アラブとアラブと私  
イラク3千キロの旅(7)
 
              松 本 文 郎

    
 バスラとバグダッドを結ぶ国道は、大型トラック2台と普通車1台が並ぶほどの道幅。イギリス中東支配の足跡のひとつと思われる右側通行である。
 道の真ん中に上下車線の区分ラインが塗装されているが、はげしい日射し、サンド・ストームによるブラスト、重量トラックの轍などで磨耗する上に、路面が砂に覆われることも多く、ただの幅広い一本道に見える。
 荒漠とした砂漠に定規で引いたように何十キロもつづく幹線道路は、普段の見通はよくても、サンド・ストームのときは30メートル先が見えず、濃霧の中でつかうフォッグランプを点けて徐行しなければ、対向車両との衝突や路肩からの転落の恐れがある。
 クウェートでの仕事で、砂漠に点在する各種通信施設の工事現場の行き来に、対向車線に突然ぬっと巨大トレーラーの前部が現れて、はっとしたことも再三あった。
 高速のトレーラーとすれ違うときは、走行車線の右に寄るかスピードを落とし、吸い寄せられるのを避けるノウハウも身につけた。
 事故を起こしたトラックや乗用車の赤茶けた残骸が路肩近くに放置されているのを、あちこちで見かける。クウェートの若者が大型高級車を200キロで飛ばしていて、路上のラクダに衝突した話を聞いたが、4本の脚は水平に切断され、車の上に乗った重い胴体で車が押しつぶされたそうだ。

 ガソリン代が只同然の石油に浮かぶ国の金持ちの息子らの遊びに幹線道路でのスピードレースがある。高度成長期の日本の湘南ボーイに見られたライフスタイルか。
 また、最新型のベンツの灰皿がいっぱいになると車を買い替えるというまことしやかな話もある。親のあり余る金の使い方を知らないようにみえる若者を揶揄する出稼ぎ外国人の僻みから生まれたツクリ話であろう。
 暴走族は別として、普通のドライバーは、遊牧民のラクダや羊の群が道路を渡っているのに出会うと通過するまで待つのが慣わしになっている。
 こちらは、砂漠の遊牧民の暮らしと車社会の進行が折り合いをつけている風情だ。

 調子のいいアラブ音楽を聴きながら、高速で走る車の振動に揺られているうちに、いつの間にか居眠りをしたようだ。時計を見ると1時間ばかり経っている。
「眠っちゃったね。運転代わろうか」
「いえ、大丈夫ですから、眠っててください」
 眠っていた間に終ったカセットテープを取りだしてラジオに切り替え、ユーセフの好きな音楽番組を探すように言うと、ベイルートのモダンな楽曲とは対照的でローカルな味わいのあるイラクの音楽が流れた。
「明日バグダッドで、こんな感じのカセットを2、3本買いたいね。ところで、アハラムには連絡とれるのかい?」
「ええ、電話番号を知っていますから、明日の朝、掛けてみます。家はバグダッドの郊外らしいです。住所をきいておきます」
 アハラムがクウェートを去ってから7ケ月。突然のユーセフからの電話におどろくだろうな。 
 それにしても、アハラムは一体何者なんだろう、と考えあぐねている私がバグダッドへの道を走っている。
 また会えるといいねと軽いノリで言ったときに頷いて微笑んだアハラムは、とても魅惑的だった。 
 彼女には、36歳の私がいくつに見えただろうか。アラブに長く滞在している日本人男性に、子供っぽく見られたくないと、髭を生やす人たちもいた。
 ホテルへ毎朝私を迎えにくるイラク人技術者のユーセフが「チーフ」と呼んで丁重に応対しているのが日本人建築家と知って、アハラムが特別な関心を抱いたとは、とうてい思えない。
 ツタンカーメンの王妃に似ていると、少年じみた淡い憧れを感じていただけなのに、彼女との再会が現実になろうとしている今、妙にドギマギしている自分が可笑しかった。
 ユーセフは、前方を見つめたまま120キロ前後で運転をつづけている。

 アハラムが、バグダッドの実家の電話番号を彼に教えたのは、私と再会する可能性を考えてのことではなく、イケメンのユーセフにこそ関心があったのではなかろうか。
 ひょっとして、ユーセフはバグダッドのアハラムとなんども電話していたのかもしれない。
 そのことを聞いてみたくもあるが、下衆の勘ぐりで、アハラムのイメージとユーセフとの信頼関係を損ないたくはないので、やめにした。
「そろそろサマーワです。店でゆっくり食べる時間はありませんから、なにか食べ物と飲み物を手に入れましょう」
 夕空に垂れこめる厚い雲の下に、幹線道路から町へつながる道が見えてきた。
 町の入り口に並ぶ店先に点る灯りが、人気のない長い道のりをやってきてオアシスにたどりついた旅人を想い起こさせた。
 バスラを発った昼過ぎとちがい、大型トレーラー
と行き違うのもまれで、ときに速度を落とすことはあったものの、順調な走りでここまで来た。
 アラビアコーヒーを飲ませる茶屋があったので、チャイを注文してからトイレをかりた。菓子類を並べた陳列ケースに、旨そうなクッキーのような菓子(クレーチャといい、ナツメヤシの餡、ココナツ、クルミなどをパイ生地で包んで焼いたもの)があり、ユーセフのすすめで6、7個買う。ペプシコーラのボトルも水代わりに仕入れ、サマーワを後にした。

 
 通りすがりに過ぎなかったサマーワが、30数年の後に日本国憲法第九条にかかわる騒ぎになるとは、知るよしもなかったのである。
 バグダッドの南東250キロにあるユーフラテス河畔のサマーワはムサンナ州の州都。シーア派イスラム教徒の住民は、国連の経済制裁下のフセイン政権により見捨てられていたとされる。
 2003年3月、英米中心で強行された対イラク軍事攻撃でフセイン政権が崩壊し、5月から占領が開始され、翌年2月、日本国内で論議を呼んだ末、小泉首相の判断で自衛隊のサマーワ駐留が始まった。
 グーグルの「知恵蔵の解説」(高橋和夫・放送大学助教授)によると、 550人の陸上自衛隊員がサマーワ郊外に設営した宿営地に駐留して、給水、道路・学校の復旧などの人道支援活動に従事した。自衛隊活動により経済状況の急速な改善に向かうとの期待があり、住民の大半は歓迎したが次第に失望感が広がったという。

 宿営地に迫撃砲弾が向けられたり、自衛隊の車が通る道路わきで爆発するなどがあったが、死傷者は出なかった。その後、ブッシュ政権が主導した軍事攻撃の根拠である大量破壊兵器の存在が否定され、イラク占領の正当性が怪しくなるなかで、日本政府は、2006年6月に陸上自衛隊の撤退を決定し、7月、サマーワからの撤退が完了した。 
      


(続く)






2008/10/14 15:29 2008/10/14 15:29
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