「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―26)
2011年6月2ⅹ日(ⅹ)
披露宴のあと、新幹線で福岡へ帰る新郎の両親・親族と別れ、お千代の姪・甥が運転する車2台に分乗して、義兄一家が住む井原市へと向かった。「中国地方の子守唄」で知られるところで、数年前、全国民謡大会が開かれた。
余談だが、東北や九州などに比べて「民謡」がきわめて少ない地方のわが故郷が誇る
この子守唄は、浦安男声合唱団が東日本大震災復興への想いを届けようと10月に開催する特別演奏会の曲目にもあり、古里への想いをこめて唄いたい。
義兄たちが住む家は、義姉の実家の土地に建っている。戦死した父親の跡取りの義兄が敗戦直後に興した会社が十数年で倒産したので、城のすぐそばの土地家屋を手放して清算し、井原市へ移ったのである。
私とお千代が、昭和23年に広大付属福山中学の1期・2期生で出会い、大学生活を共に京都で過ごし、昭和33年に結婚した間の経営は順調にみえていたが、いつのまにか、高度経済成長に伴う時代・ニーズの変化に追従できなくなったのであろう。
義兄の父は、“削り鰹”の問屋を創業して軍の御用商人になった安部家の七男だった。一族で営んだ会社事業は富国強兵の国策に乗って隆盛を極め、長男の創業者は、福山城の一廓に天守閣を望む広大な庭園と屋敷を持ち、兄弟たちにも、城の周辺に邸宅を構えさせた。鞆の浦にあった鉄筋コンクリート造の避暑別荘が、お千代のご自慢だった。
敗戦間際の大空襲で、市中央部の大半と福山城の天守閣は焼失したが、安部家当主の屋敷はなぜか無傷で残り、進駐軍司令官の住まいとして接収された。その後、市に寄贈されたのも、御用商人でなくなった安部家一族に、戦後の暮らしは厳しかったのだ。
温厚だが芯の強い義兄は、井原周辺で盛んな縫製加工の仕事で生計を立ててき、長男も、その業界の中国現地会社へ長期派遣されてがんばっている。新婚時代は夫婦で在勤したが娘が生まれてからは単身赴任で、今度の従妹の結婚式に一時帰国していた。
お千代の母親文子は、この家の離れ座敷に住んで83歳で亡くなったが、NTT社長真藤恒の花輪が並んだのを義兄・義姉はとても喜んでくれた。社員の妻の亡母への異例ともいえる花輪は、民営化の折に頑張り、新社歌『日々新しく』の作詞者となった私への真藤のジイサンらしい労わりの心遣いと思われた。
戦死した岳父は文七で、文郎は、二人共に「文」が付く両親の次女と結婚したのだ。
義兄の長男一家は、離れ座敷跡に新築した二階建てに住み、義姉の実家の母屋では、ダイニングキッチンと浴室が増改築されている。
半年前の本家の葬儀で泊めてもらった時も、安部一族の歴史を克明に憶えている義兄の記憶力に感心したが、披露宴の余韻のなか、また、夜遅くまで昔話に花が咲いた。
お千代の姉と次兄は鬼籍に入っており、肉親は義兄ひとりとなった。結婚式へ、敗戦直後に関西へ嫁いだ亡姉の息子一家も宇治市からやってきたが、2歳で母をなくした彼が、数年前、顔の記憶もない母親の五十回忌を営み、招かれて参列して、お千代共々、
その律儀さにいたく感心した。9年後の私の母の五十回忌を、父の骨を納めた高野山・総持寺で開くことを思いつかせてくれた彼である。
冠婚葬祭は、封建的な「家」ではない「家族」にとって、互いの絆を確かめあう大切な儀式だと改めて思う一夜であった。
(続く)