床屋道話 (その26 ありのままの倫理)
                                                                 二言居士

 
 いま真夏に小生はこれを書いているが、添付画像今年一番の当たりになることは間違いないだろう。母親に連れられて見て来た女の子が尋ねた。あの女王様はほんとはありんこだったの? 「ありのまま」という日本語になじみがない小さすぎるこどもだったので、「蟻のまま」と解したらしい。ほんの少し上の姉が答えた。そうじゃなくて蟻のお母さんよ。こちらは「蟻のママ」と解したようだ。ところで巷に鳴り響く「レリゴー」を聞くと「スーパースリー」の主題歌を思い出してしまうのは小生だけだろうか。冒頭の「ラリホー、ラリホー」がメロディも音韻もよく似ている。

 マクラはこれくらいにして本題に入ろう。原曲”Let it go”と日本版「ありのままで」には微妙な違いがある。文化が違う以上もとより「完全に正確な」翻訳は不可能で、特に制約の多い歌詞では当然ではある。しかし逆にそのずれを通じて文化の違いが垣間見え、この歌の場合も少し興味深く感じた。がそれくらい他にも考えている人はいるだろうとネット検索をしてみたら案の定で、小野真弘という人のものがすぐに出た。「イギリス在住の免疫学者・医師」とある(5月27日ツイート)。以下それも参考にして書いてみる。(劇中歌なのでほんとは文脈を考慮する必要があるがここでは捨象する。)題の”Let it go.”と「ありのままで」を含め、第一印象としては原詩のほうが日本語版よりも強い。が内容を検討すると趣旨はおおまかには同じであり、違いは「ニュアンス」の次元の話である。

 原詩でまず気にかかるのは、”Don’t let them in, don’t let them see./Be the good girl you always had to be.”は引用符がつく部分と思われるが、誰が言っているのかである。自分に言い聞かせていた言葉かもしれないが。いずれにせよ原詩では「他者」への強い意識があり、これがこの歌を「強く」感じさせている。この部分の”them”を受けて”Well, now they know !”となって姿勢を転じる。そして”I don’t care what they’er going to say.”という句がまさに”Let it go.”の中身と考えられる。もっと後になるとこの”they”は”you”となって面と向かった他者となり、”You’ll never see me cry.”と挑戦的な宣言となる。こうしてみると日本版が見事に「他者」を消す訳になっていることに気づく。たとえばいま挙げたところは「二度と涙は流さないわ」でtheyもyouもない。言語構造のためだけではない。というより言語的理由の背景に文化的な構造があると見るべきだろう。もう一箇所挙げれば、”The wind is howling like this swirling storm inside.”が単に「風が心にささやくの」である。嵐の風を「ささやく」ものとやさしくし、原詩では直喩のところ(下線部)が日本版ではせいぜい隠喩となる。原詩では他者に対する自己主張としてチャレンジングであるが、日本版では自分探しの結果の決意表明として不動の悟りに至ったかのようである。

 小野氏は次のように述べる。「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは、しばしば今の日本社会で〔…〕みられる幻想だろう。自分のそのままの成長していない〔…〕状態で評価されるとしたら、それほど楽なことはない。努力をして自分を成長させることで、より高い人格になろうという進歩的な考えはそこにはない」。「ありのままに」〔に〕は含まれていないものが、まさに今の日本の社会で欠けている要素の一つのように思えてならない。」――これはいかにも欧米在住のインテリの言あげと思われる。小生はこれに賛成するところとしないところがある。
 
 まず賛成できる点は、ありのまま評価が確かに日本社会に強いという事実認識である。ただし小野氏の言う「今の」日本というより伝統的である。衣食住から芸術まで自然の「素材の良さを生かす」ことをめざす。外なる自然だけでなく内なる自然、人間性(human nature)についても、「素朴」を愛し、正直・素直であれば神が宿るとか、煩悩に満ちたままで仏性を持っているとかする。伝統的「自然(じねん)」は「ありのまま」の意味である。詳しくは専門家に委ねたいが、日本精神史は「♪ありのー、ままでー!」の大合唱である。そしてそこには弱点がある。あまりにも諦めがよく、既成事実に弱く、「現実」のベタの全肯定になりがちである。

 次に賛成しない点。小野氏が「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは」云々と言うとき、この『パートナー』は仕事の相棒とかでなく恋人や配偶者のことととるのが自然だろう。この違いが重要だ。(他人と違う)そういう「パートナー」や親には、「ありのままで」受け入れられることを期待するのがふつうでよしとされる(それを求めないのは「水臭く」受け入れないのは「冷たい」ことでよくない)のが日本文化の伝統である。小野氏はこの違いに留意せず、また(明示していないが論理的には)このような日本的「甘え」を評価しないことになる。(聖母マリアのような超越的存在でなく)生身の誰かに甘えられるという救いがない欧米のような国に、小生は日本を変えたくない。

 最後に原詩と日本版のそれぞれについて、小生が素直にいいと思えないところを一つずつ挙げたい。(A原詩)「いつもよい娘(こ)であらねばならない」(Be the good girl you always had to be)という因習的な縛りを解き放って、自分の力を試してみよう、というのはよい。”The perfect girl is gone.”というところは最もよい。しかし、”No right, no wrong, no rules for me./I’m free !”というのはひどい。「自由」とは善悪やルールがないことじゃないだろう。ディズニー板「ニーチェの言葉」か?! 原詩を二読三読すると、最後の”Let the storm rage on !!”のstormとは、つまり世間の非難や悪評のことと思われる。それをものともしないというのは最悪と思う。ちなみに小野氏がエルサは「let it goという思い切りにより、むしろ悪魔的になった」と評しているのはこの点でうなずける。(なお彼は、だからlet it goはこの物語の=人生における最後=完成でなくそのプロセスにおいてむしろ乗り越えられるべき局面ととらえる。)(B日本版)自分にうっとりネエちぁんというのは昔からいて少しヒクが、抑圧を破って自己肯定感を得られた女性、としては祝福してもよい。素直になれなくなるのは、この肯定が強すぎて、わたしたち一人ひとりのというより、世相のそれと重なって感じられてしまうからである。自虐はもうやめよう、日本のすばらしさを誇ろう、という政治くさい、そしてはなはだ危なっかしい近頃の大宣伝(本でも雑誌でも怒涛のような「自虐」批判・日本賛美の嵐だ)にも、この2014年で日本の「戦後」がはっきり終わり新たな戦前になったことが知られる。「ありのままで」がその最初の軍歌かもしれないというのは言い過ぎではあるが。

 松たか子に、あるいはMay J.になりきって歌いながらも、考えてみたい。







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2014/08/26 19:03 2014/08/26 19:03
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床屋道話 (その22 「コンパクト・シティ」に反対)

人間はアリのように積み重なって生活するようにはできていない。
一箇所に集まれば集まるほど、いよいよ人間は堕落する。――ルソー

  

 小生は 毎年『経済財政白書』を読むことにしている。言うまでもなく、毎年の経済状況について政府が整理し分析したものだ。おおむね地味で退屈な本だが、ときに政治家や経済官僚の考えがみえて関心をひかれるときもある。


  昨年(2012=平成24年)のものではコンパクト・シティの提起が気になった。まだ耳慣れないと思うが、そのうちじわじわ、あるいはどっと出される可能性も少なくないと思われる。「限界集落」と呼ばれる、高齢者ばかりになった地域の出現が背景にある。従来の「過疎地」だけでなく、ニュータウンなど、首都圏・通勤圏のあちこちにも生まれつつある。近くの店などがなくなり、また駅まで15分20分だとしても坂が多かったりして車のない年寄りには難儀だ。また行政のほうからの対応にもコストがかかるというのである。そこで『白書』を書くようなお偉え方としては、むしろそうした「集落」はもう見捨て、住民たちは中心街の高層ビルに移してしまうのが人口減のこれからの日本に効率的だ、とお考えのようだ。

  一般国民、特に弱い立場の者をモノ扱いして都合よく集積しようという高慢なそろばん勘定がまずむかつかせるが、冷静に考えてもよいとは思われない。転勤を繰り返すエリートビジネスマンや高級官僚は地域との絆など屁とも思わないのだろうが、まっとうな生活者は住みなれた地域に愛着を持っている。特に高齢になってからの転居が精神的に大きな負担であることは心理学的事実だ。経済官僚の功利主義は本性上不人情だが、コンパクト・シティ論は損得勘定としても「爪で拾って箕でこぼす」ものではあるまいか。

  いまの日本の道はよすぎるほどである。もうけ主義のバス会社が撤退しても、小型のコミュニティ・バスを駅・病院・大型店舗などを回って走らせてうまくいっている自治体もある。(高速道路の高架・トンネル・橋などの補修はこれからの検討課題だが、生活道路の補修にはそれほどの額はいらない。)食料品店などは、昔の「御用聞き」のように、店のほうから車で商品を届けにくればよい。そのときあしたの注文を受けてもいいし、電話・ファックス・インターネットなど、連絡手段のほうも昔よりはるかに発達している。生協では現に行っており、準営利でも目先の利くところでは、一人暮らしや忙しい人向けに、調理した食事を宅配する商売を始めている。「限界集落」では、確かに出前するそば屋・中華屋・すし屋・ピザ屋をそれぞれ一つずつは持てまいが、ある程度多様に宅配できる店を一つ維持することは工夫できるのではあるまいか。また、隣は何をする人ぞのコンクリート・ジャングルで犯罪が多いことは社会学的事実だ。人々が知り合っている町や村よりも、ビル街での防犯対策は費用がかさむ。

  むしろ密集した人々をばらけさせる施策をとるべきである。いまの高齢者は農家出身も多いので、退職後近くに畑を借りて楽しみつつ実益も上げている者も多い。こうした人々の経験も生かして、より若い人々も呼び戻して、都市近郊の農牧業を進め、また里山を守りたい。米でも木材でも確かに輸入のほうが安いかもしれない。しかし田が荒れていないこと、森や林があることで、国土保全にどれだけの利得が生まれているかを、計算から落としていないだろうか。自給率や食の安全の面もあるが、治水や防災の面でも、一次産業の見えない効果は莫大なのである。そして国の最大の富は人なのだが、高層マンションで画像のゲームで遊んだ子と、自然や生き物と触れて育った子とでは、どんな違いが生まれるだろうか。海沿いの再開発で作った高層建築群で風を止め、都心のヒート・アイランド化を加速化して冷房付けにする、そのため電力が欲しくて原発に依存させる、なんとも愚かなエリートたちよ。いや目先の利にはあまりにもさとい、実業家たち・政治家たちよ。

  毎年「反経済白書」を構想するのが、愛国者の務めかもしれない。


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2013/06/10 10:33 2013/06/10 10:33
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 床屋道話 (その16 年賀状の倫理)


 吾輩は年賀状である。年に一度の吾輩の季節だ。がどうも近頃あまり振るわない。同時期のクリスマスは、バブル期のバカ騒ぎこそ見られなくなったが、各種イベントはさかんな限りだが。キリスト教徒でもないのにべらぼうなことだと思うがねたみと言われそうだ。それでもこの前近所のガキが教会の飾り付けを見て「教会でもクリスマスやるんだねえ」と言ったときにはがくっときた。前の月にはハロウィンとかいうさらにわけのわからねえ行事まで付き合う暇な御仁も増えてきたようだ。どてかぼちゃめらが。七夕などは衰えていないところをみると、単に西洋物におされた結果とも決められない。

従来から吾輩に向けられた批判は「虚礼」だというものだ。実用主義が強まる昨今の風潮は確かに吾輩に厳しい。そこで自己弁明をしたいのだが、「礼」が大切だという説教を天下り的に垂れるつもりはない。ここで言いたいのはむしろ「無用の用」の観点だ。

賀状は確かに用があって出すものではない。本当に世話になった相手に心から感謝を表す場合もあろうが、それなら年始に他といっしょくたでなくてそのときに別個に表すのが本当だ、というのは屁理屈気味ではあるが筋論でもある。ということは逆に賀状を出す意味は消極的に、自分が相手に少なくとも敵意や嫌悪は持っておらず、さしあたり今年一年もかかわりをこちらから断つ気持ちまではない、というしるしだと言えるのではないだろうか。消極的というより因循姑息だと嫌う人もいるかもしれない。しかしそうではない。むしろ大事なことだと吾輩は訴えたい。より早くより厚く返礼しなければならぬものではないだけに、半ばは礼儀の意識からと言える。また半ばはこの「顔つなぎ」がひょっとしたら役立つこともあるかもしれないという下心もある。徳義と実益とのあいまいな混じり物でいいのではないか。だから熱い「正心誠意」でない正月気分の文面でよく、かといって必要ないから出さないという冷たい実用主義でもない、適度なぬるさでよいのだ。

ことしは震災などもあって「絆」が見直されているという。その中で、家族や親友のような強い絆のかけがえなさは言うまでもない。他方でケータイにいちおう登録してあり、必要なら使うがそうでなければいつでも「削除」できるようなのは「絆」というより「情報」であろうが、ないよりは多く持つほうがいいとは言えるだろう。「賀状を出すだけの中」はいわばその中間の「ゆるい絆」であろうが、逆に今日その大切さは強調してよいのではないか。

印刷だけの賀状でもいいと吾輩は考える。そんなのだったら出さないほうが潔いという人もいるが、出すこと自体に意味がある「虚礼」として、変にまじめに理屈づけなくてもいいと思う。ヤな奴と思われるかもしれないが、正直にうちあけよう。賀状をくれる人、返書は出す者、それさえない奴を、吾輩は毎年記録しており、その人に対する判断にかなり大きく影響する、と。

正直ついでに嬉しくない賀状も記そう。まず当人しか知り合いでないのに、家族の写真をつけてくるもの。イケメンの夫やかわいい赤ん坊を見せたくなる気持ちはわからぬでもないが、世の中には結婚できないことやこどもに恵まれないことを苦にしている人もいることを、やはり気にしてほしい。ここでもひがみと言われるかもしれないが、幸せ自慢のどや顔がちらつくような葉書は、それ自体新年から苦い思いをさせられる。家族の現状を言葉で知らせてくれるのはむしろ望ましいが、「家族」の一員として犬や猫まで記載するのはやめてほしい。これも当人にはかけがえのない同居者ではあるのだろうが、他人にまでその公認を求めると、それも「家族」なのかよ、と毒づきたくなってしまう。最後に電子メールによる賀状。この理由はいろいろあるが、いままで言ってきたこととの関連で一つだけ記そう。たぶんメールを使うことの長所は、手数的にも料金的にもより省けることにある。それはまさにあまりに合理主義的で、「虚礼」としての賀状の意味をなさないと感じさせる。事務連絡かよ、と思ってしまうのだ。つまり毎年判で捺したような「謹賀新年」だけでもよい、わざわざそれを郵便物という形で手間をかけて出すというところに意味があると考えるからである。

ぬるくてゆるい賀状(勿論おもろいのや嬉しい便りも)、待ってます。




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2011/12/10 11:58 2011/12/10 11:58
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  1. moris 2012/01/07 21:33  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    遅くなりましたが、ルソー本、ありがとうございました。イデーも届きました。
    ルソーの本は会社の金総宰(社会部長)さんが是非読ませてほしいと言うので貸してますが、ブログでの本の紹介は近日中に行う予定です。←画像は撮っておきましたので・・・




添付画像



「後期高齢者」に賛成(床屋道話12

 

 

 

 「後期高齢者医療保険制度」に賛成ではない。みんなが反発したのは当然だと思う。さきの衆議院選で政権交替をもたらした一つの要因だった。そして(小生にはある程度「想定の範囲内」だったが)しかし民主党はそれを廃止しなかった。労働厚生大臣になった長妻昭氏は、ハローワークの職員に名札をつけさせるというようなしょぼい業績しかあげなかった。新制度案の大枠は発表されたが、「後期高齢者」を別枠にするという根幹は残り、しかもいままで以上に複雑になるようで(このまま成立するかまだおおいに疑問だが)仮に「有言実行」されても改良か改悪か怪しいものだ。しかしここでは医療保険の話はしない。

 

 反対理由として「後期高齢者」という言い方がいやだ、というものが少なからずあったことを問題としたい。これは小生には意外であった。当時から言われたが、この語はこのときつくられたものでなく、その前から学術的には使われていた。しかし一般国民には初耳だった。それがいやだというのはいかにも老いぼれのようだからという。「後期高齢者」を別枠にするのは保険としては不条理であり、またこの制度が彼等への思いやりに欠けていることは事実だ。しかしそれは用語の罪ではない。一般論として、高齢社会において高齢者を「前期」と「後期」に区分することは合理性もある。すなわちこの言い方がいやだというのは年寄り扱いされたくないという感情論である。事実、「高齢者」という語さえいやで、なんとかかんとか妙な言い換えを図る人々もいる。

 
ではそういう感情はよくないと小生は言いたいのか。然り、そこに疑問があるのである。この感情は若さは善だという思い込み、あるいはむしろイデオロギーと表裏一体である。そう、実にそれは「自然な感情」とは言い切れない。

 

 20年前、ローマのシスティナ美術館をはじめて訪れたときのことだ。長い廊下で、左右に古代彫刻の名作が並ぶ所があった。ちょうどツアー客を引き連れた案内人の言葉が耳にはいった。英語だったので自信はないが、次のような内容ととった。こちら側はギリシャの彫刻で、若者が多い。あちら側はローマのもので、老人のものも結構ある。若さを賛美したギリシャ文化と、経験や思慮を重んじたローマとの文化の差が表れている、と。

 

 このような価値観の差は確かに存在する。そして日本の伝統は、若者よりも老人を評価する文化に属するのではなかろうか。(もっともこの二択にとらわれなければ、日本文化はむしろ「こども」の評価において特徴的であろう。)近年の「若さ」志向はアメリカ文化に流されているのではないか。言うまでもなくアメリカは国自体が若い。単純な思い込みで力任せに突っ走るのがアメリカ流だ。これに流されて、我が国が熟成してきた、年の功を生かす知恵を忘れ、あまつさえ年寄りを敬う気風を捨ててしまうのは、愚かな誤りである。無論不自然に老成ぶる必要はないが、「アンチ・エージング」などはアメリカン・ビジネスの罠だと思うほうがいい。

 

 また「後期高齢者」などというといかにもまもなく死ぬ者と言われているようでいやだと言う声もあったようだ。だがそれは冷厳な事実だ。目をそむけることがいいとは思わない。上智大学で哲学を教えていたデーケン氏は、「デス・エデュケーション」の必要を説いた。そしてカトリックのほうに我田引水したのだが、実は日本思想にも「メメント・モリ」の伝統は豊かだ。武士道は言うまでもない。徒然草でも、老人といわずいかなる人もたえず死を思うように勧めている。

 

「冷厳な事実」にせよ、死や老いのことは「他人に言われたくない」とか「思いやりに欠ける」との不平もある。だが、「自分が老いたと思ったとき人は年寄りになる」という一見うがった科白は若さ礼賛の修辞で、自分を客観視できるのこそ我々が重んじた円熟であった。「おじいさん/おばあさん」と呼ばれたくないという者もいる。中には「自分はあなたのおじいさん/おばあさんではない」と言い返す者もいる。つまらぬ反発である。そんなことは相手もわかっており、これは「祖父/祖母」という意味でなく「老人に対する親しみをこめた敬称」として用いられたのであり、「おじさん/おばさん」が「親の兄弟姉妹(伯父・叔父/伯母・伯母)」だけでなく「おとなへの親しみをこめた呼びかけ(小父/小母)」として用いられるのと同様である。無論これは反発した者もわかっており、要は「年寄り扱いされたくない」というに過ぎぬ。年寄りであるかどうかは誰が決めるか。他人である。こどもに「おじさん/おばさん」と呼ばれて(「おにいさん/おねえさんと呼べ」と返したかどうかはともかく)参った思いは多くのおとなに経験があろう。そして小さなこどもにとってほど、自分がより年長に見えるという事実に気づいたであろう。こうした事実に対して、自分は○○歳だから/○○ができるから「若い」と言い返すのは、愚かなことであろう。相手に「おじさん/おばさん」「おじいさん/おばあさん」とみえたのならそれをしっかり受け入れるべきである。

 

 重病の人にとってまず大事なのは、まずその事実を受け入れる勇気を持つことであるという。たいしたことはないとか自分がいちばんわかっているとか言って専門家に諮らなかったり治療を怠ったりすると、自分で首を絞めることになってしまう。自分は高齢者であり、それゆえ年の功もあるが、いろいろ弱ったりできなくなったりしたことも多く、助けてもらわなければならないことも多い、ということを認める勇気が必要であろう。そしてそれを公言し、助けを求めることはけっして恥ではなく堂々と行ってよいのだ、ということを社会常識としたいものである。若さの一面的な礼賛は、老いることを恥と思わせ、老人に自分は厄介者だと思い込ませ、あるいはそうでない者(自分もいつかはそちら側になるのだが)に、「活力」や「効率」のために切り捨てるべき「無駄」と思い込ませることになろう。

 

 





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「起きていることはすべて正しい」か(床屋道話10) 
                                                       二言居士



 

上の「」内の言葉は勝間和代氏のものである。厳密に言えば、彼女が同僚から教わったものだそうだが、彼女が「座右の銘」とし、著書の題にもしている(ダイヤモンド社刊)ので、彼女の言葉として扱ってもよかろう。
 
 勝間氏と言えばまずは市場のカリスマの一人である。19歳で会計士補の資格を得、マッキンゼー、JPモルガン等米証券界で実績を挙げ『ウォール・ストリート・ジャーナル』でもとりあげられた。こうした勝ち組としてのキャリアをひっさげて経済評論家として近年人気の物書きとなった。「カツマー」と称される追随者(単なるファンでなく自らの指針にする者)もいると言う。二十年前の「アムラー」や「シノラー」以来の現象だぜ(?)。しかし他方、小泉・竹中らが推し進め「格差社会」をつくった新自由主義のいまさらのイデオローグとして批判も受けている。著者もはじめからそう感じており、これをみて「やっぱりな」と思った。すなわちこれは新自由主義の核心的な考え方であり、また私が最悪の思想として戦っている「勝てば官軍」だからだ。

 しかしこの考え方にも一見もっともと思わせるものはある。まただからこそ本人や追随者は納得してしまうのだし、だからこそ批判の必要がある(一見して間違ったものや愚かなものは批判に値しない)。勝間氏の実例では(朝日新聞、09年6月「勝間和代の人生を変えるコトバ」欄)、商品開発が失敗したとき、「市場が間違っている」と現実を直視せずに認識を歪めるのでなく、「市場の反応は正しい」と認め、自分の仮説の甘さや戦略の見込み違いを受け入れ、次に生かすことだという。

 以上の言い分で正しいのは、現実に起こることには(したがって失敗にも)必ず原因または客観的な根拠がある、という点である。また私が賛成するのは、望ましくない現実から目をそむけたりごまかしたりしてはならず、成功したければ原因を究明して対応を変えよ、という点である。

 誤っているのは、「根拠がある」ということを「正しい」と表現する点である。「正しい」というのは、厳密にはある判断(または命題)についてだけ言われることである。日常語ではある現実についてもそれは「正しい」と言い得るが、それは「根拠がある」という意味ではなくなんらかの「正当性がある」という意味である。はじめから「よろしかったでしょうか」と過去形で尋ねるのは文法的に「正しい」かとか、公訴時効の廃止を既に起こった犯罪にも訴求適用することは法的に「正しい」かとか言われるときがそうした例である。戊辰戦争での新政府軍の勝利には確かに原因や根拠があるが、それは薩長側に正当性があったかどうかとは別である。ことわざ「勝てば官軍」の意味の一つはまさにそのこと、つまり成功は正当性の保証ではない、ということだ。アウシュビッツもヒロシマも起こったことだから「正しい」のか。それが勝間氏の言いたいことではないであろうし、それらを「正しい」こととは彼女も認めないであろう。
(そう思いたい。)しかし彼女の言い方(論理)だと客観的にそうなってしまう。

 成功を正当性と誤解すれば、もはや勝ち負けから独立した「正・不正」「善悪」の判断は無用になる。現実をすべて「正しい」ものとして受け入れ、そのわくの中で自分の側を変えることで勝てるように考えるべきであり、わく自体を「不正」とか「悪」とかみなして変えようとすることは、「現実逃避」「負け犬の遠吠え」「弱者のルサンチマン(怨恨)」と罵倒されることになる。公正への要求は、成功者への妬みだ、足をひっぱるな、と逆に非難される。これはまことに勝者・支配者・強者に都合よい言い分(思想)で、弱い者を黙らせ追い詰め、屈服させようとするものである。

 その意味でこの「コトバ」を批判しようと思っていたところ、新聞連載の最後の回で彼女が出したのが、まさに「妬まない、怒らない、愚痴らない」だった(10年3月)。これは「他者のせいにするという考え方を禁じる」と自分で言うとおり、まさに「自己責任」イデオロギーであり、観念論(彼女は仏教と結び付けている)と市場主義による民衆支配の「コトバ」である。

 私達は正しくない現実におおいに怒らなければならない。そして確かに感情的に怒るだけでなく、不毛な妬みや愚痴に終わるのでなく、正しくない現実がなぜ起こっているのかを追究し、悪い奴をやっつけ、悪い制度を変えていく行動へと結び付けなければならない。



 

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2010/06/04 17:05 2010/06/04 17:05
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時効について
(床屋道話8)

二言居士

 

 刑事事件の時効を廃止すべきだという意見が強くなってきた。法務省も検討を始めたようだ。ここで小生はそれに反対だ、とすぐ断定する気持ちではないが、その意見の理由として言われることの中には違和感を覚えるものがあり、すぐに賛成はしかねる。実は数年前に既に変更があり、現在は最も長い場合は二十五年である。これは逮捕されれば死刑になるような犯罪と考えてほぼよいであろう。それでも時効を廃止すべきだというならば、二十五年では短い、という意味になる。

そもそも時効の意味がわからない、という廃止論者もいる。法律そのものには時効の意義を記していない。それゆえその意義について語られることはすべて「説」であるから、ここではあまりとらわれずに考えてもよかろう。その「説」をいくつか挙げよう。①時効がないと警察は永遠に捜査義務を負ってしまう。②二十五年捜査して駄目だったのがその後逮捕できる可能性はきわめて少なく、無限でない労力や費用はそのためによりも起こったばかりのは犯罪に向けるべきである。③あまりに時間がたつと立証または反証が難しくなる。これらは無視してよいわけではないが、どちらかというと技術的であり、最も本質的な論点とは言えまい。④次に一見揚げ足取りのようだが、意外と本質的かもしれない問いを、廃止論者に発してみたい。ではあなたは一切の時効に反対なのか、つまり微罪について短い時効があることにも反対なのか、と。そうだ、というなら極論であり少数意見であろう。ずいぶんけちくさくめんどくさいヤツだ、と世間から叩かれそうである。実際いま問題になってるのはそういうことではなく、殺人のような大罪を犯した者が時効で裁かれないままでいいのか、ということである。だとしたら時効にしてもよい罪とそうでない罪との境をどう、何を根拠にひくのか、ということが難しかろう。しかしこの問題もつっこまないでおこう。

小生が違和感を抱くというのは、犯罪者がいつまでも裁かれずにのうのうと生きていることが許せない、という(時効廃止論の理由として述べられる)言い分である。この言い分のうち、「生きていることが」許せないというところに力点があるものはここではとりあげる必要がない。つまりそれはそうした犯罪者は死刑にすべきだということになり、死刑そのものの是非に論点がずれてしまう。問題にしたいのは、(被害者側はいつまでも苦しんでいるのに)加害者が「のうのうとして」生きていることが許せない、というところに力点がある発言である。ここで小生が疑問なのは、そういう発言をする者は犯人の状況をどうしてそう断定するのか、ということである。むしろ相当つらいんじゃないの、ということだ。実は今回小生がもう一つ意外に思ったのは、時効の理由として、このように逃げ隠れして生きることが既に罰を受けているようなものだから、というのが有力な説として挙げられないことだった。逃げ隠れする加害者には、指名手配されている場合と、自分が犯人と悟られていない場合とがある。前者の場合、名を偽り知り合いのない土地に移り、住民票や免許証、カード類の使用はほとんどあきらめなければならないのでかなり苦しいことはすぐわかるはずだ。後者はその点ではより楽そうだが、前者の苦労は技術面にまぎらせられる面もあるのに対し、いつかわかるのではないか、あるいはむしろ自ら今からでもうちあけるべきではないかと、より倫理的な葛藤の辛さがあるかもしれない。まあ確かに、こうした辛さをまったく味わわず「けろっと」すごしている加害者も中にはいよう。しかしそうしたごく少数の存在を論拠にすることは妥当であるまいし、いずれにせよそうした異常な犯罪者(脳の器質的障害にでもよるのか)は、仮に刑罰を受けてもやはり慙愧の念や良心の呵責などは持たず、ついてないぜ、くらいしか思わないなら、はじめから別問題とすべきであろう。というより小生は、たとえこういう考えが浮かんでも発言できないだろう。「じゃあお前が犯人なら捕まるまではのうのうとしてられるのか?」という反問をすぐ思ってしますからである。つまり、こうした発言の背景には、「罪を犯した人間」の心理についての感受性のなさ、あるいはそれへの想像力のなさという問題があるのではと疑いたくなる。今回最も問題にしたいのはこの点である。

ところで近年「加害者」に対する厳罰要求が強まっており、時効廃止論もこの一環かもしれない。悪い奴を甘やかせている、という「空気」をつくりあげ、更生よりも処罰を強める少年法改定をしたり、「人権派」弁護士等が冷静に法的手続きの保証を求めることまでたたいたり、憑かれたような恐さも感じさせる。今回は深入りしないが、この変化の理由と意味についても注意を促したい。

だがお前は執念深さをむしろ肯定しており、PTA会長を告発し続けたニャロメをほめ(第四回)、元AV女優をテレビで持ち上げることに反対した(第六回)ではないか、と言われるかもしれない。時効に限って、もういい加減許してやれよ、というなら一貫していないではないか、と。違いは、時効は「社会的制度」だ、ということにある。被害者側が、時効になったからといって犯人をゆるさないぞ、と思っても小生は第三者として反対はしない。ゆるすことが大切です、と説教することはないだろう。ただ時効になったら警察が捜査することはもうゆるしてやろうよ、ということである。(それは国民がその費用を税として負担することを含め、捜査に協力する義務からもゆるしてやろうよ、ということである。この意味では、被害者側が犯人をつきとめたり犯人が自首したりした場合に裁判には時効がないというのはあり得る制度かもしれない。)今回の第三の主張は、この意味で時効は当人の感情や意志の問題でなく社会制度の問題だということである。これはたとえば喪の問題と同じではないか。服喪期間が終わったからと言って、悲しみの気持ちを無理やり終わらせなければならないわけではなく、そういう人の感情自体は第三者が非難はできない。問題は社会的なけじめなのであり、その人の前では未来永劫にしゅんとしていなければならず、その人には社会的義務を免じ、またたとえばその人の家族はいつまでも結婚できないとか、そういうことはもうゆるしましょうよ、という制度なのである。

 




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2010/02/01 18:26 2010/02/01 18:26
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  1. デグニティ 2010/06/06 13:01  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    ある事件が、本当の意味で「終わり」を告げる日は、犯人が逮捕された日でも、刑が執行された日でも、加害者が謝罪した日でもない。

    被害者が、加害者を「許した」日である。





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2009/03/01 13:06 2009/03/01 13:06
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