「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―23)
2011年6月1x日(x)
安重根の『東洋平和論』の序の冒頭に、「人は結合すればうまくいき、離散すれば失敗するというのは古よりの定理である。現在、世界は東西に分かれており、人種もそれぞれに異なり、互いに競い合っている。利器の研究は農業や商業をしのいでをり、新しい発明である電気砲(機関砲)、飛行船、潜水艇などはみな人間に害を与え、物を壊す機械にすぎない」「青年たちを訓練し、戦場へ追いやり、多数の貴重な生命を生贄のように投げ捨て、血が小川のように流れ、肉片が地にちらばっている。そういう有様が、日々絶えることがない。(中略)このような文明世界というものはいかなる光景だというべきかこのように考えると、骨と身がずきずきと激しく痛み、心が冷えきるものだ」
長い引用をあえてしたのは、講演者の一人小川晴久氏(東大名誉教授・近現代中韓史)が「東洋平和論の今日的意義」で述べたように、“テロリストのイメージが強烈だった”安重根が、国際連盟に10年、EU・APECに数10年も先立ち、東洋と人類社会の平和を志向していた人物と分かったからである。
「テロ」は、フランス革命最盛期の恐怖政治に端を発し、恐怖心を起こすことで特定の政治目的を達成しようとする組織的暴力の行使とされる。既成権力への抵抗手段の呼称「テロ」がおぞましい響きであるのに対して、権力が行使する組織的暴力は、“軍事作戦”“諜報活動”の表現で正当化されるので、その定義は、一筋縄では行かない。
韓国総監を務めた伊藤博文を確信的に殺害した安重根を、テロリストとみるかどうかをためらう日本人もいたようだ。ただ、日露戦争の日本の大勝利を「天命」だったかのごとく絶賛したこと、博文暗殺から間もなく韓国併合が実施されたことを思うと、安重根の時局・人物判断のすべてが正しかったかには、微妙な面がありそうだ。明治憲法制定会議での伊藤博文が、「憲法の趣旨は、君権を制限し、臣民の権利を保全することにある」と述べているが、これは、国家権力は、専制的で侵略的であるから、憲法によって縛る必要があるとの認識をもっていたことになる。安重根が知っていたかは分からない。
明治維新の夜明け前に縦横の活躍をして暗殺された坂本龍馬は、幕府権力からみれば、長州など幕府に楯突くテロリスト集団の一味と見られていたにちがいない。
京都守護職の会津藩主松平容保の家臣で守護職公用人手代木直右衛門の子孫への伝言には、龍馬殺害は、新撰組でも土佐藩からの刺客でもなく、弟の佐々木只三郎によると書かれているが、長年、手代木家の子孫が秘匿した伝言で、寺田屋事件以来、諸説紛々の犯人探しに終止符が打たれるのであろうか。
その最後が悲劇で終わるのがヒーローの条件とするなら、龍馬はもとより、安重根もオサマ・ビン・ラディンも、彼らを尊敬し、支持しする人びとにとってはヒーローなのであろう。
ちなみに、京都祇園で遊興に耽っていたのは新撰組だけではなく、長州の志士たちも一晩に一千両を湯水のように使ったそうで、永田町住人の料亭政治は、与野党を問わずその流れを汲むものだったのか・・・。
薩長を結びつけた龍馬は、西郷の暴力革命志向から無血革命に転向して殺されたが、安重根が示唆されたように、幕府も間違った人物を殺してしまったのではないか。
(続く)