「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―10)
2011年4月8日(金)
五時半起床。ルーチンのストレッチを済ませ、朝の散歩コースへ。テラスハウス住宅地内の中央公園の“クジラの背”(幅20m・長さ50m)の桜はまだ二、三分咲きだが、十日に予定している住民有志の恒例のお花見には、七、八分の見ごろとなるだろう。
親しみをこめて名づけた“クジラの背”の周囲をケヤキと桜が入り交じってとり囲む。その外側にも高い木立が並び、桜は、ケヤキと背を競うように枝を天に伸ばしている。大きな楕円形の“背”の北側を覆う色鮮やかなコケの絨毯が、踏む足ウラに心地よい。
林を抜けて見明川沿いの市道に出る。伝平橋の欄干に数人の釣人が竿を上げ下げしている。この東京湾と江戸川を結ぶバイパスを稚鮎が遡上するのは、両岸の桜並木が葉桜になる頃の筈だが、今年は大地震に驚いて早まったのだろうか。
両岸の自動車道と遊歩道に沿う桜並木も、まだ二、三分だ。橋を渡った舞浜三丁目の戸建住宅地の液状化現象の被害は大きく、上下水道・ガスの復旧工事は長引くと聞く。
傾斜した家屋も少なくないようだから、住まいから眺める桜の満開を心待ちする気分ではなかろうと想いながら歩く。
伝平橋の川上の歩道橋を渡ってわが住宅地側に戻り、「ふれあいの森公園」の広い芝生を歩くと、一角に立つ大きな桜が見ごろの美しい姿で立っている。ビオトープを回り、いつも座るベンチから舞浜三丁目の家並みを一望していて、ふと、「被災地浦安の春」と題した絵を、十五日の「日比谷彩友会」の春の研究集会に出そうと思いつく。
二、三日通って描けば、両岸の桜並木も満開となろう。画面に入れる家並みには傾いた家屋も混じるが、一日も早い修復を祈りながら描かしてもらおう。月末には、桜並木も葉桜となり、稚鮎の大群が遡上する浦安は春爛漫。
その日の予定の備忘で見るカレンダーに、今日は「花まつり」とあった。お釈迦さんの生誕を祝う仏教行事で、「灌仏会」「降誕会」「仏生会」などと呼ばれる。草花で飾った花御堂の中の甘茶の灌仏桶に在す釈迦像に、柄杓で甘茶をかける。「花まつり」の名称は、生誕の日とされる四月八日に関東以西の桜が満開になること、甘茶は、釈迦誕生の折に九頭の竜が天から清浄な水を産湯として注いだ伝説に由来するという。新妻のお千代と、六畳一間・共同炊事場・共同便所の社宅に近い新井薬師に詣でて、一緒に甘茶をかけた日も遠くなった。
桜の花といえば、本居宣長の“敷島の大和心を人問わば、朝日に匂ふ山桜かな”の歌
がある。宣長は商家生れだが、儒学を学び、医業を開業した。加茂真淵の門人となって『古事記伝』の神代巻を完成。紀州藩主に国学を講じ、真淵の古道学を継承して、国学を大成させた。
宣長の国学は、万世一系の天皇が治める神国日本の若者たちが、“特攻機”で出陣したときの精神的支柱とする向きもあるが、果たしてそうであろうか。天皇を奉じた国粋的な国学者らの主張はともかく、死地に向かう若い兵士らは、奥山に立つ一本の山桜が
朝日に輝き匂うさまを脳裏に、気高い心で逝ったのではないか。天皇のためというより、愛する家族のために国を守る潔さで出陣したにちがいない。
宣長は、万葉集の歌にみる”万物に触れて感動する魂”を大和心とし、山桜は日本人の心を象徴するものとした。若者たちは、その想いを胸に抱いて散った、と考える。