続・悲喜こもごも

 (承・「悲喜こもごも」会報2010・新年号)

 

松 本 文 郎

 

 ピアニスト東 誠三のサロンコンサートから戻り、玄関ドアを開けると、奥のリビングで電話が鳴っている。妻のお千代も出かけていたので、靴を脱ぎ散らして廊下を駆けた。

 お千代からの連絡かと、「ハイ、ハイ」とぞんざいに応えると、「白州町の渡辺協子ですが」と疲れたような低い声が聞えた。これまで耳にしていたよく響くアルトとは違うトーンに、一瞬、不安な気持ちがよぎる。

「実は、元がなくなりました」「……」「3時間ほど前でした」

渡辺さんとは、会報の「随想欄」に書いた『悲喜こもごも』のW氏のことである。

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2010年元旦、数年途絶えていた年賀状が突然、協子さんから届き、すぐ掛けた電話で、宮前平にお住まいだった御夫妻が山梨の白州町へ移住されたと知る。自宅の階段で転倒された元さんが体調をこわされたので、2人の娘さん夫婦が住む自然環境のよい高原の地に誘われ、転居されていたと言われる。

 私たちの訪問を期待されているのが感じられたので、その夏、外国の若者に日本語を教えるお千代の夏休みに、白州を訪ねたとき、ディズニー・リゾートの舞浜駅で乗った京葉線の車中で、思いがけない事件が起きた。(事の次第は、前記拙文ご参照!)

 

 協子さんによると、元さんは風邪をこじらせた肺炎で入院していたが、小康をえて帰宅して間もなく様態が急変し、苦しむことなく亡くなったという。臨終に立ち会った医師から、「もう意識がないから分からないでしょう」と言われても、協子さんが顔を近づけると、眼球が左右に動いて、分かったようだったと、自宅での看取りを満足そうに告げられた。

白州に移住されて4ヵ月後に見つかった慢性硬膜下血腫を手術されたが、階段からの転落時の脳検査で見つからなかった脳内出血が徐々に生じていたようだ。

1年半前に、「少年のころに戻り、別の世界に住んでいますから驚かないでね」と協子さんから言われたが、脳髄液の圧力上昇による脳障害で、認知能力の低下が始まったのか。

いずれにしても、大正生まれのアウトドアライフ派の草分け元さんが、近くに住む2人の娘さん家族と協子さんと一緒に、自然環境のよい土地で終焉を迎えられたのはよかったと思う。

電話の終わりに、遠いですがと遠慮がちに言われた協子さんの言葉に、高原の教会の葬儀に来てほしい想いが受けとれた。

 参列のことは、妻と相談してご返事しますと云い、関係者への通知をどうされるかを伺うと、NTT関係はまだだと仰る。

 NTTから民間会社に出られてから40年経つので、一般の組織連絡網の周知でよいでしょうと、手配の手伝いを申し出た。

インターネットメールの便利さは実にすばらしく、電電建築協会の東京支部とNTT日比谷同友会との事務局に訃報掲載をお願いし、渡辺さんの米寿の大往生は、8百人と3千3百余人の両会員に、瞬時に伝えられた。

前夜祭の日には、年末年始に受けた前立腺がんの各種検査の診断告知があったので、翌朝、葬儀に参列するため、1年半前の訪問を直撃した「車内置き引き事件」を思いださせる京葉線快速と中央線・特急あずさ号を乗継ぎ、富士見駅に降り立った。

駅に近い富士見高原教会の祭壇の前の協子さんは、疲れも見せずに凛と立たれていた。久しぶりの夫人と手を取り合った私たちは、天国へ旅立たれた元さん追悼の言葉を申し上げた。

協子さんは、「お願いした『お別れの言葉』をよろしくね」と言われた。葬儀列席のご返事をしたとき、「元は、家で仕事のことを話さなかったので、家族らの知らない職場のエピソードでも話してください」と頼まれていたのだ。

 高原の教会は、堀辰雄の小説のように小さな木造建築だった。

式次第は、厳かなオルガン前奏に始まり、故人愛唱の讃美歌『千歳の岩よ』ほかを唄いながら、聖書、祈祷、式辞へと進み、「お別れの言葉」となった。式次第に3人の名があり、私の他、宮前平で通われた田園江田教会と富士見高原教会の女性の方々だった。

 元さんの略歴や晩年の様子などは司式牧師の式辞で述べられたので、私は協子さんの求めに沿った話をさせてもらった。

話すうち、NTTクウエートコンサルタント現地事務所の建築班のチーフを元さんから引き継いぐ前後の職場でのさまざまが、鮮明に蘇ってきた。

 圧倒的な石油供給量をアラビア湾沿岸に依存しながらその地のことを皆目知らない日本人として現地に乗り込もうとする、好奇心の強さだけは10歳年上の先輩と共有していたのである。

 民間会社の役員・社長を務められた元さんは、本来の自由人的な生き方との狭間でご苦労が少なくなかったが、引退後は、ヨット・登山のアウトドアライフを堪能されたようだ。

 私も、転出したNTT建築総合研究所の副社長時代に患ったウツとガンを、先輩・後輩の理解と支援のお陰で克服して、元気に今日を迎えることができた。

 葬儀前日の検査結果の告知で前立腺がんの治療を始めるよう勧められたが、お千代と相談して、いま享受している生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)を低下させる可能性のある療法は受けないと決めたばかりだったので、「お別れの言葉」のしめくくりに、大往生で天国へ旅立った元さんを称え、私の決意を申し添えた。

 火葬場の骨上げに同行して、驚くほど頑丈な骨に驚かされた。「あずさ号」の車窓に見たアルプスや八ケ岳の山容を眺められる土地で晩年を過ごした元さんは幸せだった。

 マイクロバスで送ってもらった駅の売店で、地元産のつまみと地酒を仕入れ、暮れなずむ山並みを眺めながら、お千代と呑み、語りながらの帰路だった。

 どちらが先に逝くかは天命だが、一つ違いのお千代と私には男女の平均寿命の差があり、前立腺がんとも向き合っているのだ。ほろ酔い加減の話が、死亡通知と葬式のことに及ぶ。

 私の場合、死亡通知は49日後にしかるべき組織の連絡先に出すこと、葬式は不要で、親族だけで骨を上げてもらうことなどを、お千代と子供たちに言い渡してある。

 植物人間化と徒な延命措置のお断りも、遺書ノートとやらに書いておくつもりだ。近頃は、誕生日毎に、遺書を書き直したり、書き足す人も増えていると聞く。

 座席に並んで、搾りたての地酒を酌み交わしながら、日ごろ話していることの再確認をする私に、「文さんは、先に逝くゆくというけど、唄ったり、描いたり、書いたりしている元気一杯な日々を見てると、前立腺がんだとしても、対抗するがんキラーT細胞が増殖する自己免疫力で、90過ぎまで生きそうだわ。あなたと付き合ってきた60年間、病気知らずだった私が突然ポックリ逝くかもしれないけれど、女の平均寿命まではお付き合いできるかもネ」とお千代は宣う。

 どちらが先かはともかく、ウツトガンで死に直面した私が、この歳まで生きてこれたのは、クウエート国電気通信施設近代化の技術協力に、家族ぐるみの在勤で労苦を共にしたお千代のお陰である。

 死亡通知や葬儀のやり方は、故人と家族夫ぞれの考えでよい。

一度きりの人生である。生き方も死に方も好きずきでよろしいのではないか。がん治療についても、患者自身と家族の考え方しだいだと思う。

  

 帰宅した翌日、協子さんから葬儀参列への謝辞の電話があり、NTT持株会社の総務部門から故人への叙勲手続きをするか否かの問い合わせを受けたこと、元さんが受勲に価する仕事をしたかどうかも分からないがと、私の意見を訊かれた。

 たちどころに、「家では仕事の話をされなかったそうですが、受勲に十分な仕事はされましたから、ぜひお受けになってください」と申しあげた。

 勲章をめぐっても人様々な考えがあり、不用意なことを言うべきではないが、勲章の位階設定・受勲者選択に、改善の余地はあるように思えてならない。人間の価値に等級をつけることに統治権力者の意思を感じるのは、勲章制度の由来からか。

 1年ほど前の同友会の会報に掲載された拙文のタイトルを『悲喜こもごも』としたのは、映画『悲しみも喜びも幾年月』がヒントだが、映画ほどの深い想いをこめてではない。

 40年前、クウエートでの仕事の縁で始まった家族ぐるみのお付合いは、元さんと私より、協子さん、娘さんたちとお千代の間でより長いが、互いの家族をよく知っていたわけでもなく、こめたのは、別の「悲喜こもごも」への想いだった。

夫妻との久しぶりの再会に喜び勇んで出掛ける矢先の電車内の置き引きで、2泊3日の身の回りを入れたトランク、家の予備鍵と各種カード番号・住所が入ったショルダーバッグを奪われ、お千代の中止懇願を押し切って訪問した白州町から帰宅した翌日、東京駅長名で、駅に放置されていた手付かずの盗品の保管通知のハガキが届いたという、なんとも腹立たしい事件の信じられないような顛末に付けた、タイトルだったのである。

 でも、穏やかな顔で棺に横たわられている渡辺さんに別れを告げたとき、人生は「悲喜こもごも」との想いがこみあげた。

 愛妻を亡くされて、『そうか、もう君はいないのか』を書いた城山三郎さんの言葉に、どんな人生にも悲しみと喜びは等量にある、とあった記憶がある。

 光と影のように、喜びと悲しみは表裏一体なのであろう。

 悲しみも喜びも長くはつづかない、が「摂理」ではないか。

これからの人生で享けるこもごもの「悲・喜」にしっかりと向き合い、かけがえのない人生を生ききりたいと願うばかりである。

 先日、映画『オールウエーズ三丁目の夕日』(昭和39年)を一緒に観たお千代も、しみじみ、それを感じたという。

 歳を合わせて155歳になる私たちに、どんな「悲喜こもごも」が待っているのか、私の人生の実りの秋は、たけなわである。

                                  (了)

付記。

年末年始にかけての一連の前立腺がん検査の顛末は、「松本文郎のブログ」(T新聞社編集・管理)の『文ちゃんの浦安残日録』の(34)(35)(36)に掲載されています。

家族共々に過ごしたアラブ・イスラムの体験と、9.11に端を発する米国主導のアフガン・イラク侵攻がもたらした悲惨な現状を織り交ぜながら書いている長期連載『アラブと私』は、(58)となりました。ご関心をお持ちの方にご高覧いただければ、幸せに存じます。    

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                (日比谷同友会会報2012年4月号掲載予定)
2012/04/02 17:55 2012/04/02 17:55
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