アラブと私

イラク3千キロの旅(58)

 

                             松 本 文 郎 

 

 二人が着いたローマで彼の両親に会い、食事を共にした。ファルハドの父親は、かってイランの将軍として、身を挺して国王を暗殺者の銃弾から守った経験もあるのに、国王への幻滅を語った。

 ここ数年の国王は驕慢で強欲な正体を露にしたという。中東にあふれる憎悪は、イスラエルを支持し、腐敗した支配層や独裁政権の後ろ盾となっているアメリカの外交方針にあると非難した。

そして、数ヶ月以内に国王は失脚すると予言した。

「知ってのとおり、そもそものはじまりは、1950年代のはじめ、君たちがモサデクを失脚させたことにある。それが賢いやり方だと、当時の君たちは考え、私たちも同じだった。だが、今ではそれが君たちを苦しめている。私たちをもだよ」

 パーキンスがドクたちから聞いていた同じ話がファルハドの父親の口から出たので、驚いた。

「私の言葉をしっかり覚えておきなさい。国王の失脚は手始めにすぎない。それは、イスラム世界がどこへ向うかを予告するものだからね。私たちの怒りは砂漠の砂の下であまりにも長くくすぶりつづけてきたが、間もなく地上に噴出するのだよ」 

 アヤトラ・ルーホッラー・ホメイニの話も出た。

彼は、ホメイニが率いる狂信的なシーア派を支持しないと明言しながらも、国王を厳しく批判している点については共感しているようだった。

 1902年、テヘラン近郊で生まれたホメイニは、モサデク対国王の争いに巻きこまれるのを極力避けたが、1960年代になって、国王に敵対し批判したために、トルコへ国外追放され、その後、シーア派の聖地ナジャブ(連載・8回に記述)に移り、反体制派の指導者として知られるようになった。

 イラン国民に向けた手紙、記事、録音テープのメッセージを発信し、国王打倒の蜂起をうながし、宗教国家の樹立を呼びかけた。

 

 ファルハド父子らとの食事の二日後、イランで暴動が広がっているというニュースが入った。

 ホメイニらの宗教指導者たちの王政打倒運動によって国王は支配力を失い、国民の怒りは激しい暴動となって爆発したのである。、

 1979年1月、国王はエジプトへ亡命。その地でがんと診断されて、ニューヨークの病院へ向ったが、ホメイニ支持者らは、国王をイランへ戻せと要求した。

 同11月、イスラム教徒の武装集団がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人を人質に、444日間も立て籠もった。

 当時のアメリカ大統領カーターは、人質解放の交渉に失敗し、翌年四月、特殊部隊のヘリによる救出作戦を決行したが作戦はあえなく失敗し、カーター政権の息の根を止める結果となった。

 アメリカの病院で闘病していた国王に米国政財界が強い圧力をかけ、かっての友好国が国王入国を拒絶するなか、唯一受け入れを表明したパナマのトリホス将軍が安息の場を提供した。

 イランの宗教指導者たちは、アメリカ大使館の人質と交換に国王の身柄を求めた。新パナマ運河条約に反対する米政府の人々(皮肉にも、彼らの多くはほんの数週間前まで国王の忠実な支持者だった)はトリホス将軍が腐敗した国王と癒着し、米国市民の生命を危険にさらしていると糾弾して、国王をホメイニに引き渡すべきだと主張した。

 かっての誇り高き「王のなかの王」はエジプトに戻り、がんで死ぬ結末を迎えたのである。

 砂漠のはずれの泥の小屋に逼塞していたドクの予言は現実となった。

 メイン社ほか多くの会社は、イランで大損害をこうむり、パーキンスは、イランで多くの教訓を得たという。

 それは、世界各地で活動を展開する、企業・銀行・政府の集合体であるコーポレート・クラシーの本当(裏側の?)の役割への関与を、アメリカという国家がやっきになって否定(隠蔽?筆者注)していると言っているのだ。

 パーキンスをEHMに仕立てたクローディンによる「コーポレート・クラシーの役割」の定義は、「世界各国の指導者たちをアメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと」としていたが、それは表の一面であって、裏面は、国家謀略的なものだったのだろうか。

 コーポレート・クラシーとアメリカ政府(政権が変われば政策も変わる)との関係は、組織的に堅固な結びつきではなく、NSA(国家安全保障局)やCIAとの連携・情報交換にも時々で粗密があったようだ。

 パーキンスは、CIAが、「白色革命」で担ぎ上げたシャーハンシャー国王が宗教指導者らによって国外へ追い出されると知っていながら、情報をメイン社に伝えなかったので、彼らとの関係のあやうさを思い知ったようだ。

 あるいは、ファルハド父子はイラン人CIAで、パーキンスだけに情報を伝えたのではないかと、(筆者は、)勘ぐってみたくもなる。

 米国保守派の圧力で国外退去を余儀なくされた国王をパナマに受け入れたトリホス総軍とパーキンスは、理解し、信頼しあう親しい間柄にあったようだ。

 1977年、メイン社の百年の歴史で最年少のパートナーになっていたパーキンスは、パナマのインフラ整備(農業部門を含む)の革新的総合基本計画を策定するための調査・経済予測を担当していた。

 社内では、社会主義的な印象があると不満な声もあったが、貧しい人々を勘定にいれた推奨案を期待したオマール・トリホスとの密約を尊重して作成したという。

 当時、トリホスは、新パナマ運河条約の交渉をカーター大統領と始めようとしていたが、米国を除く国際世論は、植民地主義の時代に結ばれたパナマ運河条約を改め、運河の支配権をパナマ人に委ねること求めていた。

 またとない時期に、道理をわきまえ思いやりのある人物が米国大統領に就いたと感じた人たちが多かったはずだ、とも書いている。 

 だが、米政府の保守派の砦とされる人々や宗教系右派の人々は、国家防衛のカナメで、南米の富をアメリカの商業的利益に結び付けている運河を手放すような、カーターの動きに憤りを露にしたという。

 パーキンスは、2年前、トリホスがパナマ人有力者たちを由緒ある社交クラブに招いたときの数少ない外国人招待客の一人として聞いた話に共感して、『1975年、パナマには植民地主義の居場所はない』と題した文をボストングローブ紙に送り、社説欄掲載されていた。その記事は、「パナマ運河を長期的に効率よく運営するには、パナマ人自身が責任を持って運河を管理するのを手助けするのが最良の策である。そうすることで、2百年前に誓った独立独歩の精神への肩入れを、私たち自らの決断で、再確認することにつながる行動に着手したと自慢することができる。アメリカ独立から2百年が経った今、『1975年、パナマには植民地主義の居場所はない』ことを理解し、行動する」

 メイン社のパートナーになったばかりの彼が、ニューイングランド一の高級紙の社説欄に、政治を非難する意見を公表したことに、批判がましいメモが社内郵便でたくさん送りつけられたという。

 パーキンスは、クローディンから教えこまれたコーポレート・クラシーのルール「途上国指導者を対外援助ゲームの負債の罠に絡めて借金まみれにする」に反し、トリホスの国家指導者としての誠実さを受け入れ、結果的には、トリホス政権から多くの契約を受注し、純粋に経済的な見地からもメイン社のビジネスに貢献したのである。

 有名な作家グレアム・グリーンが書いた、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の『五つの国境を持つ国』と題された署名記事には、アメリカの情報機関が、カーター大統領の意思を削ごうとしていること、必要あれば、パナマ軍上層部を賄賂で抱きこんで条約交渉を妨害しようとしているとあり、トリホスの周囲をジャッカルたちが徘徊しはじめたのかと思った、とパーキンスは書いている。

 パナマへの融資が、返済不能な負債ではなく、国民の役に立ったなら、コーポレート・クラシーはどう反応するだろうかと、パーキンスは考えた。

 コーポレート・クラシーがめざす世界帝国拡大を推進するために、国家統治有力者を腐敗させるよう仕組まれたシステムでは、腐敗を拒む者らには酷い仕打ちをするので、ラテンアメリカの歴史は、英雄の死体に満ちている。

 トリホスとカーター大統領は運河地帯の支配権を委譲し運河自体をパナマの管理下に置くことを定めた新条約の締結に成功し、ホワイトハウスは議会に条約の批准迫ったが、長期にわたる熾烈な応酬のあと、わずか一票の差で批准は実現した。

 何年も後に出版されたグレアム・グリーン著の『トリホス将軍の死』は、「わが友人である、ニカラグア、エルサドバドル、そしてパナマのオマール・トリホスに」捧げられていた。                              
                                   
(続く)

添付画像

-反米の壁画 (テヘラン)-フリー百科事典ウィキペディア日本語版より




2012/03/21 13:36 2012/03/21 13:36
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