「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ-1)
2011年3月20日(日)
まさに晴天の霹靂の東日本大地震だった。マグニチュードが8.8から 9.0に訂正されたほど、千年に一度くらいの未曾有の巨大地震という。建築家の私もビックリ仰天。
そのとき私は、書斎のパソコンで、原稿締切りが数日後の『アラブと私』の原稿執筆二余念がなかった。
ゆっくり始まったかなりの揺れで、正面の書棚の本が二、三冊落ちた。揺れはしだいに大きくなってきた。背面の書棚の上部には、重い大判の美術書がぎっしりと天井まで
積んである。一斉に頭上に雪崩れると危ない。私は、急いで廊下に飛び出した。
リビングダイニングにいたお千代は、大事な食器戸棚の扉が開かないようけんめいに押し返している。私もいっしょになって戸棚全体を支えたが、かってない長くて大きい
地震動に、生まれて初めての恐怖を感じた。これは大変なことになるぞ!
あれからはや十日が経った。
わが浦安も被災地となった。小さな漁村の海を埋立てて拡張した街の海側半分の地区が液状化現象に見舞われたのだ。いたる所で道路や歩道の隆起陥没が生じて、泥水と砂が噴出して堆積した。私たちが住むテラスハウス住宅団地内の道路の一部も同じ状況だ。
大きく揺れた住戸に損傷はまったくなかったが、ガス・水道はピタリと止まった。
幸い電気はきており、テレビに映し出される巨大津波が襲う被災地の惨状から、終日、目が離せなかった。市内の海に近い19階建て高層マンションに住む娘からの電話で、16階の住戸内のほとんどの家具が転倒し、壁掛けの額の落下とペンダント照明の衝突で、家じゅうガラスの破片で足の踏む場所もないという。ガス・水道は遮断。
渋谷幕張中学一年の孫遥大は幕張の校舎にいるはずだが、連絡がとれないという。
会社員の婿ドノと息子健の安否は、それぞれのケイタイで、銀座と新宿のオフィスに無事との連絡があり、ひとまず安堵。娘は、3年前にバンコクから一緒に帰国した愛犬
トビーを連れて、わが家に緊急避難してきた。トイレが使えない高層住宅からの脱出だ。
家に着くやいなや、人目のつかない庭の隅でガマンしていた小用を足す。娘は豪胆!
十日間見つづけてきた、地震・津波・原発破損の三重の被害に苦悩する被災者の姿に、言葉もない。私たちの生活インフラ遮断による不便など、タカがしれている。
地震・津波に被災した福島原発の危機的状況は予断を許さないが、最悪の事態回避に命がけで立ち向かっている全ての関係機関の方々の姿には、感動し、感謝している。
地震から9日の昨日、つぶれた家の中から、80歳の祖母と孫の16歳男性が、奇跡的に発見・救助された。一万数千人とされる行方不明者の中のお二人だったのだ。
今朝のテレビで、不自由な避難場所で9日ぶりに温かい汁わんを抱えて啜る人たちの笑顔を見た。一方で、半壊の自宅でがんばる人たちへの救援物資が届かないという。
でも、神戸淡路大地震で自発的に秩序立てられた避難所運営の経験とノウハウ、あのとき目を見張った若いボランティアの活躍などが、これからは期待できると信じたい。
それにひきかえ、あの東京都知事の不謹慎きわまりない言葉は、相変わらずの“暴言”として黙視することはできない。東京都民があの男を知事として再選するなら、日本の未来は絶望的と言わざるをえない。各政党こぞって、日本列島の復興に献身して欲しい。
昨夜来の半徹夜で『アラブと私』の原稿残部を書き、締切りに間に合った。ヤレヤレ!!