「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―25)
2011年6月2ⅹ日(ⅹ)
半年ぶりで、お千代の姪の娘御の結婚式で、故郷福山へ帰った。義兄の孫の花嫁は、幼いころ離婚した母親と祖父母の家に戻って暮らし、今日まで育った。乳呑児を抱えて婚家を去った母親の若き日の“人生峠”も遠い彼方であろう。
前回は昨年の大晦日直前、本家当主の葬儀だった。近頃の帰郷は、同窓会のほかには冠婚葬祭だけだ。本家の跡取りの一人息子が戦死して、次女が迎えた婿殿は税務署を退職後に税理士事務所を開設し、土地ブームの折にも、農地・山林を売らずに先祖伝来の土地を守ったことが自負だった。頑健だった伯父より数年早い鬼籍入りで、享年86。伯父貴とぶつかり、幾度か離婚を考えたと述懐したこともあったが、40代で失明した従姉(両親が従兄妹同士の所為か)の世話を厭わずにやっていた。几帳面で頑固なところは伯父貴と同じだったから、似たもの同士がぶつかることもあっただろう。
日本人の結婚・夫婦観はずいぶん変わったものだ。若いころ憧れた米国のファミリー像はどうなったのか、離婚率は50%という。わが国も、追従するかのように30%。
離婚を“バツイチ”と自嘲する女性もいるが、イヤな男から身を引いた決断の“勲章”と思ってもいいではないか。もっとも、“多離婚経験症候群”は幸せではなかろうが。
福山駅に近い式場でチャペル式結婚式を挙げる花嫁は、所謂“できちゃった婚”とか。そう聞いていなければ、ウエディングドレスではまったく分からない。だが、この呼称はいただけないと思う。歓びの気持ちをこめて、“授かり婚”ではどうか。
私たちの親の時代には“子は鎹”だったが、いまでは、シングルマザー・ファーザー
が珍しくない。愛を失った親のとばっちりを受けるのは子供たちだ。結婚適齢期の若者が、結婚をしない原因の一つでもあろうか。
二つの尖塔を持つ教会風建築の式場は、昨年の喜寿同期会で来福したときスケッチしたが、新しい教会と思って描いたあとで、福山在住の学友に教えられた曰くがある。
外国人司祭が待つ祭壇へとアイルを進み、正面のステンドグラスからの光を浴びて立った二人は緊張していたが、幸せそうだ。私たちの前の列で二人に視線をそそいでいる花嫁の母・祖父母の横顔も、満足げだった。
この日最後の8組目の式とかで、式次第を英語で執り行う男性はお疲れであろう。
どこかの教会から派遣された牧師だろうが、クリスチャンでもないカップルに神の名の下、永遠の誓いをとり結ぶご心境やいかに、と思いつつ儀式を眺めていた。
披露宴はヨーロッパのお城の宴会場を模したという天井の高い空間で、式場側の司会
で進行した。両家の親族は多くはなく、大半が新郎新婦の友人たちだった。
仲人も来賓もなく、友人代表二人の祝辞のほかには、余興をする人もいないと聞いてはいたが、司会の女性がやってきて「お出番です」と言ったのは、“宴もたけなわ”に
なる前だった。
現役時代、頼まれ仲人や主賓役をかなりやっていたので、結婚披露宴には馴れてる。
娘のときは、妻お千代のピアノ伴奏で、『君たちの船出』(拙詞にマイ・ウエイの曲)を唄い、外国人参会者のヤンヤの喝采を浴びが、今回は、年寄り臭くないように気をつけた祝辞を短く述べ、オハコの『愛の讃歌』を、カラオケ伴奏で熱唱した。 (続く)