床屋道話40 「世間」とは誰か

二言居士

 

 太宰治の『人間失格』で、だめな主人公が知り合いから忠告され、「これ以上は、世間が、許さないから」と言われ、「世間というのは、君じゃないか」と考えるところがある(新潮文庫版82)。小生が不思議なのは、主人公がこれで相手を論破したように考えている点である。この「思想めいたものを持つように」なって彼が今までより「いくぶん図々しく」(86-87頁)なったということは了解できる。しかしそれは「世間とは個人じゃないか」という思想が正しいとか良いとかいうことを意味するものではない。

「世間というものの実体」はないという思想は、サッチャー元首相は賛成するであろうが、正しくない。世間が実在するのは、個人が実在するように目で見たり手で触ったりしてわかるものでなく、また厳密に「証明」できるようなものではない。しかしあらゆる常識がそうであるように、「ふつう」の人はそれをわかっている。本稿でもそれを「証明」することはしない。少し常識性の側に寄った反問として、「しかしお前が『世間』の代表なのか」があるかもしれない。これに対してこの知り合いは、「そうだ」と答えてよい。少なくとも比較的「世間知らず」の者に対してそうでない者が、「それは世間が許さない」と教えてやることはこれもふつうのことである。その教えが間違っていることもときにはあろう。しかし間違いがあり得るからといって、先輩や教員が後輩や生徒に教えるということ自体が間違いにはならない。

知り合いに忠告された主人公は、単に自分の生き方が世間に許されないということだけでなく、自分が世間知らずであること、世間を知る努力をすべきことに気付くべきであった。しかし彼は、「世間とは個人だ」という間違った「思想」を身につけてしまって、(「世間」が許す生き方でなく)その時々の個人的相手に対して、身をかわしたり身を守ったり利を得たりすればよいという生き方を固めてしまった。バアのマダムに対して「一本勝負」で転がり込んだ(87頁)のは実例である。中毒患者が、治療するのでなく、薬物を入手できればその場はしのげるが、破滅に向かうのと同じである。

作者と主人公とは別だとも言われよう。「悪いお手本」として書いているのではないとしても、小説の作者が主人公を肯定したり美化したりする必要はないと。一般論としてはそうだが、この場合にもあてはまるだろうか。作者の実人生を知らないとしても、「自分には、人間の生活というものが、見当つかない」(8頁)という特殊性を自虐とも見せておいて、いわば「俗悪な世間」への抗議、小説最後の一句にもみられるように、自己神格化にも似た挑戦的な開き直りなのではなかろうか。

「ふつう」がわからない、という人がいる。気の毒なことである。いばるようなことではない。

近頃、「空気を読むな」という声が聞こえるようになった。そういう人の意図はよくわかる。「同調圧力」と闘いたいというのは正当である。「KY」ということでいじめられるのもよくはない。しかしそうした目的のために、「空気を読むな」という言葉は適切でないと考える。空気を読んだうえで敢てそれに反対するということは、そもそも空気が読めないとか読まないとかいうことと同じではないからである。大事なのは前者である。多数意見に同調しないことも当然の権利とされることである。またそのような風習をつくっていくことである。個別の「感覚」でも、かといって「理屈」でもとらえられない「ふつう」や「世間」をよく「察する」ことができるのは、取り柄である。その場の「空気」を読めることは求められて悪くないことであり、「忖度」できることそれ自体は社会人としてむしろ望まれることである。

権利を主張できることは大切である。しかし他人の気持ちを思わずに自利のために権利を言い立て、義務でさえなければ、目の前の相手、その場の空気、そして世間をはばからないことは、強者の支配にしか導かないであろう。


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2018/04/09 23:55 2018/04/09 23:55
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