アラブと私

イラク3千キロの旅(51)

 

                               松 本 文 郎 

 

 モースルは、ペルシャ、十字軍、モンゴル、オスマン帝国が去来した要衝の地だったのである。

市内を流れるチグリスの上流には、トルコとの国境がある。その数奇な歴史に想いを馳せながら、車を運転するユーセフがさし控えているワインのお代りをいただく。

 牧師には初めてという日本からの客のグラスに、真紅の赤ワインがななみなみと注がれる。

「古代から、交通・交易に便利な要衝の地には、大勢の人の血が、無惨に流されたのですね」

「そうです。ユーセフが話したように、私が生まれる直前まで、アッシリア東方教会の信者たちが集団殺戮の恐怖に怯えていました」

「昨晩、バグダッドで招かれた家のご主人から、モースルの歴史のあらましを聞きましたが、初期アッシリアの砦の町だった土地で、アッシリア人と東方教会信者が民族浄化のような目に遭ったのは、歴史の因果なのでしょうか」 

「因果ではなく、邪魔になる存在を抹殺するのは、時の統治権力者がいつもやってきたことではないですか。第2次大戦後の1948年、国連総会でジェノサイド条約が採択されたのは、国民・人種・民族・宗教などの集団を破壊する意図で、殺害・危害を加える行為を禁止するためでした」

380年間も、オスマン帝国に支配下されたメソポタミアを、中東の豊かな石油資源に早くから目をつけていたイギリスは、巧みな植民地政策の下で、高まってきたアラブ独立運動に介入して、立憲君主制のイラク王国が誕生させた。

 イギリスの要請を受けて初代国王に就任したファイサル1世とアラビアのロレンスとのエピソードは、(44)に書いた。

 イギリス以外のヨーロッパ諸国も、古くからのメソポタミアと交易をつづけてきたが、本格的に関心をよせるようになったのは18世紀からで、なかでも、ドイツとイギリスは互いに競い合い、積極的に動いたのである。

 イギリスが、1836年にチグリス・ユーフラティス両川で蒸気船を運航させると、ドイツは、1861年に電線を敷設し、小アジアのコニヤとバグダッドを鉄道で結び、その後、バスラまでの路線延長の計画を発表した。 

 アハラムの父が、オスマン帝国が支配していたバグダッドの鉄道建設で土建会社を創設した人の4代目だったとは、いい土産話だ。

「ドイツと組んだオスマン帝国からメソポタミアをアラブ人に取り戻す手助けをしたイギリスは、オスマン帝国の領有地を第1次大戦の戦勝国で分割して、メソポタミアをそっくり委任統治領にしました。でも、アラブ独立の約束を守らなかったので、アラブ人の民族運動が再び活発になり、1920年に起きた各地の暴動では、モースルが最も激しい地域だったそうです」 

 地酒ワインの酔いも手伝ってか、昨夜から気になっていたバース党政権の親ソ外交や多国籍企業「イラク石油会社」への、牧師の見解を聞きたくなった。

「昨晩の招宴の席でご主人の甥御の新聞記者から聞いたのですが、バクル政権が親交しているソ連の、西欧型市場原理導入や中央から地方への権限委譲については、どうお考えですか」

 出会ったばかりの日本人の単刀直入な質問に、牧師は一瞬、戸惑いの表情を見せた。

「いきなり、不躾な質問をしてすみません。もし、お差支えがあれば、ほかのお話しをしましょう。日本のことを聞いてくださってもいいですよ」

 ユーセフが、牧師に告知する口調で、

「ボスは、クウエート電気通信プロジェクト技術コンサルタントの建築班チーフです。これからのアラブ諸国の近代化と発展を真剣に考えている人ですから、ご懸念はいらないと思います」

「それでは、わたしの考えをお話ししましょうか。聖職の身でも、自分の国の政治経済については、いろいろ思案してきましたので」

「それはありがとうございます。国家統治と密接に関るイスラム教が圧倒的なイラクで、少数派のキリスト教聖職者に、国の近代化についてお考えを伺えるとは、とてもうれしいです」

 牧師の真剣なまなざしを受けながら、私は謝意を述べた。

「宗教を否定する社会主義のソ連に親近感はもてませんが、欧米による植民地的支配をうけてきた国民として、ソ連の科学技術と工業発展の支援には、期待したいと思います」

「バクル大統領のバース党は、社会主義を標榜していますよね」

「そうですが、その社会主義は、私有財産を認め、イスラム的価値観をアラブ民族文化の重要要素としています。宗教を否定し、世俗性の強いイラク共産党とは、スタンスに大きな違いがあります」

「1950年以前のイラクの石油開発権は欧米の外国企業がにぎり、イラクには殆んど利益が入らなかったそうですね」

「ですが、親英的イラク政府と英国支配のイラク石油会社が協議を重ねた結果、50年代前半には、石油収入の半分をイラク政府受け取る新しい協定が結ばれました」

 ユーセフがまた、口を開く。

「私が小学生の頃にバグダッドで対英条約反対の大規模な暴動が起ったり、高校生の頃には、反ソ防衛網のバグダッド条約機構が結成されました。そんなイラク国内外の状況下の英米の石油確保戦略として、イラク国民への妥協を画策した協定だったと思います」

 牧師が受け継いで言う。

「イラク石油会社からの石油収入は、バグダッドに本拠をおくスンニ派のバース党政権に入るので、クルド族が多いモースルとシーア派が多いバスラの地方支配者らとの悶着の種になっていました」

 さらに、牧師の話はつづく。

「50年代に石油収入は増えましたが、国民の貧富の較差は激しくて、王制政権のヌーリ・アッサイードは欧米諸国からの援助をとりつけようとしました。でも、中・低所得層には、近隣アラブ諸国に広まっていた汎アラブ主義を支持する人が多く、ナセル主義の影響を受けたカシムら「自由将校団」のクーデターで、独裁的で悪名高かった宰相は殺害されました。いわゆる1958年革命です」*(45)参照)

 私は、石油の輸入をアラブに依存する日本が強い衝撃を受けたOPECを思い出した。

「今から十年ほど前、石油収入を確保するため、イラクは他の石油輸出国とOPECを結成しましたよね」

「王政を廃止して共和制を宣言した革命から二年後でした。でも、当時のカシム政権は国民の支持を失っており、1963年の軍将校らによる新たなクーデターで、カセムは失脚し、後に処刑されました」

「この将校らは、シリアに本拠地を置くバース党の党員で、党指導者アル・バクルが首相に就任、大統領には、汎アラブ主義を支持するアブドル・サリーム・アリーフがなりました」

「しばらくして、アリーフがバクルを失脚させたのを機に、60年代、なんどもクーデターが繰り返された挙句、1968年のクーデターでバクルが最終的な政権奪取に成功して今日に至りました」

 ユーセフと牧師によると、今のイラクバース党はシリアバース党とのつながりを弱めて、社会主義路線を選び、周辺のアラブ諸国に影響力をもつ強力国家を築こうとしているようだ。

 牧師は、マリクやユーセフと同じように現バクル政権に期待しているようにみえて、その

立ち位置もおよそ分かってきた。

3年目の新政権は、社会主義の理念に基づいて、農・工業の近代化と社会の不平等是正に取り組み、バクル大統領の右腕は革命指導評議会の中心メンバーのサダム・フセインという人物だという。

「モースルに来る車のなかで、ユーセフが話したイラク石油会社の国有化は時間の問題かもしれないね」

 踏み込みすぎかと思いながら、訊ねてみる。

「バクル政権とクルドの人たちとの間に、いまはもう、軋轢はないのでしょうか」

「日常的な問題はないようでも、イラク石油会社を巡って、中央のバクル政権とクルド人との間に、これから問題が生じるのではと懸念します」

「イラク石油会社のキルクーク油田にはイギリス人が駐在しているでしょうが、この教会のミサに訪れることはありませんか」

「イギリス国教会は、ローマ教皇支配から独立し、プロテスタントの中道をとっていますが、ミサに来るイギリス人はありません。それより、2、3年前から時々、アメリカ人がやってくることがあります」

「ミサにくるのですか?」

「いいえ。どんな仕事の連中かよく分からないのですが、IPC(イラク石油会社)に関する情報を探るような質問をしました」

「CIAの諜報員なのでしょうか                    (続く)


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2011/11/04 17:42 2011/11/04 17:42
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