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アラブと私
イラク3千キロの旅(45)

                               松 本 文 郎

 

 第二次大戦後のアラブで、王制から共和制への軍事クーデターの革命戦士だったムバラク大佐とカダフィ大佐が、大統領として君臨した長期独裁政権が三、四十年経過した今、若者中心の「市民民主革命」の巨きなうねりで、崩壊寸前にある。
この歴史的転換に触発された近隣アラブ諸国で、市民・野党勢力による現政権の交代・打倒を要求するデモ隊と政府側勢力との攻防が続いている。

(42)で、一九五八年のイラク革命のリーダー、カセム准将が、同志アレフ大佐を逮捕・監禁し、フワード・リカビ開発相(イラクバース党書記長)を解任、それに対抗したシャワフ大佐をモースルで殺害したと書いたところで、青天の霹靂であるアラブの激動が、チュニジアに勃発した。
(43)で、ベンアリ前チュニジア大統領の国外逃亡・政権崩壊につづき、エジプトのムバラク前大統領の退陣要求が激化する状況を書くなかで、四十年前のナセル急死と後任サダト大統領の登場、その十年後のサダト暗殺と後継ムバラク大統領の独裁政権の崩壊寸前の事態を書いた。
さらに、カセムの軍事革命による王制打倒までのイラク王国成立とイギリス中東政策、オスマン帝国支配下のアラブを取り戻すファイサルに加担した「アラビアのロレンス」の映画シーンも記述した。
 そろそろ、バグダッドのホームパーティの場面へ戻らねばと思うが、進行中のアラブ中東革命の行方を考えるには、第二次世界大戦後のイギリスの中東政策とアラブ民族主義の関係に触れておく必要があり、道草をつづけたい。
 
 熱烈なナセル主義者アレフ大佐とカセム首相の確執は前述したが、ナセルのスエズ運河国有化で始まった一九五六年のスエズ戦争で運河が封鎖され、イラクから地中海への送油管が爆破されると石油ストックのない西欧はたちまち石油欠乏の危機に直面した。
 その元凶とされたアラブ民族主義の英雄ナセルは、アラブ世界全域に強い影響力を広め始めており、五七年、アイゼンハワー大統領はバグダッド条約を強化するための中東特別教書を出した。
その「アイク・ドクトリン」は、反共軍事同盟加盟国のパキスタン・イラン・イラク・トルコにソ連侵略がなくても、現地政権が共産主義の脅威にさらされたとして救いを求めれば、アメリカは即座に、武力介入して政権を助けるというもの。
 当時のアメリカにとって、アラブ民族主義者は「アカ」同然だったから、この条約は、ナセルによる「アカの脅威」を拡大解釈した強引なもので、「石油ドクトリン」のあだ名がつけられた。
 この明らかに石油の防衛が狙いの教書草案は、メジャーの重役室で書かれただろうといわれた。
 五八年のイラク軍事革命の数ヶ月前、エジプトはシリアと合邦してアラブ連合を結成し、これに対抗したイラク王国はヨルダン王国と結びアラブ連邦をつくった。
 ダマスカスを初めて訪問したナセルは熱狂的な市民に迎えられ、かって、カイロとダマスカスに都して十字軍と戦ったイスラムの英雄サラディンに譬えられたという。
 サラディン(一一三八―一一九三)はクルド族出身で、エジプト・アイユーブ朝を興し、シリア・エジプト・メソポタミアを統治してスンニ派の支配下においた傑物である。
 一一八七年にエルサレムを十字軍諸国から奪還した軍事的英雄であるだけでなく、文化振興にも力をいれ、イスラム神学・法学の研究奨励、寺院・学校の建設で、イスラム教徒には、いまも名君の誉れが高い。
十字軍と戦って人道的、平和的に対処した史実は文芸作品でしばしば登場する。
 ダマスカスのナセルを一目見ようと、レバノンやヨルダンから車でやって来た人びとや市民で、迎賓館前の広場はお祭騒ぎだったそうである。
 こうした民衆の熱狂ぶりが周辺国にまで波及するのは、チュニジアに発した市民革命のうねりと似ており、ほどなく、レバノンの首都ベイルートで民族主義者による暴動が突発し、内乱に転じた。
 ヨルダンのシャムーン大統領は、「シリアからの共産主義勢力の侵入」を理由に国連安保理に提訴し、事態は、「アイク・ドクトリン」の発動に一歩近づいた。
 翌月、ヨルダンでパレスチナ人によるフセイン王暗殺未遂事件が生じ、イラク王国がヨルダンに援軍派遣の気配をみせて世界中の目が中東にクギづけされたその時、カセム准将によるクーデターが起きたのである。
 反共軍事同盟のカナメの地バグダッドに革命が起きたので、アメリカはベイルートに第六艦隊を上陸させ、イギリスはヨルダンに空挺部隊を降下させた。
 その動乱のさ中、牟田口義郎さんはダマスカスから空路バグダッドに入っている。
 そのときの新政権と民衆の状況を報じた新聞の記事は、今回の民主革命後の行方を考える上でも貴重な資料と思われるので、「朝日新聞」(昭和三三年八月一日付)の文章を略記する。(文責筆者)

〈バグダッド発〉
  
    炎天五十度のバグダードを支配しているのは平和である。
  イラク革命はたしかにイラク国民を解放したが、革命新政権はこの開放に対してひどく慎重である。それは人民の行き過ぎを警戒しているためだ。新政府がとった措置のなかにこの配慮は十分うかがわれるのである。
  戦闘は国王が殺された王宮だけで行われ、革命はわずか三十分で成就し、いち早く放送局を占拠した革命軍が、王制廃止と共和国成立宣言をした。
国民は、新政権を歓迎しているとみえるが、戒厳令が布かれ、武器の所持、五人以上の集会、集団デモなどが禁じられているのは、王党派の決起を恐れてではなく、「自由」に目覚めた民衆の行き過ぎを抑えるためだった。
 長らく国民を抑圧してきたサイド首相が殺された道路が、即座に「平和通り」と命名されたのは民衆の気持ちをそのまま表している。
 エジプト革命から六年遅れたものの、弾圧者がいなくなったと知った血気盛んな国民大衆は、熱狂してとどまるところを知らない。
 革命直後の三日間、新政府はこの大衆の異常な興奮状態を思うようには抑えられなかった。
 イラー皇太子、サイド首相の死体を辱めたり、英国大使館を焼き打ちにしたのもこの民衆で、アラブ連邦の首脳のヨルダン人ハシム副首相とトウカン国防相が逮捕されたとき宿にいた米国人とドイツ人にもリンチが加えられた。
 アラブ民族主義は必然的に反米英だが、民衆による暴動が米英に武力干渉の口実を与えるのを警戒したカセム政権は、バグダード条約からの脱退を保留し、イラク石油の国有化には触れず、英国との友好関係を維持すると表明した。
 
 ここで、イラク革命のリーダー・カセム准将と盟友アレフ大佐のアラブ民族主義をめぐる確執についての補足を書いておきたい。
 革命による国家統治の抜本的変革や、政権交代などで、共に戦った指導的な同志やグループ間で、理念・政策・利害などの違いが表面化して、軋轢や混乱を生じることは歴史上枚挙にいとまなく、二○一一年の民主党政権をみれば分かる。
ロレンスと共に「砂漠の反乱」を戦い、イラク王国をうち建てたファイサル一世は、同国が完全独立を遂げた翌三三年(筆者が生まれる前年)に、スイスで急死した。
カセムの三十分間クーデターでサイド首相らと殺されたファイサル二世は、彼の孫にあたる。
イギリス政府の信任を得て、建国から王制滅亡までのイラクを実質的に統治したサイド首相は、ファイサルを傀儡王とされて怒ったイラク国民が起こした反映暴動の不満を押さえつけ、五十回の政変のうち十六回も内閣を組織してイラク王室とイギリスに忠誠を果たした。
「イギリスの中東政策を知るには、ヌリ・サイドの動きを見よ」とまでいわれたが、反共戦線である「バグダード条約」を結成した業績を最後に、ファイサル二世らと殺されたのである。
 イラク革命を成就させて間もなく、カセム首相が副首相アレフ大佐を反逆罪に問う事態となったのは、メッカ太守のファイサルの「アラブの地をアラブ人の手に」のように、「イラク人のイラクを」をめざしたカセムには、アラブ民族主義者アレフがイラクとアラブ連合の統合をナセルに申し入れたことが許せなかったのだ。
 
数日かけてここまで書いてきた今,書棚の本が落ちるほど激しい地震動に仰天して、パソコンのある書斎から廊下へ脱出した。  
建築家の筆者にも想像を絶する未曾有の東日本大地震が、突如起こったのである。


(続く)


2011/03/19 14:26 2011/03/19 14:26
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