「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―14)
2011年4月30日(土)
京大建築学科同期の学友中澤伸二君からの訃報連絡に驚く。中塚教明君が急逝したという。二週間前の定例の同期会で、彼の病状が話題になったばかりだからである。
ゲンキ印だった彼を病魔が襲ったのは、一昨年だったか。十万人に一人とかの難病の治療薬が定まらないと同期会でボヤいていたが、最近は顔をみせず、入退院を繰り返していると聞いていた。中澤君への最近の電話では、薬の強い副作用のせいか食欲が全くないと訴えていたようで、心配していた矢先の訃報だった。
高松宮に似て、“宮様”と呼ばれた彼は、浮世離れしていた反面、謹厳実直な会社人間だった。アサノセメントと関連企業を勤め上げ、同期の「カンチレバー会」関東支部の万年幹事役を、中澤君と二人で熱心に担ってきた。今の同期会場は新宿住友ビル・東京住友クラブだが、数年前までは、彼の世話で新宿南口にあるアサノクラブだった。
そのクラブの専属世話係の中年女性とは、みんなで親しい口をきいていたが、会場が住友クラブへ移ったとき、中塚君がその女性同伴で現れたのには、一同ビックリした。
宮様的な呆気羅漢ぶりだが、どちらかといえば、”女性”性が強く、長電話を好む傾向があり、学友のご夫人とも長電話を楽しみ、わが妻お千代も半時間を過ぎる電話を切るのに苦労していた。
ところで、中塚君とお千代との不思議な奇縁が分かったのは、2007年、京都での卒業50周年同窓会の翌日だった。同窓会場の南禅寺・菊水旅館を出て三々五々に歩いていると、突然中塚君が、案内したい所があると連れて行いったのは夫人の実家の墓である。
突飛な言動には慣れていても余りに唐突だが、前日に、同窓会場に近い夫人の実家の墓へ京都駅から直行し、丹念に掃除して花を供えたマメさを見てもらいたかったという。
ところが、その「安保家」の墓の前に立ったお千代が、「エエッ!」と奇声を発した。なんとそれは、同志社女子大生のとき下宿した安保家で、高校生だったその家の娘さんが中塚夫人になったのだ。とても珍しい苗字だったので忘れなかった、とお千代の弁。
その同窓会には黒川紀章君も出たがっていたが、東京都知事・参院選に出馬した後で見つかったがんの悪化で出席は叶わなかった。五年ごとの同窓会の第一回に出ただけで、ずっと欠席続きだった彼は、晩年の数年、関東支部の集いに時たま顔を出していた。
宴席の私に、「キミはずっとお千代さんと一緒で幸せだね」と淋しげな顔で告げた。
二十数年前に若尾文子さんと再婚したが、前の奥さんは入学当時の工学部の紅一点で、黒川君に負けず劣らず、彼女をひそかに想った学友もいたようで、お千代もふくめて、かなりの学友が顔見知りだった。没後の同期会に二、三度、彼女を招いて歓談した。
喜寿では、一足先に逝く友が増えるのも仕方がない。“散る桜 残る桜も散る桜“
45周年の奈良万葉荘で悪酔いして暴れた久徳敏治君も今はない。日本建築学会副会長のとき阪神淡路大地震に遭い、竹中工務店の設計施工の建物に思わぬ損壊を生じたことに衝撃を受けていた。母校名誉教授の森田司郎君は、がん闘病中の身で50周年の幹事を務めた。間もなく現職の後継者を決め、実家に築いた窯で陶芸に専心したいと宣言しながら、逝ってしまった。すでに、同期卒業三十人の十三人が鬼籍に入った。
来年は55周年だ。学友各々の建築・都市の学識・実務経験を生かし、東日本大震災の復興構想会議もどきの同期会を、京都で開きたいと切に願う。