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「後期高齢者」に賛成(床屋道話12

 

 

 

 「後期高齢者医療保険制度」に賛成ではない。みんなが反発したのは当然だと思う。さきの衆議院選で政権交替をもたらした一つの要因だった。そして(小生にはある程度「想定の範囲内」だったが)しかし民主党はそれを廃止しなかった。労働厚生大臣になった長妻昭氏は、ハローワークの職員に名札をつけさせるというようなしょぼい業績しかあげなかった。新制度案の大枠は発表されたが、「後期高齢者」を別枠にするという根幹は残り、しかもいままで以上に複雑になるようで(このまま成立するかまだおおいに疑問だが)仮に「有言実行」されても改良か改悪か怪しいものだ。しかしここでは医療保険の話はしない。

 

 反対理由として「後期高齢者」という言い方がいやだ、というものが少なからずあったことを問題としたい。これは小生には意外であった。当時から言われたが、この語はこのときつくられたものでなく、その前から学術的には使われていた。しかし一般国民には初耳だった。それがいやだというのはいかにも老いぼれのようだからという。「後期高齢者」を別枠にするのは保険としては不条理であり、またこの制度が彼等への思いやりに欠けていることは事実だ。しかしそれは用語の罪ではない。一般論として、高齢社会において高齢者を「前期」と「後期」に区分することは合理性もある。すなわちこの言い方がいやだというのは年寄り扱いされたくないという感情論である。事実、「高齢者」という語さえいやで、なんとかかんとか妙な言い換えを図る人々もいる。

 
ではそういう感情はよくないと小生は言いたいのか。然り、そこに疑問があるのである。この感情は若さは善だという思い込み、あるいはむしろイデオロギーと表裏一体である。そう、実にそれは「自然な感情」とは言い切れない。

 

 20年前、ローマのシスティナ美術館をはじめて訪れたときのことだ。長い廊下で、左右に古代彫刻の名作が並ぶ所があった。ちょうどツアー客を引き連れた案内人の言葉が耳にはいった。英語だったので自信はないが、次のような内容ととった。こちら側はギリシャの彫刻で、若者が多い。あちら側はローマのもので、老人のものも結構ある。若さを賛美したギリシャ文化と、経験や思慮を重んじたローマとの文化の差が表れている、と。

 

 このような価値観の差は確かに存在する。そして日本の伝統は、若者よりも老人を評価する文化に属するのではなかろうか。(もっともこの二択にとらわれなければ、日本文化はむしろ「こども」の評価において特徴的であろう。)近年の「若さ」志向はアメリカ文化に流されているのではないか。言うまでもなくアメリカは国自体が若い。単純な思い込みで力任せに突っ走るのがアメリカ流だ。これに流されて、我が国が熟成してきた、年の功を生かす知恵を忘れ、あまつさえ年寄りを敬う気風を捨ててしまうのは、愚かな誤りである。無論不自然に老成ぶる必要はないが、「アンチ・エージング」などはアメリカン・ビジネスの罠だと思うほうがいい。

 

 また「後期高齢者」などというといかにもまもなく死ぬ者と言われているようでいやだと言う声もあったようだ。だがそれは冷厳な事実だ。目をそむけることがいいとは思わない。上智大学で哲学を教えていたデーケン氏は、「デス・エデュケーション」の必要を説いた。そしてカトリックのほうに我田引水したのだが、実は日本思想にも「メメント・モリ」の伝統は豊かだ。武士道は言うまでもない。徒然草でも、老人といわずいかなる人もたえず死を思うように勧めている。

 

「冷厳な事実」にせよ、死や老いのことは「他人に言われたくない」とか「思いやりに欠ける」との不平もある。だが、「自分が老いたと思ったとき人は年寄りになる」という一見うがった科白は若さ礼賛の修辞で、自分を客観視できるのこそ我々が重んじた円熟であった。「おじいさん/おばあさん」と呼ばれたくないという者もいる。中には「自分はあなたのおじいさん/おばあさんではない」と言い返す者もいる。つまらぬ反発である。そんなことは相手もわかっており、これは「祖父/祖母」という意味でなく「老人に対する親しみをこめた敬称」として用いられたのであり、「おじさん/おばさん」が「親の兄弟姉妹(伯父・叔父/伯母・伯母)」だけでなく「おとなへの親しみをこめた呼びかけ(小父/小母)」として用いられるのと同様である。無論これは反発した者もわかっており、要は「年寄り扱いされたくない」というに過ぎぬ。年寄りであるかどうかは誰が決めるか。他人である。こどもに「おじさん/おばさん」と呼ばれて(「おにいさん/おねえさんと呼べ」と返したかどうかはともかく)参った思いは多くのおとなに経験があろう。そして小さなこどもにとってほど、自分がより年長に見えるという事実に気づいたであろう。こうした事実に対して、自分は○○歳だから/○○ができるから「若い」と言い返すのは、愚かなことであろう。相手に「おじさん/おばさん」「おじいさん/おばあさん」とみえたのならそれをしっかり受け入れるべきである。

 

 重病の人にとってまず大事なのは、まずその事実を受け入れる勇気を持つことであるという。たいしたことはないとか自分がいちばんわかっているとか言って専門家に諮らなかったり治療を怠ったりすると、自分で首を絞めることになってしまう。自分は高齢者であり、それゆえ年の功もあるが、いろいろ弱ったりできなくなったりしたことも多く、助けてもらわなければならないことも多い、ということを認める勇気が必要であろう。そしてそれを公言し、助けを求めることはけっして恥ではなく堂々と行ってよいのだ、ということを社会常識としたいものである。若さの一面的な礼賛は、老いることを恥と思わせ、老人に自分は厄介者だと思い込ませ、あるいはそうでない者(自分もいつかはそちら側になるのだが)に、「活力」や「効率」のために切り捨てるべき「無駄」と思い込ませることになろう。

 

 





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「起きていることはすべて正しい」か(床屋道話10) 
                                                       二言居士



 

上の「」内の言葉は勝間和代氏のものである。厳密に言えば、彼女が同僚から教わったものだそうだが、彼女が「座右の銘」とし、著書の題にもしている(ダイヤモンド社刊)ので、彼女の言葉として扱ってもよかろう。
 
 勝間氏と言えばまずは市場のカリスマの一人である。19歳で会計士補の資格を得、マッキンゼー、JPモルガン等米証券界で実績を挙げ『ウォール・ストリート・ジャーナル』でもとりあげられた。こうした勝ち組としてのキャリアをひっさげて経済評論家として近年人気の物書きとなった。「カツマー」と称される追随者(単なるファンでなく自らの指針にする者)もいると言う。二十年前の「アムラー」や「シノラー」以来の現象だぜ(?)。しかし他方、小泉・竹中らが推し進め「格差社会」をつくった新自由主義のいまさらのイデオローグとして批判も受けている。著者もはじめからそう感じており、これをみて「やっぱりな」と思った。すなわちこれは新自由主義の核心的な考え方であり、また私が最悪の思想として戦っている「勝てば官軍」だからだ。

 しかしこの考え方にも一見もっともと思わせるものはある。まただからこそ本人や追随者は納得してしまうのだし、だからこそ批判の必要がある(一見して間違ったものや愚かなものは批判に値しない)。勝間氏の実例では(朝日新聞、09年6月「勝間和代の人生を変えるコトバ」欄)、商品開発が失敗したとき、「市場が間違っている」と現実を直視せずに認識を歪めるのでなく、「市場の反応は正しい」と認め、自分の仮説の甘さや戦略の見込み違いを受け入れ、次に生かすことだという。

 以上の言い分で正しいのは、現実に起こることには(したがって失敗にも)必ず原因または客観的な根拠がある、という点である。また私が賛成するのは、望ましくない現実から目をそむけたりごまかしたりしてはならず、成功したければ原因を究明して対応を変えよ、という点である。

 誤っているのは、「根拠がある」ということを「正しい」と表現する点である。「正しい」というのは、厳密にはある判断(または命題)についてだけ言われることである。日常語ではある現実についてもそれは「正しい」と言い得るが、それは「根拠がある」という意味ではなくなんらかの「正当性がある」という意味である。はじめから「よろしかったでしょうか」と過去形で尋ねるのは文法的に「正しい」かとか、公訴時効の廃止を既に起こった犯罪にも訴求適用することは法的に「正しい」かとか言われるときがそうした例である。戊辰戦争での新政府軍の勝利には確かに原因や根拠があるが、それは薩長側に正当性があったかどうかとは別である。ことわざ「勝てば官軍」の意味の一つはまさにそのこと、つまり成功は正当性の保証ではない、ということだ。アウシュビッツもヒロシマも起こったことだから「正しい」のか。それが勝間氏の言いたいことではないであろうし、それらを「正しい」こととは彼女も認めないであろう。
(そう思いたい。)しかし彼女の言い方(論理)だと客観的にそうなってしまう。

 成功を正当性と誤解すれば、もはや勝ち負けから独立した「正・不正」「善悪」の判断は無用になる。現実をすべて「正しい」ものとして受け入れ、そのわくの中で自分の側を変えることで勝てるように考えるべきであり、わく自体を「不正」とか「悪」とかみなして変えようとすることは、「現実逃避」「負け犬の遠吠え」「弱者のルサンチマン(怨恨)」と罵倒されることになる。公正への要求は、成功者への妬みだ、足をひっぱるな、と逆に非難される。これはまことに勝者・支配者・強者に都合よい言い分(思想)で、弱い者を黙らせ追い詰め、屈服させようとするものである。

 その意味でこの「コトバ」を批判しようと思っていたところ、新聞連載の最後の回で彼女が出したのが、まさに「妬まない、怒らない、愚痴らない」だった(10年3月)。これは「他者のせいにするという考え方を禁じる」と自分で言うとおり、まさに「自己責任」イデオロギーであり、観念論(彼女は仏教と結び付けている)と市場主義による民衆支配の「コトバ」である。

 私達は正しくない現実におおいに怒らなければならない。そして確かに感情的に怒るだけでなく、不毛な妬みや愚痴に終わるのでなく、正しくない現実がなぜ起こっているのかを追究し、悪い奴をやっつけ、悪い制度を変えていく行動へと結び付けなければならない。



 

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