「文ちゃんの浦安残日録」 (Ⅰ―35)
NTT関東病院と私 2012年1月6日(金)
年の暮れ直前の病院でMR検査の結果を聞いた後、30日・31日は、12回連続参加の「IKSPIARI第九」のゲネプロ・本番だった。公募合唱団の160余人と市民オケとを合わせた約240人は過去最大。3階まで立ち見ギャラリーがあるセレブレーション
プラザで、東日本大震災の犠牲者と世界平和への祈りをこめて、「苦悩から歓喜へ」の歌を高らかに唱った。
明けて正月2日は、子供らの2家族がやって来て、恒例の“鴨すき”パーティだった。私たちと同じ見明川住宅地内のテラスハウスに住む健夫婦は徒歩1分、海辺に近い高層マンションの16階に住む晶子たちは車で数分だから、合わせて153歳の私たちには、うれしく、心強い存在である。
師走半ばころにピーコックへ予約しておいた合鴨をたらふく食べ、持ち込んでくれたビール・ワインをしこたま飲んで、例年と変わらない賑やかさだった。
両夫婦には、年末のMRの検査結果と5日に控えている「骨シンチ」について手短に話をし、かりに、骨に転移があっても、がんの自覚症状が現れるまでは、なんの治療も
受けず、いまの充実した日常を享受しつづけたいと告げた。お千代は相槌を打っていた。
5日、NTT関東病院の放射線科アイソトープ検査室の待合で、年配の方に出会った。
問わず語りに、一ヶ月前の生検で前立腺がんの診断を受け、骨シンチとCT検査を指示された81歳と分かる。顔色もよく、大きな声で闊達に話された。がん手術を望んだが、私と同じ担当医師から、高齢の方にはガンセンターでも手術することはないと言われて、女性ホルモンの薬冶療法を始めてもらったと云う。
薬冶療法を受けている知人・友人も少なくない。副作用によるQOLの低下やがんの抑制効果に年限があると聞いていたが、その方に話すのは控えた。死生観は様ざまで、積極的に治療を受けようとされている気持ちを乱してはいけないと思ったからだ。
骨シンチ検査は、MRの騒々しい音もなく、頭から足の先までを約30分で終わった。
翌日の診断告知にはお千代もついてきた。彼女にとっては、がんで食道の全摘出手術を受けて4ヶ月入院した私の病室へ毎日のように通った病院である。19年ぶりの再訪。
関東逓信病院の名称だったこの建物を設計した国方秀男は日比谷電電本社ビルと共に日本建築学会作品賞を受けた大先輩で、これら名建築を創出する建築局に憧れて、私は電電公社へ入社したのである。
19年前のクリスマス・イブに退院したその前日、思いがけず、国方氏が入院されたと知らされ、すぐ病室を見舞った。東京都建築設計事務所健康保険組合の理事長だった79歳の先輩は、毎年楽しみにしている奈良探訪に行けなくなる、と突然のがん告知に悲憤慷慨された。
「手術されてお元気になれば、また行けますよ」と申し上げてお別れしたが、がんは、手術できないほどに進行していて、ほどなく亡くなられた。私は来年79歳を迎える。
骨シンチの検査結果で全身の骨に異常はないと告げられ、お千代もホッとした。
担当医は、「検査で病気を見つけるのが使命ですから」と、MR画像で白く映った部位を狙う生検を勧めたが、2ヶ月後の血液検査のPSA数値で考えますと応え、辞した。
お千代は、帰路の地下鉄乗場のベンチで、検査結果への安堵を子供らにメールした。
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