アラブと私
イラク3千キロの旅(56)
松 本 文 郎
あえて、序文の長い採録をさせてもらった。
パーキンスが、自ら関与した恐るべき罪の告白に、こころを打たれたからである。
この本によって、四十余年前のイランやアラブで体験した事象の暗部が明るみに出されたように思ったからでもある。
モースルのアッシリア東方教会の牧師が私たちに話したように、一九五三年、イランのモサデック首相が石油国有化を実行したとき、米英が画策した皇帝派クーデターにCIAが関与して、失脚したモサデックは自宅軟禁中に死亡した。
一九四五年生れのパーキンスがまだ九歳のときの事件である。
私が電気通信研究所・建築基本計画の技術指導のオフィシャルパスポートで、テヘランに滞在した一九六九年の頃、イラン国皇帝はシャーハンシャーの尊称(「王のなかの王」)でよばれていた。
その七年前、シャーは土地改革を断行して一握りの地主たちが所有していた土地を農民に解放し、翌年には、「白色革命」と呼ばれた一連の社会経済改革を開始しており、独裁的統治だが、イラン国の近代化を推進する名君のイメージが感じられたものだ。
イランは電気通信の近代化にも力を入れていて、日本の電電公社に、研究所開設での協力を要請してきたのである。
カウンターパートのハクザール博士はアルメニア出身の優秀な電気通信専門家で、ドイツ留学の折に馴初めたドイツ人女性が奥さんだった。
夕食に招かれた夕べ、幼い愛娘が急に発熱したのに、予定どうり歓待されて恐縮したこともある。
宿の「パンシオン・スイス」は、老スイス人がオーナーで、大きくて黒い眼と長い黒髪が魅惑的なペルシャ美人がマダムだった。、
夕食では、もっぱらイランのビールを飲んだが、旨かったし、土地のワインもなかなかにいけた。
滞在中、招聘された郵電省の対応はすばらしく、とても親日的だった。
任務を終えたあと、連絡担当技術者ハキミアンが古都・イスファハンとペルセポリス遺跡があるシラーズへの国費旅行の案内を務めてくれた。
イスファハンのクラブに招待された夜、音楽師をテーブルに呼び、哀愁ただようジプシー風の曲をバイオリンで奏でさせた。なにかリクエストをといわれて「黒い瞳」を選んだ歓待もなつかしい。
カスピ海の黒キャビアで上等のワインをしこたま飲み、ご機嫌で近くのホテルに帰る道すがら、ハキミアンが朗々と暗誦したフェルドーシーの詩のペルシャ語の韻律の見事さに驚嘆した。
まだ若い電気通信技術者のペルシャ伝統文化の教養の高さに、イラン近代化の将来の頼もしさが見えるようだった。
シーア派イスラムの国イランで、当時の日本に勝るとも劣らない欧米風ライフスタイルを体験したが、君主シャーハンシャーの背後では、米政府とヨーロッパの協力者たちが、この国王の政権をイラク・リビアや中国・韓国など根強い反米感情をもつ国々に代わるものとして、世界に示そうとしていたようである。
EHMのジョン・パーキンスは、一九七五年から七八年にかけて、イランを頻繁に訪れたという。
彼の目に映ったイランには、サウジアラビアと同じように石油資源が豊富で、開発プロジェクトを推進するために借金に頼る必要はなかった。
ただし、人口の大部分はペルシャ人などの中東イスラム教徒で、歴史上、政治的紛争の絶えない国だったから、国の内部と周辺諸国との関係では、従来とはちがう対応をしたという。
かっては、、民主的に選ばれたモサデック政権の転覆にCIAを暗躍させたような乱暴なやりかたをしなかったということなのだろう。
パーキンスによると、強力で民主的なアメリカの企業や政界の友人たちがどれほどのことができるのかを世界に見せつけるために、精力的な活動を開始したとある。
彼のメイン社は、北のカスピ海に面した観光地から南のホルムズ海峡を見わたす秘密軍事施設にいたるまで、ほぼ国中の各地でのプロジェクトにかかわったと書いている。
一九七七年のある日、パーキンスがホテルに戻ると、ドアの下に一通の手紙が押し込まれていた。
署名の名は、政府当局者からは、有名な過激派と教えられていた人物のものだった。
好奇心が旺盛で、イランの国内状況を把握する任務をもつパーキンスは、危険な賭けになるかもしれない謎めいた人物と会うことにした。
手紙に指示された高級レストランで待っていたのは、仕立てのいいスーツを着た長身の男性で、アクセントからは英国できちんとした教育を受けたイラン人と思われたが、過激派の危険人物とは見えなかった。
そのレストランは、男女の秘密の逢いびきに使われるような場所で、色恋とは関係のない密会をしたのは、彼らだけだったようだと書いている。
その男性は、国王政府のお抱え経営コンサルタントに詳しくて、平和部隊でボランティア経験のあるパーキンスが、イラン各地の旅先で地元の人々との交流に努めていることに興味をもち、連絡したのだと告げた。
「同業の人たちに比べてずいぶん若いですね。あなたはこの国の歴史や、私たちが現在抱えている問題について興味をもっている。私たちにとっては、希望を感じさせる存在です」
と誠実な口調で話した。
男性がパーキンスに訊ねたのは、「砂漠に花を咲かせよう」プロジェクトのことだった。
概要を、『エコノミック・ヒットマン』の第18章から引用させていただく。(筆者抄録)
イランの砂漠地帯はかって肥沃な平野と緑の森だったと国王は信じ、主張している。その理屈は、アレキサンダー大王が支配した当時、連れてきた膨大な数の山羊や羊が、草木を食べつくしたので干ばつが起き、砂漠になったこと。
砂漠地帯に数多くの樹木を植えれば、雨がもどり、ふたたび砂漠に花が咲く。それには莫大な資金が必要だが、メイン社のような企業は莫大な利益を得るだろうと男性は語った。
パーキンスにはその計画に男性が否定的なのが、すぐ分かった。
「ミスター・パーキンス、米国のネイティヴ・アメリカンの文化を破壊したのは、いったい、なんだったのでしょうか!」
いろいろな要素があるが、強欲や威力に勝る武器などではないか、とパーキンスが云うと、「でもなにより、環境破壊が大きかったのではないでしょうか」
森林を切り開き、バッファローが絶滅に瀕し、原住民が居留地に移住させられ、文化の基盤が破壊されたプロセスに言及した男性は、「砂漠は私たちの生息環境です。砂漠に花を咲かせる計画は、私たちの生活環境を根底から揺るがすものです」
パーキンスが、この計画に関連するアイデアは全てイランの人々の発案と理解していると云うと、男性は皮肉っぽく笑って、アイデアを国王に植えつけたのは米国政府で、国王はその 操り人形にすぎないと反論した。
「本物のペルシャ人は、そんな計画は決して許しません」
遊牧民であるイラン民族と砂漠との強い絆について、とうとうと弁じた男性は、都市に住むイラン人たちが、休暇を砂漠のテントで過ごすことが多い事実を力説し、「私たちは、砂漠と一心同体なのです。国王が圧制によって支配しようとしているのは「砂漠の民」ではなく、私たちは砂漠そのものです」
夜が更けて、高い塀に囲まれた玄関まで見送ってくれた男性が、「イランの未来に希望を抱かせるあなたに紹介したい友人がいます。国王について衝撃的な話を聞けるので、絶対に無駄にはなりません」
数日後、二人を乗せた車は、テヘラン郊外へ出て、砂漠のはずれに到着し、ヤシの木々に囲まれた粗末な泥の小屋が数軒ある場所で停った。
「ここは、マルコ・ポーロより何世紀も昔からのオアシスです」と云って、一軒の小屋にパーキンスを案内した。
「ここにいる人は、米国の最高学府の博士号をもっています。事情は間もなく分かりますが、名前は云えないので、「ドク」と呼んでください」
男性が木製のドアをノックすると、くぐもった返事が聞えてきた。
(続く)