「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―28)
2011年6月2ⅹ日(ⅹ)
右にゆるくカーヴした坂道をゆっくり上がってゆくと、行く手左右に、急勾配の洋館屋根と母屋の玄関前に立つ松の木が見える。道の側溝に近寄ったお千代が、「この溝に、従妹のMちゃんとオシッコして、どちらが早く流れるかを競争したのよ」と告白した。
お城の下の一角に屋敷を並べて住んだ安部一族六男の娘M子ちゃんとお千代は、坂の上の本家の庭でよく一緒に遊んだという。太平洋戦争が始まる寸前の幼児の世界の微笑ましい情景だ。そんな佳き日々も戦争の渦に巻き込まれ、福寿会館に変身した本家以外の屋敷は、すべて焼夷弾で焼かれてしまった。
私はといえば、原爆投下の前年に福山へ疎開するまで住んだ広島で、休日の父に連れ
られて行った、水源地があった白島での蕨狩り、比治山下の御幸橋辺りでのハゼ釣り、外国映画を見た街中の映画館などを思い出す。
集合時間よりもかなり早く着いたせいか、洋館内のレストランに学友の姿はない。
雨に濡れる庭が眺められる席で、五十八年前のお城の上の初デイトの話しをした。
京大生になった夏休みに思いがけずお千代から手紙をもらい、その冬休みに小学二年の弟隆夫を連れて、天守閣の焼け跡で久しぶりの再会。弟を同行させたのは母親である。京都で勉学に専念すべき息子が、恋愛に現を抜かすことを危惧した苦肉の策のように感じたが、初心だった私に断るすべはなかった。
あの日から半世紀以上が経ったのだと旧懐の念にひたっていると、Kちゃんが現れた。福山では有数の建設会社の社長三代目で、同期会の地元代表として長く会長を務めたが、死線を彷徨うほどの大病もしたようだ。
大きな建築組織で専ら設計に携わった私とは違う業界で活躍した彼と、互いに建築を学んだ親近感もあり、父が“ダンゴ3兄弟”に遺した僅かな田地を宅地化して売却する仕事をやってもらったこともある。
五年ごとの同期会が福山であるとき、二次会は彼の会社が建てたビルにあるスナックで、有志一同が世話になったものだ。親分肌というよりも、建設会社社長には数少ない知性派だが、同期学友の面倒見のよさは際立っている。
一昨年、お千代の母文子さんの二十五回忌で帰福したときも、前日の午後、家族三人〈奥さん、娘さんと一緒〉で、お千代にとって懐かしい鞆の町を予約のガイド付で案内してもらい、数日して、娘さん撮影“鞆の町歩き”アルバムが送られてきた。
昨年の喜寿同期会の前座に、福寿会館に茶席を設ける企画も彼のアイデアだったようだが、なにかの都合でお流れとなった。今回の句会の場を福寿会館に選んでくれたのは、その代わりだったのだろうか。
挨拶を交わしていると、学友たちが次々とやってくる。
句集「つれづれ」の編集長Yさんが、「Mu子ちゃんとH子さんが急病で来れないよ」と告げた。ヘルペスと風邪に罹ったという。喜寿でバーバー現役のKo君、喜寿同期会で五十七年ぶりに再会したMi子さん、現在の同期会会長Ku君の顔がそろった。その
他は、広島や東京に住む“遠距離会員”だ。
そこへ、句会の会員でないN君が入ってきた。私たちのためにKo君が声をかけたという。彼は、備後地方で繊維加工業を営み、中国へも進出してがんばっている。(続く)