アラブと私
イラク3千キロの旅(50)
松 本 文 郎
車の調子を気にして、モースルへ着くことだけを念頭に来たので、街へ入ったときはホッとした。
レストランには寄らなかったが、ギャレージに寄った町でペプシコーラを買い、アハラムの家でもらったクレーチャを車の中で食べていたのが、昼食の代りだった。
モースルの街は、チグリス川の両岸に広がっていますと云いながら、走っている大通りを指さしたユーセフは、
「十年前のナセル主義者・シャワフ大佐の叛乱の鎮圧に空軍爆撃の非常手段をとったカセム首相の命令で、この道に、数千人の血が川のように流れたといいます」
「軍事クーデターで王政を打倒し、共和制イラクを樹立した軍人の政治的内紛で、市民まで殺戮されたのはどうしてなの?」
「アハラムの家でマリクが話してたように、この地域一帯に古くから住んでいた大勢のクルド人の中に、ネストリウス派キリスト教徒のアッシリア人やトルクメン人が住んでいて、民族的、政治的に複雑な問題を抱えてきました。アラブの再統一運動をめぐり、カセムが共産党の力を借りバース党内の反共産主義・ナセル派を弾圧したのに抵抗した市民も多かったのです」
「石油利権の争奪で、カセム政権とモースル地域の利害対立もあったのだろうか」
「私はバグダッド工科大学生でしたが、卒業後、この街でチグリス川の護岸工事の現場監督で働いた頃、いろいろと残虐な話を耳にしました。これから訪ねる教会の牧師と親しくなったのも、そのときです」
「十年前のユーセフは、教会の日曜礼拝に行っていたんだね」
「ええ、実家から離れ独りで住んでいましたから、教会の牧師さんや礼拝に来た人たちと話すのが楽しみの一つでした」
「牧師さんはいまもその教会に居るの?」
「ええ、チーフがモースルまで行きたいと云われたとき、クウエートから電話して確かめました。モースルの現場は一年余りでしたが、バグダッドに戻ってからも、相談事などで電話していましたから」
「クルド族やモースルのことを聞けそうで、楽しみだナ」
「日本人建築家が、モースルまでやって来たのをきっと喜ばれるでしょう。川上に架かる橋を渡り、しばらく走った小高い丘に教会はあります」
いま二○一一年の十数年前からは国内外の旅でスケッチを楽しんできたので、訪れた街や自然の風景は詳細に憶えているが、アラブ滞在の当時は描かなかったし、四十年も昔のことだから、地形や街の様子をちゃんと思い出せないのはし方ない。
モースル市内のチグリス川や橋の幅はそんなに大きくはなく、教会の建物には鐘楼や尖塔がなかったイメージが脳裏にある。坂道を登って到着した建物は、修道院風な印象だった。車のドアを開け閉めする音や二人の英語の話声で分かったのか、牧師さんらしい中年の人が入口に現れて、片手を上げた。
駆け寄ったユーセフと親しげにハグした彼が、近づいた私に手を伸べて握手を求めた。温かい掌だった。同じ年恰好の日本人訪問がうれしかったのか、人懐っこい笑みを浮かべ、英語で挨拶を交わした。
ユーセフがこの街を去ったあとで何度か電話で話したとしても、久しぶりの再会らしく、中庭の回廊に立ったままで、二人だけの会話がつづいた。庭をとり囲む建物を見回している私に、ホームパーティで話題になったクルド族の土地モースルにやって来た実感が、ふつふつと湧いてきた。
私たちを食堂のような部屋に案内した牧師は、「さっきまで、わたしが結婚式の司祭をつとめたカップルが来ていて、もてなしに出した美味しいワインがありますが、いかがですか?」と訊ねた。
思いがけないおすすめに、
「それはうれしいです。いまでもこの辺りでは、葡萄が栽培され、ワインが作られているのですか」
「はい、ご存知かもしれませんが、ここモースルの歴史はたいへん古く、紀元前六千年頃には人間が居住しており、ここからさらに北の高原地帯が、歴史に名高いアッシリア王国誕生の地なのです」
「そんな由緒ある所と知りませんでした。アラブの地にやってきた十字軍への砦だったとは、昨晩招かれたバグダッドのホームパーティで聞かせてもらいましたが・・・」「紀元前六○九年に滅亡のアッシリア王国の最盛期は、モースル周辺を首都とした時代でした」
人のよさそうな牧師は、話しながら、壁に組み込まれた古めかしい戸棚からワインの瓶とグラスを取り出して、テーブルへ戻った。「今朝、地下のワイナリーから出したばかりですから、どうぞ召し上がってください」「なんだか、アッシリアの時代にタイムトラベルしている気分ですよ。ご親切に感謝します」
三人はグラスを上げて乾杯した。いかにも地酒らしい素朴な味わいだった。
ユーセフは、牧師が私の訪問を歓迎しているとみてか、うれしそうだった。「この建物は教会というよりも修道院だったようで、イスラム以前からあったネストリウス派教会の流れを汲んでいます」「それはキリスト教の会派の一つなのですか?」
やおら、ユーセフが口を開いた。
「会派というよりも、かって異端視された教派ですね。五世紀半ば、コンスタンチノーブル大主教だったネストリウスが、エフェソス公会議で異端として破門されたので、その一派が、ササン朝のペルシャの領地だったメソポタミアで布教したのが始まりです」
「東ローマ帝国の大主教が異端視されたのには、なにか教義上の問題でもあったのだろうか?」
「私の家族は代々のクリスチャンですが、教義のことやネストリウス派の末裔かどうかは分かりません」
ユーセフの話を聞いている間に席を立っていた牧師が、チーズとピスタッチョの皿をのせた銀の盆を運んできた。
「こんなものしかないのですが、ワインと一緒につまんでください」
「ネストリウス派のことをユーセフから聞きましたが、牧師さんは、その流れを汲む方ですか」
会ったばかりの人への質問としては立入りすぎかと考えたが、イスラム教徒が圧倒的に多い現代イラクの少数派キリスト教徒の存在に強い関心があり、敢えてぶつけてみた。
「家族みんなが先祖からのキリスト教徒ですからね。おそらくそうでしょうが、私たちは新約聖書で布教につとめています。当時、ペルシャの領土だったメソポタミアでネストリウス派が布教できたのは、それを異端視したビザンツ帝国と敵対していたササン朝ペルシャの歴代皇帝が手厚く保護したからだと言われています」
「やはり、宗教と政治権力の深い関りの歴史なのですね」
「メソポタミアの各地に共同体が存在したネストリウス派キリスト教徒も、六四四年にササン朝がイスラム教のアラブ人に滅ぼされてからは、アッシリア人をふくむキリスト教徒は、中央アジアや唐などの地で布教活動をする者が少なくなかったようです」
「いまも異なる宗教の信者が暮らすモースルでは、どうなのでしょうか」
「いまでもそうですよ。モースルではモスリムのスンニ派が多数ですが、キリスト教徒やクルド人の民族宗教・ヤズィーディーの信者もいて、深刻な事態にならなくても、協調できない場面は生じています」
ユーセフが、また口をきいた。
「オスマン帝国時代の一九一四年から二十年間に、ジェノサイドの対象にされていたアッシリア人やアッシリア東方教会信者が、五十から七十万人も殺害されたといいます」
アハラムの父親から聞いた、オスマン帝国支配以前のモースルの歴史の概略を列記しておこう。
①初期アッシリアの砦の町がアッシリア王国滅亡後のニネヴェの跡を継ぐ都市となって、シリアとアナトリアを結ぶ幹線道路のチグリス川渡河点として栄えて、紀元前六世紀には重要な交易拠点になった。
②ムスリムのアラブ人がササン朝を滅ぼして支配下においたモースルは、イスラム史上最初の世襲イスラム・ウマイヤ王朝の首都として繁栄の絶頂期を迎えたという。
③その後のアッバース朝時代もインド・ペルシャ・地中海を結ぶ戦略的な位置を占めて、商業都市として栄えつづけた。
④アッバース朝衰退後は、アラブ遊牧民のハムダーン朝がモースルを首都にしてジャジーラを支配したが、十一世紀後半にセルジュークに征服されてからは、その西方拡張政策を懸念する十字軍の遠征を呼び寄せることになった。
⑤十字軍国家のシリア・パレスチナ支配の時代、セルジューク朝の地方政権が入れ替わり立ち代り治めたモースルは、強力なザンギー朝政権の中心として十字軍への反攻拠点となった。
⑥その後二分したザンギー朝のシリア方を継いだサラディンは、一一八二年、モースル征服を試みたが失敗する。
⑦十三世紀のモンゴル帝国侵攻の際に反抗の意を示した太守マリク・サーリフは、籠城戦の挙句に降伏し、住民は虐殺され、都市は完全に破壊されたという。
(続く)
チグリス川とモースルの橋