくことがあるだろう。無論、いろいろな落語を楽しめる。

 数学と落語と言うと、世間離れした登場人物という共通点を連想するかもしれない。事実奇天烈な天才数学者もいるが、著者はそういう意味での面白いエピソードには目もくれに。むしろ落語から(また学問から)、まっとうな生き方や考え方の大切さを熱心に汲もうとする。数学を使って株で「儲けなくても生きていけます。経済成長がなくなっても社会は幸せです。数字が教えてくれるでしょう」(118頁)と言う。勉強の最初は、習うほうの自由とか個性とかの入り込む隙はなく、昔の天才が開発した方法をひたすら覚える、その上で彼等の限界を知って、今ある問題を解決するために新しい事を開発する(213頁)、と言う。「教育で一番大事のことは、学校で何か学んでもそれだけでは何もできない、と言うことを教えることです」(214頁)と言う。

 いま学ぶ(教える)べきはIT長者になる技術でなく、平凡でも人に騙されず、堅気に働き、まわりにやさしくすることだ、とこの数学者は語る。


(幻冬舎新書、2007、230頁、740円+税)






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◆仲島陽一の哲学の本◆


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス) 
フランソワ・プーラン ド・ラ・バール (著), Francois Poulain de la Barre (原著), 古茂田 宏 (翻訳), 佐々木 能章 (翻訳), 仲島 陽一 (翻訳), 今野 佳代子 (翻訳), 佐藤 和夫 (翻訳)

(単行本 - 1997/7)

 
共感の思想史
共感の思想史 仲島 陽一
 

(単行本 - 2006/12)

 
2009/08/18 15:29 2009/08/18 15:29
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三、『これからの経済学』(1991)


 まず著者は、80年代の日本では、中曽根首相などによる反ケインズ政策がバブル経済化によって失敗した事を強調する。そして「八〇年代に墓場に葬られたはずのケインズ経済学は、南北格差の拡大、東欧激変という地殻変動の余勢を駆けて、いまふたたび、この世によみがえろうとしている」(19頁、31頁)と言うが、実際はそうならなかったことを私達は知っている。著者の予感ないし期待の根拠としては、バブル崩壊が80年代の「奢り高ぶる金融業」に神の鉄槌を下したようだと言い(33頁)、中曽根「民活」のNTTがリクルート疑惑で処分されたのに民意があったことをもちだす。しかしそれを「国民の倫理観」として評価する(48-49頁)のは、あささか甘かったのではないか。いまやリクルート疑惑のほうはそれなんだっけ、という感じなのに対し、「民営化」は錦の御旗で、財テク・マネーゲームを小学生から教えろという声さえ強い。「拝金主義、強者の論理、市場万能主義、等々によってかたどられた八〇年代の思想潮流」が「逆転」した(55頁)とは、これ以上ないほどの読み違えだったと言えよう。

 反ケインズ革命の原因論にも戻ろう。著者は、「八〇年代の時代文脈が、『公正』重視のニューディール・リベラリズムを忌避し、その反面、『効率』重視の新保守主義に加担したからにほかならない」(23頁)と予約する。さもあろう。しかし知りたいのは、この「価値観の転換」の原因である。70年代前半の「ラディカル経済学」期の「価値規範」は、「貧困の撲滅、福祉の充実、自然環境の保存、差別なき社会の実現、等々」(26項)であったというが、これはどうみても(つまり社会主義を正しく理解したり賛成したりしていない人でも)反対しようのない正論であるように思える。なぜこれが(「現実化」しなかったかはともかく、「価値規範」として)力を失って、あるいは敗北してしまったのか、不思議で仕方がない。

 この疑問に対して、著者は三つの理由を考えているように思われる。
 Ⅰ:「オイル・ショックの衝撃」 石油危機(1973年)の影響を反ケインズ革命の理由とするのは教科書などにもみられるから、ある程度通説化しているのかもしれない。著者によればこの危機を乗り越えたのが政府(つまり計画)でなく企業(つまり市場)だからという(66-68項)。またそれが「衣食の足らぬ」状況を「人びと」に畏怖させ、「世論」がふたたび「私利私欲を追求する」世界へと「逆もどり」したからだという(170-172項)しかしこれは私の実感に反する。60年代末からじわじわと広がってきた「モーレツからビューティフルへ」「そんなに急いでどこへ行く」という気分は、むしろ石油危機によって後押しされたと感じてきたからである。確かに利潤追求を宿命づけられている私企業は、これに対し「減量経営」「効率至上主義」(172項)で対処したであろう。

つづく





 


◆仲島陽一の哲学の本◆


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス) 
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(単行本 - 1997/7)

 
共感の思想史
共感の思想史 仲島 陽一
 

(単行本 - 2006/12)

2009/08/17 13:36 2009/08/17 13:36
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  1. nakajima 2008/07/03 15:14  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

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ニ、『経済学とは何だろうか』(1982)

 著者は、自然科学における「パラダイム論」について、はっきり断定はしていないがあきらかに好意的であり(8頁以下)、論述が進むとすっかりそれを前提している(こういう書き方は好ましくない)。すなわち科学の「客観性」や「普遍性」に否定的である。いわんや社会科学においてをや、というわけであり、しかも「社会科学は、社会的<文脈>の差異と変化に、もっと敏感に反応する」(11-12頁)とする。これに対して「現代と社会を超えて<有効>な経済理論が存在しうる」というのは「とんでない錯覚」であった(6頁)と断ずる。 
 欧米では、50年代から70年代前半にかけては「新古典派総合」(新古典派とケインズ派の折衷)の経済学が席巻した(13頁)。それは経済成長の追及という時代的<文脈>のためであった(14頁)。60年代末から70年代初期に、高度成長の陰りにともなって新古典派総合への批判が集中した(11-12頁)。しかし70年代後半には「超新古典派とでも呼ぶにふさわしい」「反ケインズの古典派的経済理論」が台頭した。これはこの時期の「保守化傾向」「政治的右傾化」に対応している(12-13頁)。
 日本では、「個人主義や自由主義という社会的<文脈>の伝統をもちあわさない」(41頁)ので、新古典派は重視されず、近代経済学の比重はケインズの側に偏っていた(37頁)。ある意味ではケインズの『一般論理』刊行(1936)以前から日本の財務当局はケインズ政策を実行していたとさえ言える(38頁)。これはそれが--米英と異なり(38頁)--日本の社会的<文脈>と敵合的であったということである。

 以上がいわば概論であり、「経済学は<科学>たりうるか」と題されたⅠ章にあたる。

 Ⅱ章は「制度化された経済学」と題して、50-60年代のアメリカにおいて近代経済学が「制度化」されたということの意味を具体的に説明している。それは経済学の大衆化・職業化・教化書化・モデル学化などを意味している。

 Ⅲ章は「日本に移植された経済学」と題して、経済成長期に近代経済学が日本で定着したことを説明している。

 Ⅳ章は「ラディカル経済学運動とは何であったか」を題して、60年代末から70年代はじめにおける新古典派経済学への批判を取り上げている。これを著者は「終始一貫、まったくの正論というほかはない」と判断する(151頁)。しかしそれがまさにこの時期に起こったのは「六〇年代末に起きた時代的文脈の一大変化」によるものとする(同)。それは経済成長の弊害である環境破壊がこの頃顕在化したことであり、この「反成長」が「反科学」「反技術」もつながったため、「科学である」「成長に役立つ技術につながる」新古典派経済学への批判になったという(152頁以下)。したがってこれは内在的批判ではなく、直接には科学者集団の、根底においては社会の「価値観」の変化という外在的根拠による(166頁)。しかしこの「レディカル経済学」が成功しなかったのは、新しいパラダイムを提供できなかったからだと言う。

 さてⅤ章は「保守化する経済学」と題されており、私の考察に最もかかわるところである。すなわち70年代末からの「凄まじい」(187頁)ケインズ批判についてである。それを行った「保守派経済学」は次のようなものからなる。

 A ハイエク:1940年代にはやくもケインズ経済学の<科学主義>を批判した。社会全体を扱うのはまやかしとし、個人の行為を決定する主観から出発するとした。さらに「管理」や「計画」を否定する(私はバークの保守主義を思い起こした)彼の思想は、長く最も不人気な経済学者の一人であった(195頁)。

 B マネタリスト:ミルトン=フリードマンを盟主とする。60年代からケインズ経済学を非難してやまない反介入主義者。英サッチャー政権により採用された。

 C 合理的期待形成学派:75年頃、ケインズ経済学を孟攻撃した。個人や企業が、経済システムについて知識を十全に生かして期待形成を行い、それを基づいて最適行動する、と仮定する。

 D サプライサイドエコノミックス:個人のインセンティヴを強調してもっぱら減税政策を主張する。この派のラッファー教授の「珍説(?)」(②58頁)を「真に受け」(②6頁)た、米レーガン政権により採用された。

 これらの「保守派経済学」の理論に対して著者は、それ自体としても、ケインズ理論批判においても実証されたものではないとする。「合理的期待形成」論は従来の理論に「合理的期待形成」という新奇な分析装置を加味したに過ぎず、「サプライ・サイド」論は個人のインセンティヴ重視という心理主義の衣を古典派理論にまとわせたに過ぎずほとんど常識の上塗りの域をでない」、と一刀両断する。
 またこれらの「保守派経済学者」によるケインズ政策への批判としては、「政府の中立性」を幻想とするものがある。すなわち市場に介入する政府とは、投票で選ばれた政治家のことであり、彼らは有権者や官僚組織からの圧力に弱く、「景気対策」の美名で、既得権の保持や圧力団体へのばらまきや癒着となって、際限のない赤字政府を慢性化させる、と。しかしこれに対しても著者は、彼らが「政府の中立性」を非現実的とあげつらう反面に、「市場の完全性」を当然の前提におくのは「自家撞着」であると批判する(201頁)。保守派経済学の政策は「反福祉」(212頁)である。
 しかしこうした反ケインズ派が台頭した要因として、著者はやはり70年代後半の「政治的保守化」による「価値観の変化」を挙げる(187-8頁)。また別のところでは、「社会主義への幻滅、政治的保守化、古典的自由主義の賛美など」と列挙して「<価値規範>の右旋回」と概括している。(198頁)。

 最後に著者は、これらの「保守派経済学」が「制度化」される「可能性は乏しい」と診断する(204-6頁)。今までの論述からすれば整合的な結論であろうが、実際には大はずれだったと言うべきであろう。
 ともあれ著者はではどうすべきだと言うのか。「制度化」された科学としての経済学とユートピア主義的な社会研究という両立できないものを欲する「欲深な心情」(213頁)を告白する。「とはいえ、私の予感するところ、<制度>としての経済学には、確実にかげりがさし始めている。〔…〕経済学は、少数の「物好き」な人々が、ユートピア主義的発想をもとに、百花斉放、談論風発のなかで展開してゆくべき筋合いのものなのかもしれない。〔…〕日本は言うに及ばず近年のアメリカ経済学界の動向にも、そうした方向へと旋回する兆候がはっきりと見てとれるのである。」(208頁)--これもはずれたと言わなければならないであろう。

2008/06/02 18:43 2008/06/02 18:43
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