悲喜こもごも
松 本 文 郎
「エ、ウソだろう!」
一瞬、アタマの中が真っ白になった。JR京葉線の快速電車内のことである。
ディズニーリゾートの舞浜駅を7時少し前に乗った東京行き快速が八丁堀駅に着き、ドアが開いた直後だ。
前の停車駅新木場で妻と並んで座った席から、ふと眼をやると、ドアの脇に置いていたトランクとショルダーバッグがなくなっている。「まさか!」
とっさに妻お千代をせきたててドアに駆け寄る。さっきまで見えていた荷物が跡形もなく消えていた。
電車を降りてエスカレータに向かう乗客を目で追い、鳴り始めた発車のベルを耳にしながら、「降りよう」と決めた。
ホームを見張っているように妻に言い、エスカレターを駆け上がって改札階へと急いだ。途中の階段には、私たちのトランクを引いた者はいなかった。
改札の駅員に、「置き引きです!」と叫んで、素早くホームへ戻ると、呆然とホームに立っていた妻は、顔を弱々しくふった。
そこへ次の快速が入ってきた。
「東京駅へ急ごう。新宿発の特急あずさに乗りおくれるぞ」
「行くのをやめて、家に帰えりましょう」
「いや、とにかくこの電車に乗りなさい」
渋々乗った電車と新宿に向かう中央線の中でも、妻は、うつむいたまま口をきかなかった。
荷物を置き引きされたのは、生まれて初めての体験だった。
このびっくり仰天は、山梨の白州町に移住された職場の先輩W氏夫妻を訪ねる旅の初っ端の出来事だった。
長いお付合いのW氏夫妻からの年賀状が6年前に途絶えていたが、久しぶりに戴き、すぐ電話すると、W氏が自宅の階段での転落事故をきっかけに体調を崩されたと知る。
夫人のお話では、老人2人で宮前平に住むよりも、2人の娘家族がそれぞれ永住した自然環境のよい白州に来るよう勧められて移住した。4ヵ月後、右慢性硬膜下血腫が見つかり手術を受けたが、その後の回復がおもわしくないとの由。
電話のお話ぶりに、私たちの訪問を期待されているのが感じとれた。
お千代(外国の若者に20年余り日本語を教えている)の夏休みを利用した訪問を待たれている夫人を想うと、すっかりしょ気返っている妻をうながして、白州町へ向かわねばと思った。
新宿駅のホームの特急あずさの指定席に妻を座らせてすぐ、デッキから娘の家にケイタイを掛ける。
予期しない出来事に驚く娘に、盗られたショルダーに、住所や銀行カードのナンバーを書いた手帳、家の予備の鍵などが入っているから、玄関ドアの鍵を早く取り替える手配と、八丁堀駅と東京駅の盗難窓口、所轄警察への届出の電話を頼んだ。
あの瞬間は真っ白になったアタマも、冷静に働いた。
戻った席で、まだ沈うつな顔をしている妻に、予備鍵を使った家屋侵入の被害は避けられるだろうと告げた。
やっと口をきく気になったのか、ハンドバッグ一つで民宿に泊まるのはムリだから、Wさん夫妻に会ったら、予定した2泊をキャンセルして引き返そうと言う。
トランクには、化粧・洗面道具一式、W夫人とご一緒のレストランの夕食に着るドレス・装身具、パジャマ、着替えなどを入れていた。
ショルダーには、手帳と予備の鍵のほかは、カメラ、MD録音・再生機、旅行日程、レンタカーと民宿の予約書類、W夫人から届いた小淵沢・白州・安曇野の観光パンフレットがあるだけで、金目のものはない。
きっと、置き引き犯人たちはガッカリしたにちがいない。
買ったばかりの少し高いブラウスと、高価ではないがふたり旅の思い出の装身具が無くなったと悔やむお千代。
旅の道連れのスケッチ道具一式を入れたキャリーは、妻が手を離さなかったので助かった。筆入れに、90歳で急逝された老師が愛用されて、生前に戴いた数本も入っていた。
認知症が進んでいるというW氏でも感性で聴いてもらえるだろうと持参した、わが合唱団の韓国・台湾への海外公演のCDも助かった。
退職後の趣味活動の大事な道具・記録が残ったのはうれしい。
W夫妻は、私たちの家族連れ海外勤務の先輩であり、夫人とお千代は、40余年来の知己である。
久しぶりの再会を夫人がとても楽しみにされていると電話や手紙のやりとりで分かっていた妻は、やっと落ち着きを取り戻したのか、1泊だけならと呟いた。
私はすぐデッキに出て、再び娘にケイタイを掛けたが、トンネルが多い区間で、なかなか電波が通じない。
やっと掴まえた娘に、2日目の宿泊予約のキャンセルを頼む
にも、資料はショルダーの中で、覚えていたのは安曇野の公営施設とだけ。インターネットで見つけた宿だから、キーワードで探すように言った。.
娘からは、鍵の取替えを夏休みで家(私たちの住いから徒歩1分)にいた健の手配で昼過ぎに終わるから、夫人とディナーを楽しむようにママに伝えてと励ましの言葉。
まだ、事件のことでケイタイを掛けていない妻のガッカリした心境を察しているようだ。
娘・息子が近くに住むお蔭で、青天の霹靂の「危機」対策は、テキパキと運ばれている。
10時直前、小淵沢駅に到着。すぐ、予約のレンタカーを借りて、駅前商店街でパジャマと歯磨きセットを買う。洋品店の向かいの文具・書籍の店に、トランクに入れていたのと同じ6号のスケッチブックが、1冊だけあった。
絵の道具一式が残り、このスケッチブックが入手できたのとで、予定の日程を変えず、清春芸術村へ直行することにした。私にとって、スケッチは旅の楽しみの一つなのだ。
夫妻の家には、W氏がデイケア施設から帰ってこられる3時ごろに伺うのが元々の日程だった。
清春芸術村には共同利用のアトリエの他、清春白樺美術館、ルオー礼拝堂、梅原龍三郎記念室やレストランがある。カーナビなしでは迷うにちがいない山道を走りぬけた先に、六角形のユニークなアトリエ・ラ・リューシュの建物が見えた。
まず昼食をとり、美術館などを見て回ることにする。
芸術村の画家のパレットを壁に飾るレストラン・ラ・パレットの特製カレーはとても美味しく、チーズケーキとコーヒーもちゃんとしたものだった。
お千代はやっと気を取り戻したようで、気温36度の猛暑の中、冷房のよく効いた室内からの芸術村の眺めもわるくない。
清春白樺美術館には、理想的な美術館創設を夢見た武者小路実篤の精神に基づき、白樺の同人が重視したセザンヌ、ゴッホ、ロダンほか幅広いコレクションがある。企画展『習作による東山魁夷展』と『ルオー』を観て、ルオー礼拝堂から梅原龍三郎アトリエへ行く。テラスから、描きかけのキャンバスが画架にあるのが見えた。
移築された記念室周辺の眩い夏木立に絵心を誘われ、テラスに道具を広げて夢中に描いて三十分ほどで仕上げ、汗でびしょ濡れのシャツのまま、パーキングへ急いだ。
「道の駅白州」まではカーナビ案内で簡単だったが、高原の奥まった辺りのW氏宅へは、ケイタイで夫人に案内されながら、やっとたどり着いた。
W氏は、ケアハウスから戻ってこられていた。
居間のソファに座ってニコニコされている顔は、10数年前にお目にかかった頃と変わらない。
大正13年早生れの、私の数代前の建築局設計課長で、クウエート・コンサルタント業務の建築班チーフを志願されたほどに、好奇心旺盛で行動的な人だった。
特殊建築工事事務所長で建築工事会社へ引き抜かれ、さらに、日本有数の建築設備工事会社の社長に招聘されたが、創設者の後継者が新規事業で失敗したこともあって、たいへんなご苦労の上、子会社へ転出された。
こうした業界には向いていない人だと思っていたが、氏の積極性を誤解された向きもあったのだろう。
「今は、不思議な世界に住んでいる人ですから、そのおつもりで」と夫人から聞いていたが、「やあ、お久しぶりですね!」と大声で言いながら、握手を求めた。
満面に無邪気な笑顔がはじけて、握った手のひらは力強かった。きっと、分かっていられると感じた。妻が声を掛けると、うれしそうにうなずかれた。
お訪ねしてよかった。妻も、同じ想いだっただろう。
夫人のお気遣いで、汗まみれの私たちは、ご主人のシャツと夫人のブラウスを借りて、着替えた。
山に向って緩やかに上る農道を行き、木立を背にしたロッジ風の家に着いたが、山登り・ヨットなどのアウトドア・ライフが好きだったW氏には、格好の終の棲家に見えた。
次女が卵を納入しているケーキ屋さんのクッキーを戴いていると、W氏がその一つを手にして、リビングの前のデッキに出ていかれた。ネコか小鳥にやろうとしているのよ、と夫人が微笑みながら仰る。W氏は、少年に戻られていたのだ。
夫人お勧めの民宿のすばらしいディナーに使われた卵は、ご夫妻の次女夫妻が納めており、宿の主は褒め称えていた。野菜類のほとんどは、宿の主の娘さんが生産しているという。
白洲町一帯には、有機高原野菜や鶏・豚・乳牛等の畜産農家が多く、それらの食材の料理を供する民宿・レストラン・ベーカリーが点在しているそうだ。
翌日の昼食までご一緒したW夫人との歓談、3点のスケッチをものにした白州の自然・人々・風物との出会いを書く誌面の余地は、割当て字数オーバーの拙稿には、もうない。
鍵を替え、なにごとも起きなかった自宅に戻った翌日、東京駅長の名で、「遺失物拾得通知」なるものが届いた。
犯人が狙った物が入っていなかったからか、東京駅の片隅に捨て去られた私たちの荷物が見つかったのだ。
駆けつけて受け取ったトランクとショルダーには、住所を書いた手帳と鍵のほか、すべての物がそのまま手付かずだった。
(日比谷同友会会報2010年新年号に掲載)