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  1. 2010/12/13 「後期高齢者」に賛成(床屋道話12)


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「後期高齢者」に賛成(床屋道話12

 

 

 

 「後期高齢者医療保険制度」に賛成ではない。みんなが反発したのは当然だと思う。さきの衆議院選で政権交替をもたらした一つの要因だった。そして(小生にはある程度「想定の範囲内」だったが)しかし民主党はそれを廃止しなかった。労働厚生大臣になった長妻昭氏は、ハローワークの職員に名札をつけさせるというようなしょぼい業績しかあげなかった。新制度案の大枠は発表されたが、「後期高齢者」を別枠にするという根幹は残り、しかもいままで以上に複雑になるようで(このまま成立するかまだおおいに疑問だが)仮に「有言実行」されても改良か改悪か怪しいものだ。しかしここでは医療保険の話はしない。

 

 反対理由として「後期高齢者」という言い方がいやだ、というものが少なからずあったことを問題としたい。これは小生には意外であった。当時から言われたが、この語はこのときつくられたものでなく、その前から学術的には使われていた。しかし一般国民には初耳だった。それがいやだというのはいかにも老いぼれのようだからという。「後期高齢者」を別枠にするのは保険としては不条理であり、またこの制度が彼等への思いやりに欠けていることは事実だ。しかしそれは用語の罪ではない。一般論として、高齢社会において高齢者を「前期」と「後期」に区分することは合理性もある。すなわちこの言い方がいやだというのは年寄り扱いされたくないという感情論である。事実、「高齢者」という語さえいやで、なんとかかんとか妙な言い換えを図る人々もいる。

 
ではそういう感情はよくないと小生は言いたいのか。然り、そこに疑問があるのである。この感情は若さは善だという思い込み、あるいはむしろイデオロギーと表裏一体である。そう、実にそれは「自然な感情」とは言い切れない。

 

 20年前、ローマのシスティナ美術館をはじめて訪れたときのことだ。長い廊下で、左右に古代彫刻の名作が並ぶ所があった。ちょうどツアー客を引き連れた案内人の言葉が耳にはいった。英語だったので自信はないが、次のような内容ととった。こちら側はギリシャの彫刻で、若者が多い。あちら側はローマのもので、老人のものも結構ある。若さを賛美したギリシャ文化と、経験や思慮を重んじたローマとの文化の差が表れている、と。

 

 このような価値観の差は確かに存在する。そして日本の伝統は、若者よりも老人を評価する文化に属するのではなかろうか。(もっともこの二択にとらわれなければ、日本文化はむしろ「こども」の評価において特徴的であろう。)近年の「若さ」志向はアメリカ文化に流されているのではないか。言うまでもなくアメリカは国自体が若い。単純な思い込みで力任せに突っ走るのがアメリカ流だ。これに流されて、我が国が熟成してきた、年の功を生かす知恵を忘れ、あまつさえ年寄りを敬う気風を捨ててしまうのは、愚かな誤りである。無論不自然に老成ぶる必要はないが、「アンチ・エージング」などはアメリカン・ビジネスの罠だと思うほうがいい。

 

 また「後期高齢者」などというといかにもまもなく死ぬ者と言われているようでいやだと言う声もあったようだ。だがそれは冷厳な事実だ。目をそむけることがいいとは思わない。上智大学で哲学を教えていたデーケン氏は、「デス・エデュケーション」の必要を説いた。そしてカトリックのほうに我田引水したのだが、実は日本思想にも「メメント・モリ」の伝統は豊かだ。武士道は言うまでもない。徒然草でも、老人といわずいかなる人もたえず死を思うように勧めている。

 

「冷厳な事実」にせよ、死や老いのことは「他人に言われたくない」とか「思いやりに欠ける」との不平もある。だが、「自分が老いたと思ったとき人は年寄りになる」という一見うがった科白は若さ礼賛の修辞で、自分を客観視できるのこそ我々が重んじた円熟であった。「おじいさん/おばあさん」と呼ばれたくないという者もいる。中には「自分はあなたのおじいさん/おばあさんではない」と言い返す者もいる。つまらぬ反発である。そんなことは相手もわかっており、これは「祖父/祖母」という意味でなく「老人に対する親しみをこめた敬称」として用いられたのであり、「おじさん/おばさん」が「親の兄弟姉妹(伯父・叔父/伯母・伯母)」だけでなく「おとなへの親しみをこめた呼びかけ(小父/小母)」として用いられるのと同様である。無論これは反発した者もわかっており、要は「年寄り扱いされたくない」というに過ぎぬ。年寄りであるかどうかは誰が決めるか。他人である。こどもに「おじさん/おばさん」と呼ばれて(「おにいさん/おねえさんと呼べ」と返したかどうかはともかく)参った思いは多くのおとなに経験があろう。そして小さなこどもにとってほど、自分がより年長に見えるという事実に気づいたであろう。こうした事実に対して、自分は○○歳だから/○○ができるから「若い」と言い返すのは、愚かなことであろう。相手に「おじさん/おばさん」「おじいさん/おばあさん」とみえたのならそれをしっかり受け入れるべきである。

 

 重病の人にとってまず大事なのは、まずその事実を受け入れる勇気を持つことであるという。たいしたことはないとか自分がいちばんわかっているとか言って専門家に諮らなかったり治療を怠ったりすると、自分で首を絞めることになってしまう。自分は高齢者であり、それゆえ年の功もあるが、いろいろ弱ったりできなくなったりしたことも多く、助けてもらわなければならないことも多い、ということを認める勇気が必要であろう。そしてそれを公言し、助けを求めることはけっして恥ではなく堂々と行ってよいのだ、ということを社会常識としたいものである。若さの一面的な礼賛は、老いることを恥と思わせ、老人に自分は厄介者だと思い込ませ、あるいはそうでない者(自分もいつかはそちら側になるのだが)に、「活力」や「効率」のために切り捨てるべき「無駄」と思い込ませることになろう。

 

 





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