アラブと私
イラク3千キロの旅(53)
松 本 文 郎
田代譲次さんが代表幹事を務めた情報通信国際交流会は、150回に及ぶ月例講演会を開いてきた。
人類の歴史・社会に関する幅広いテーマの講演年間計画に基き、斯界の学究や論客が招かれたが、講師の選択は、田代さん自身が著書などを丹念に読んで決められたと伺い、実に勉強熱心な人だと畏敬していた。
どの講演も興味深く聞かせていただいた中で、東京大学大学院教授高山 博(西洋中世史専攻、異文化交流研究/異文化接触論)、同教授山内昌之(地域文化研究専攻、日本アラブ対話フォーラム/日中・日韓歴史共同研究)の各数回が、『アラブと私』を書く上で、たいへん勉強になった。
山内さんは、カイロ大客員助教授・ハーバード大客員研究員の経歴と、小泉純一郎元首相の外交を補佐するタスクフォースや3回の日本政府中東文化ミッション団長で中東各国を訪問するなど、多方面で積極果敢に活動している行動派の学究で、歯に衣を着せぬ論客でもある。
6月(2011年)の講演「イスラムの歴史と現在―中東民主化の背景」では、オサマ・ビン・ラーデンの死とオバマ演説を皮切りに、アラブ・イスラエル紛争の新次元出現、エジプトと「新たなアラブの現実」、トルコ・イランの非アラブの台頭など、「新しい中東」の歴史的動向への識見を披瀝され、たいへん刺激的だった。
高山さんは、「歴史から学んだことを、これからの人類社会の構想・構築に生かすこと」と鮮明な歴史観を語る気鋭の歴史学者である。
10月の講演(6回目)では、「ゲルマンと地中海世界―西ローマ帝国以後の新秩序」で、中世のヨーロッパ世界の成立、アラブ・イスラム勢力の拡大と地中海の三大文化圏の時代について、最新の研究成果(欧州学会誌掲載)を披瀝された。
中世ヨーロッパに政治的・経済的なまとまりがあったとする学説は主観的であり、事実は違っていたのではないかとの論述を、興味深く聞いた。
ギリシャの財政破綻をめぐるユーロ・EUの危機的状況に関連する質問をした私に、ていねな話をいただいた。
『アラブと私』は、まだ序章の半ばである。
「イラク3千キロの旅」の後半と、クウエート・テレコムセンターの工事遅延で日本から家族を呼んで共に過ごしたクウエートでの三年の体験記(本論)を、田代さんに読んでもらえないのは残念だ。完結を墓前に報告するのを励みとして、書き続けよう。
教会の牧師も言っていたが、イラク石油会社(キルクーク油田)があるモースルでは、クルド族への石油利権の配分や石油資源国有化をめぐるバース党政権の去就が、国の内外から注目されていた。CIA関係者かと怪しまれる人物が教会を訪れたのも、不思議ではなかろう。
だが、産油国クウエートの技術コンサルタント業務に従事する筆者は、石油をめぐる欧米各列強の動きなどを詮索して、あらぬ嫌疑を掛けられることがないよう、言動には神経を使っていた。
バグダッドのホームパーティの新聞記者との話でも深入りは避けたが、アラブの石油に依存する日本の国民として、石油関連の国際動向に強い関心を抱いてはいた。
クウエートから帰国後すぐ読んだ牟田口義郎著『アラビア湾のほとり』の末尾に、中東の石油にいちはやく目をつけた2人の日本人先駆者のことが書かれているので、牟田口さんの貴重な証言を、ご冥福をお祈りしつつ紹介させていただく。
1人は、1924年3月にバグダッドに現れた地理学者の志賀重昂氏である。
目的の一つは、中東の石油事情の視察で、他の一つは、半年前開通したバグダッド・ダマスカス間の砂漠横断バスに乗り、アジアとヨーロッパをつなぐ新交通路を、日本に知らせることだった。
ラクダの隊商は45日かかったが、1日で行けるようになったそうで、牟田口さんは、「実践的な地理学者として、また啓蒙主義者としての彼の面目がうかがえる」と書いている。
ダマスカスに着いた彼は、シリアからヨルダン、パレスチナに入り、アラブ・イスラエル紛争の萌芽をふくむ中東情勢を観察して、イギリス支配でないアラブの盟主は、「砂漠の豹イブン・サウド」のほかにはないと見抜いた、とも書いている。
当時のアラビア半島では一滴の石油も産出しておらず、イラクでは、国際石油会社(イラク石油)の設立めぐって、英米間で激しい攻防がくり広げられていた。
憂国の士志賀さんは、イラクを川中島に喩えた(ギリシャ語のメソポタミアは、川中島を意味する)そうだが、北カラフトの石油利権をソ連から獲得して鬼の首でも取ったように喜んでいる日本の国策を、英国が目論んだ「イラク石油」の10億ポンドという破天荒な資本金と比べ、スケールがあまりにも小さいと嘆いたという。
1925年の10億(英国)ポンドの円換算は、今月25日の取引レート(119円11銭)で、約12兆円となる。貨幣価値の変動を抜きにしても、莫大なく金額なのは明らかだ。
志賀重昂が書いた旅行記『知られざる国々』に、「石油の供給が豊富な国は、空・陸・海を支配して栄え、石油のない国は衰退へ向う。石油政策の有無こそ日本国家の死活問題である」との石油観を述べているとある。
牟田口さんが、『アラビア湾のほとり』を書き、筆者がアラブに4年滞在したのは、志賀さんから半世紀を経た時点だが、アラブが日本人に知られざる国々であることに、大きな変化はなかったと思わざるをえない。
アラビア湾のほとりが、わが国への石油供給にとって不可欠な地域であり、日本車が走りまわり日本製品がはんらんしているにも拘らず、ガイドブックもほとんどなく、いまだに知られざる地域であることに苛立たしさを感じて牟田口さんは、『アラビア湾のほとり』を書いたのであろう。
その中に登場する、当時の(財)中東調査会の理事長土田 豊氏(『中東の石油』の著者)の言葉の要約を再録すると、「アラビア半島周辺は、開発の環境条件が過酷だが、日本は、利潤率の高い大規模プロジェクトへの協力にとどまることなく、都市改造や社会厚生施設などの小規模プロジェクトにまで労を厭わずに参加し、技術協力をすることがなによりも緊要である。西欧諸国の実績はよくこれを教えている」「国家レベルの技術協力と財界レベルの資本進出を飛躍的に拡大し、大幅な石油依存先である中東産油国との友好、協力を図ることこそ、石油政策確立の礎石であろう」
NTTによるクウエート国電気通信近代化の技術コンサルタントの仕事が、第1次オイル・ショックでアラブ諸国を緊急訪問された三木特使の一行から高い評価を受けたことは、本論で述べる。
『アラブと私』を書き進めているなか、もう1冊の本『エコノミック・ヒットマン』について触れておきたい。
邦訳本には、「途上国を食い物にするアメリカ」の副題があるが、原本では、「あるエコノミック・ヒットマンの告白(筆者訳)」となっている。
この思いがけない本は、『アラブと私』をブログに掲載し始めて間もないある日、長く職場を共にし、敬愛してきた人から送られて来た。
本の内容と送り主については、いずれ「本論」で詳しく記述するとして、ここには、ほんの概略を紹介するにとどめたい。
著者ジョン・パーキンスの「序文」冒頭の文章を、古草秀子さんの訳文で再録させていただく。
「エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。彼らは、世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐へとつぎこむ。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や選挙裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らは帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に到達している。
かって私は、そうしたEHMのひとりだった。
この文章は、1982年に著者が執筆中だった『エコノミック・ヒットマンの良心』
と題した本の冒頭に書かれたもので、本は、エクアドルの元大統領ハイメ・ロルドス
とパナマの指導者だったオマール・トリホスに捧げるつもりだったという。
コンサルティング会社のエコノミストだった著者は、顧客だった二人を尊敬して、
同じ精神をもつ人間と感じたが、2人は相次いで飛行機事故で1981年に死亡した。
彼らの死は事故ではなく暗殺で、世界帝国建設を目標とする大企業や、政府、金融
機関上層部と手を組むことを拒んだからだという。
著者たちエコノミック・ヒットマンが、2人の取り込みに失敗したために、つねに
背後に控える別種ヒットマンである、CIAご用達ジャッカルたちが介入したという。
(続く)