アラブと私
イラク3千キロの旅(44)
松 本 文 郎
それは、アラブ諸国の中でイラクほど、雑多な少数民族を抱える国はないからだとしている。先に述べた北部一帯のクルド人は人口の一割を占め、東部にはイラン人、その他の地区に、アルメニア人、アッシリア人、カルデア人、トルクメン人などが住んでいる。これらの他民族を強権で統治していたオスマン帝国が滅亡した前年(一九二一年)、イギリスは、第一次大戦後の中東政策のため、メッカ・ハシム家のフセインの三男ファイサルをつれてきて名目上の独立を与え、親英派の王様にすえた。
この建国からカセムによる王制打倒までイラク王国を維持したのは、オリエントのビスマルクと呼ばれたヌリ・サイドだった。
サイドは、バグダッドに生まれ、メッカの太守フセインが「アラビアのロレンス」とともに起こした「砂漠の反乱」に参加してロレンスの信頼をえ、アラブ独立軍によるダマスカス陥落後、同市の駐留司令官に任じられた。
イギリスは、第一次大戦後のエネルギー源が、石炭から石油に切り替わることを見通し、イラクの油田を確保するために、ロレンスとの出会いで親英派となったサイドにイラクを託したのである。
こうして書いていると、東京オリンピックの前年に見た、『アラビアのロレンス』の数々の名場面が、走馬灯のように駆けめぐる。
印象的なシーンを、ウイキペディアの「アラビアのロレンス(映画)」の紹介記事をなぞって略記しておこう。(文責は筆者)
○イギリス陸軍のエジプト基地に勤務する情報部の少尉(筆者注・中尉ではないか)ロレンスは、アラビア語とアラビア文化に詳しく、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するフイサルと会見し、イギリスへの協力を取り付ける工作任務を受ける。
○アラビアへ渡ったロレンスがラクダを乗りこなせるようになり、ヤンブーのアラブ人基地で苦戦していたファイサルに面会する前に砂漠で出会ったのが、オマール・シャリフが演じたハリト族のシャリーフ(太守)のアリだった。(部族と人物は架空)
○ロレンスは、フアィサルのアラブ独立闘争への協力を約束し、アラブの勇士を率いてネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍占拠の港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てる。
○延々とつづく夜間行軍の間の美談や悲劇を経て、アカバ湾に向けられていた砲台を背後から奇襲し、アカバは陥落した。
○ダマスカス攻略では、金目当ての山賊らも加えた攻撃的な部隊編成で進軍して、イギリス陸軍の正規部隊より一足先に、ダマスカスをオスマン帝国軍から開放した。
○陥落を陸軍司令部に報告するためスエズ運河に向かう途中、シナイ砂漠の蟻地獄で部下のアラブ人少年の一人ダウドを失う。
○満身創痍にアラブの衣装をまとったロレンスが司令部に辿り着いて、もう一人の少年ファラジと建物に入るのを見て、居合わせた軍人たちが驚愕する。
○司令部のカフェで、「アラブ人は外に出せ」との苦情を浴びたロレンスは、ファラジにレモネードをご馳走する。
○このシーンは、フセインがめざしたアラブ独立のための「砂漠の反乱」に同行したロレンスが、司令部が命じたイギリス軍のための後方撹乱作戦ではなく、アラブ人にアラブを取り戻す聖戦として戦ったことを暗示していて、感動的だった。
○オスマン帝国との凄惨な戦闘では、オスマンの大量虐殺への復讐を懇願するアラブ戦士と共に、ロレンスの部隊も大量虐殺の復讐で深みに嵌る。
○精神的に荒廃したアラブ戦士らは、アラブ国民会議でエゴを主張し始め、開放されたダマスカスの街に、電力不足、火災の続発、病院のなおざりなどが横行した。
○アラブ国民会議に失望したロレンスは、「砂漠など二度と見たくない。神かけて」と、アラビアを去る決意をする。
○ファイサルの「砂漠の反乱」を共にしたアリは、「敬愛しつつ恐れたロレンスだが、彼自身、己を恐れていた」と語る。
○オスマン帝国から解放されたアラビアに、もう、ロレンスは必要ではなかった。老練なファイサルは、フサイン・マクマホン協定を信じて、イラク・シリア・アラビア半島を包含する大アラブ王国を構想し、白人のロレンスが、」アラブ反乱を指揮した事実が邪魔だった。
○オスマン帝国をサイクス・ピコ秘密協定で分割(フランス・ロシアと共に)することを目論んだイギリス陸軍の将軍にとっても、大アラブ王国を支持して奔走するロレンスが政治的に邪魔な存在となっていた。
○ファイサルは、「もうここに勇士は必要でない。戦った若者の長所は勇気と未来への希望で、協定を進めてゆくのは老人の仕事。老人は平和をつくるが、その短所は平和の短所でもある。つまり、不信と警戒心なのだ」と語る。
○去ってゆくロレンスに、ファイサルの「あなたに対する私の感謝の気持ちは計り知れない」との言葉は虚しく響くばかりだった。
○ロレンスは、イギリス陸軍の英雄として大佐に昇進したが、大きな失意を抱いてアラビアから追放された。
思えば、北アフリカ・中東の独裁政権の国々で起きつつある市民レベルでの覚醒と抗議行動は、かのトマス・エドワード・ロレンスが、アラビアで夢想した中に、含まれてはいなかっただろう。アラブの地をアラブ人の手に取り戻そうとしたメッカの太守フサインは、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと「フサイン・マクマホン協定」を結び、砂漠の反乱(対トルコ戦協力)の条件に、アラブ人居留地の独立支持の約束を得た。
翌年に、アラブ地域の分割を決めたイギリス・フランス・ロシアによる密約「サイクス・ピコ」協定が結ばれ、翌々年、パレスチナへのユダヤ人の入植を認める「バルフォア宣言」が出された。
イギリスが主導したこれら一連の協定や宣言は、アラブ人の領袖フサインに、オスマン帝国の配下にあったアラブの独立を承認する一方で、ユダヤ人国家のパレスチナの地での建設を支援する約束をするなどの矛盾する対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれている。
一連のイギリス政府の行動が、当時から、三枚舌外交と呼ばれたのは、悪質な秘密外交が問題とされたのであり、協定と宣言相互の内容的矛盾が問題になったのではないとされる。
フサイン・マクマホン協定に関る第二書簡での線引きには、レバノンやシリアの地中海側などのフランス委任統治領やパレスチナ・エルサレムは含まれていないので、この協定とバルフォア宣言の間には矛盾はないとされ、一九一九年のファイサル・ワイツマン会談で、パレスチナへのユダヤ人の入植促進に合意している。
二十世紀以降のイスラム史やパレスチナの歴史に関するウイキペディアの記載には、立場の違いによる諸説への加筆・訂正の協力者が求められている。
突如、当該地域に起きた「民主化・政変ドミノ」の刻々変化する事態の推移に従い、協力者の数は急増するのではなかろうか。
今回の中東革命は、つまびらかな論議・検証は専門家にまかせるとしても、良くも悪くも、第一次大戦後の列強によるアラブの委任統治と近代化に端を発していると想われる。
それにしても、クーデターでファイサル二世を殺害したイラク革命のカセム准将とアレフ大佐、その翌年、カセム首相に対抗した内紛でモースルに立てこもって殺されたシャワフ大佐は、なぜか、みんな大佐だった。
イラク革命から五十八年のいま、北アフリカのエジプト・リビアで巻き起こっているのは、革命戦士だったムバラク大佐とカダフィ大佐の退陣を求める若者たちのシュプレヒコールだ。
なにの因果か、ロレンスも本人の意思に反した昇進で、大佐になった。
調べる気もないが、五・一五事件や二・二六事件のリーダー格の将校にも大佐クラスがいたのではなかろうか。
かってのムバラク大佐もカダフィ大佐も共に、権力を手中にしてから次第に変節し、富と名誉を独占する欲望の虜に成り果てたようだ。
百姓から天下人に登りつめた、庶民の英雄秀吉といい、田中角栄も、また然り。
彼らを苦労して育てあげた母親たちは、息子の迷妄をなげいたが、アラブの大佐らの母親たちは、ムハンマドが受けた啓示のクルアーンに拠って、その愚行を諭さなかったのであろうか。
北アフリカ・中東の緊迫の事態がどう展開するか、次回も道草をつづけて、見守りたい。
(続く)