アラブと私 
イラク3千キロの旅(10)
 
              松 本 文 郎

 壮大な死者の墓ピラミッドをつくった古代王国の輝かしい歴史をもつエジプト。その末裔でカイロ大学を出た建築家の夫人はフランス人である。
 フランスといえば、近代国家の創始者ナポレオンはエジプトにまで遠征して、ピラミッドの戦いではマルクーク軍を破り、アレキサンドリアに建てられていたオベリスクを略奪してパリへ移設した。
 だが、栄枯盛衰の理のとおり、アブギール湾海でネルソン提督率いるイギリス海軍に敗北を喫した。ボーラス氏と夫人の出会いの経緯は知らないが、ナポレオンを恨む気持ちより恋心が勝っていたのだろうか。(余計な詮索というものか……)
 誇り高きアラブの建築家は、母国の近代化に役立つ電気通信建築のノウハウを私たちコンサルタントから学べたことを認める率直さをもっていた。

 イラク三千キロの旅から四ヵ月後、工事が長引く状況で、妻と子供たちを日本から呼び寄せた私は、偶然にも同じ年齢でアメリカンスクールに通う男女二人の子供がいる、ボーラス一家と親しく付きあうことになる。
 欧米のライフスタイルをめざすアラブの富裕層や知識階級の家庭は、ホームパーティで招きあう家族ぐるみの交際で日本よりずっと進んでいた。
 家族の娯楽としては、映画館、ホテルのパーティ、砂漠のバーベキュー、アラビア湾の魚釣りと海水浴などあったが、アメリカンスクールのクラスメイトのさまざまな国の家族と、互いの暮らしや文化への理解を深めあえるホームパーティはたいへん楽しく、大いに活用したものである。

 それらのことは、「イラク三千キロの旅」のあと、三年間のクウェート滞在記で書くこととしよう。
 ここでは、ボーラスに尋ねられたことへの答えだけ記しておくと、「死後の世界はないと思われます」「日本人は無宗教と見られているようですが、敬虔に神仏に祈る日本人のこころは、キリスト教やイスラム教のような世界宗教の信者のそれと変りはないでしょう」である。
 神はいるのか、いないのか。『ツアラツストラはかく語りき』でのニーチェは、ゾロアスター教の教祖に託して、「神の死」「超人」「権力意思」「永劫回帰」など、彼の哲学的根本思想 を聖典的な文体で述べて、宗教権力者たちに衝撃を与えた。それは西洋近代の歴史的な事件だった。
 敗戦で「神も仏もあるものか」と感じた日本人の虚脱状況の中で読まれたからか、誤訳が多いとされたサルトルの『存在と無』とともに、若い学生たちの情緒的ニヒリズムのバイブルとなった。
「神は死んだ」と書いて、キリスト教との根本的な対立を宣言した彼は、無神論者というよりも、人類社会の歴史的過程で人間が創出してきた神に対置して、超越的存在とでも言うべき絶対の<神>の概念を提示したのであろう。
 ニーチェの虚無思想や仏教の根本思想とされる「空」「無」などを論じあった学究四人の座談記録『実存と虚無と頽廃』(アテネ文庫)を昭和二十八年の大学生協の本屋で求めて(三十円)読んでいた。
 イスラムの世界に生まれたボーラスもユーセフと同じクリスチャンだったが、大学で西洋近代を学んだインテリだからかどうか、聞きはしなかった。
「エデンの園」や「ノアの洪水」の旧約聖書の神話史跡をもち、キリスト教の発祥地に近い地域の人々の大部分がイスラム教徒になったのは、その教えの方が暮らしと風土に合っていたからではなかろうか。
 ボーラスの問いへの返事と宗教観を思い出して私が話すのを聞いていたユーセフは、「私の家系はクリスチャンですが、人格神は信仰の対象として信者のこころに存在しているのだと思います。キリストが己の内に宿した<神>の啓示から、聖書に書かれている言葉を遺し、二千年も受け継がれてきたのです。キリストが<神>でなくても、聖書の言葉の尊さは変わらないでしょう」

 クリスチャンのユーセフが言うことに驚いたが、いかにも技術者らしい<神>の捉え方に共感した。私の宗教観とまったく同じではないか。
 ユーセフはつづけて言った。
「イスラム教の始祖ムハンマドは、己を神ではなく、<神>の言葉を伝える預言者であると自覚していましたから、人格神的な偶像崇拝をきびしく禁止しました。宗教としては、キリスト教より進化しているといえるかもしれませんね」
 そういえば、ボーラスも同じようなことを言っていた。
「チーフ。もうすぐカルバラですよ。クウェートへ戻るとき、ぜひ寄ってみましょう。」

 ここで、イランからの遺体搬送と最初に遭遇したときにユーセフが話してくれた、シーア派とスンニ派の歴史とカルバラの聖廟の由来のあらましを記しておこう。ただ、細部の記憶はすこぶる曖昧なので、桜井啓子さんの『シーア派』(中公新書)を足がかりにさせてもらうとにしよう。
 
 シーア派は、ムハンマドの後継者をめぐる争いをきっかけに生まれた。 後継者(カリフ)をだれにするかで、信者が二派に分裂したのである。
 初代のカリフに合議で選ばれたアブー・バクルが就任してイスラム共同体を統治し、その流れを汲む人たちが、スンニ派と呼ばれ、主流派となった。
 ところが、カリフはムハンマドと血縁にある従弟のアリーでなければならぬとする人たちが現れて、アブー・バクルの後継に就任した二人のカリフをも拒みつづけ、「アリーの党派」と呼ばれた。
 アラビア語では党派を「シーア」ということから、アリーが省略されて「シーア派」となったそうだ。
 預言者ムハンマドは、六一〇年、メッカで啓示を受けてから民衆を導いてきた。

 コーランには、神、預言者、天地創造、天国と地獄など、信仰にかかわる事柄や信徒の宗教的義務についての啓示だけでなく、刑罰、戦利品分配、商売上の契約、結婚・離婚、相続などについての啓示が含まれている。
 ムハンマドはこれら神からの啓示を拠りどころに、イスラム共同体を統治し、メディナにおける宗教的指導者であると同時に、政治的・軍事的指導者でもあったのである。
 それだけに、ムハンマドの死が信徒に与えた衝撃は計り知れないもので、その危機を乗り越えるための後継者選出には、共同体の存続がかかっていた。
 後継者の選出をめぐって信徒が対立した背景には、ムハンマドの生い立ちがかかわっていた。
 名門の生まれだが、父は誕生前に死に、母も幼いときになくした、兄弟姉妹もいない孤児だった。
 結婚したムハンマドは幾人かの子供をえたものの、男系子孫を残せず、育て親の伯父アブー・ターリブの息子アリーだけが彼を慕っていた。
 預言者より三十歳ほど若いアリーは、ムハンマドの妻のハディージャに次ぐ二番目の改宗者であり、ムハンマドと行動を共にした最も忠実なイスラム教徒とされる。
 アリーは、ムハンマドの末娘(唯一人だけ父より長生きした)を妻に迎えて、ハサンとフサイン二人の息子を授かった。ムハンマドの女系子孫である。
              
                         (続く)




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2008/12/12 14:01 2008/12/12 14:01
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