アラブと私

イラク3千キロの旅(59)

 

                                松 本 文 郎 

 

 1977年、ホワイトハウスのカーター大統領とトリホス将軍の間でパナマ運河条約の真剣な交渉が行われていた頃、パーキンスが、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の『五つの国境を持つ国』を読んだパナマ・ホテルで、グレアム・グリーンに会ったのは、偶然とはいえない出来事だった。

読み終えたばかりの「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」をロビーの卓に置いたばかりの彼の目の前を、ゆっくり通り過ぎたのがグレアム・グリーンだったと気づいたからである。 

思わず走りよって呼び止めたい気持ちに駆られたパーキンスは、雑誌を手にしてあとを追った。

喫茶店で朝食をとっていたグレアム・グリーンに彼の小説の愛読者だといいながら、メイン社での仕事やトリホスと知り合いであることなどを簡単に自己紹介した。

「ボストングローブ紙に、アメリカはパナマから去るべきだと書いたコンサルタントはあなたですか」と尋ねられて面食らったと、『エコノミック・ヒット・マン』の第17章「パナマ運河条約交渉とグレアム・グリーン」に書いている。

パーキンスと一緒に朝食をと誘ったグレアム・グリーンは、「トリホス将軍からパナマについての本を書くようにと招かれ、今書いている最中です。私としてはめずらしくノンフィクションのつもりですが。それにしても、あの新聞記事の勇気には感心しましたよ」いつもは、フィクションが多いのはなぜかとのパーキンスの質問には、「フィクションのほうが安全ですからね。物議を醸すような題材について書くことが多いもので、ベトナム、ハイチ、メキシコ革命、そういう題材のノンフィクションは出版社に敬遠されることが多いのです」

「将軍が北の巨人(米国)に刃向かうのは大変な試みで、彼の身の安全が心配です」

パーキンスには、社会から疎外された貧しい人々ばかりでなく、高名な小説家をも惹きつけるトリホスの人生に関心を寄せるグリーンの気持ちがよく分かった。

「フランス行きの飛行機の時間なので」と握手の手を差しのべたグリーンは、パーキンスの目を見て、「あの新聞記事のように価値のあることを本に書きなさい。きっと書けますよ」といって歩き出したが、きびすを返して、「心配しないで、将軍はきっと勝ちますよ。必ず運河を取り戻すでしょう」

この奇跡的とも思える出会いが、パーキンスに『エコノミック・ヒット・マン』〈2004年刊行〉を書かせることになった、と筆者は想像する。

パーキンスとグレアム・グリーンとの接点が、トリホス将軍のパナマ運河条約改定交渉にあったとは、たいへんな驚きだった。

筆者にとってのグレアム・グリーンは、学生時代に原文で読んだ短編集で、サマセット・モームと同列の作家くらいの印象しかもっていなかった。

映画音楽のチター演奏とオーソン・ウエルズの名演技に心酔したキャロルリード監督の『第三の男』の原作者と知っていたが、『静かなアメリカ人』は読んではいなかった。

ウイキペディアでいろいろなことが分かったので、その概略を記しておこう。

・1904年イギリスで生まれた彼は、1991年スイスで亡くなっている。

・オックスフォード在学中〈第一次世界大中の18歳〉にドイツ大使館に雇われ対仏諜報活動をし、第二次世界大戦勃発時に、M16の正式メンバーとなり、西アフリカ、イベリア半島でスパイ活動に携わる。

・1930年代に知識人の間で共産主義への期待感が高まった頃、27歳で入党。

・ジョージ・オウエルらがソ連共産党の実態を知って離党しても、晩年まで、マルクス主義への共感を持ちつづけた。

・1955年に書いた『静かなアメリカ人』は、CIAに属し、ラモン・マグサイサイやゴ・ディン・ジェムの師で、後に大統領叙勲を受けて アーリントン墓地に眠るエドワード・ランズデール空軍大佐がモデルとされるフィクション。ベトナムで自由の理想をかかげるアメリカ人と裏切りや殺人が横行する現実を対比的に描く。

・この小説を書いてアメリカ入国を拒否されたグリーンは、アメリカを憎んでいたという。

・カトリックの倫理をテーマに、多くの作品を発表したが、80歳のときのインタビューで、「確信をもった共産主義者と同様のカトリック信者の間には、ある種の共感が通っている」と述べている。〈先日、ローマ法王がキューバを訪れ、「共産主義はもう現実的ではない」と言ったが、グリーンの言を知っていたのか?〉

・ノーベル文学賞候補といわれ、1950年にはノミネートされたが受賞は叶わず、死去の際、そのことが話題になった。

・1976年、アメリカ探偵作家クラブ「巨匠賞」。(その翌年に、パナマ・ホテルでパーキンスとの出会いがあった。筆者注)

 

グリーンがM16のメンバーだったとは初耳だが、サマセット・モームもまた、第一次世界大戦時に軍医・諜報部員であり、1917年のロシア革命のときは、イギリス情報局秘密情報の情報工作員だったそうで、いかにも、「007」の家元イギリスらしい。

グレアム・グリーンに多いフィクションのような『誰がために鐘は鳴る』や『武器よさらば』を書いたヘミングウエイは、『老人と海』でノーベル文学賞を受賞したが、アメリカでのスパイ経歴はないようだ。

 

パーキンスがグリーンと出会った1977年、コロンビアでインフラプロジェクトを多く手がけていたメイン社から、海に面したバランキア市にオフィスを与えられたパーキンスは、再び、偶然といえない出会いをする。それはポーラだった。

彼の人生を大きく変えることになる美しい人は、長いブロンドの髪とグリーンの瞳を持ち、思いやりのある女性だった。

ポーラは、それまでの彼の女性に対する接し方が与えていた彼自身への悪影響を改めるきっかけをつくってくれた。

それまでの彼は、自分はなにをしているんだと疑問を感じたり、時には罪の意識さえ感じていたが、そのつど、それらを正当化する方法をみつけながらやってきた。 

サウジアラビアやイランやパナマでの体験に突き動かされて、思い切って自分の生き方を変えようとしていた時期に、ポーラが現れたようだ。

パーキンスは、自分を変えるきっかけとして、ポーラを必要としていたと言い、彼女のお陰で、自分の心の奥底をじっくりのぞきこみ、EHMの仕事を続けているかぎり自分の幸福はないと確信した、と述懐している。

彼は、ポーラの兄がゲリラの一員だったことを聞かされる。

「石油会社のオフィスの外で、絶滅に瀕した先住民の土地で石油採掘のボーリングをすることに、20人の仲間と抗議していたら、軍隊に襲われ、殴られて、刑務所に入れられたのよ。ビルの外でプラカードを持って歌っていただけでなにも法律違反はしていないのにね」

結局、6ヶ月近く刑務所に入れられ、家へ戻ってきたときにはまるで別人のようになっていたという。

それを手始めに、その後何度も同じような会話を交わしたのが、パーキンスがつぎの段階へ進むための準備期間だったようだ。

彼の魂は分裂していたが、それでもまだ、裕福な生活や十年前にNSAが性格分析をして発見した己の弱点に支配されていたと省みている。

パーキンスが救済への道をたどる手助けをしてくれたポーラと過ごしたコロンビアでの時間は、個人の懊悩だけでなく、かつてのアメリカ共和国(合衆国)と新しい「世界帝国」との違いを理解するのを助けた。

アメリカ共和国は世界に希望を提供した。

その基礎となったのはモラルと哲学で物質主義ではなかった。すべての人の平等と正義の概念が根底にあった。それは人々を鼓舞し、両腕を広げて虐げられた人々を守ることができ、必要とあれば、第二次世界大戦中のように、主義主張を守るために行動を起こすこともできた。

国境のない「世界帝国」の構築をめざす大企業・銀行・政府官庁などの共和国を脅かす組織は、感染症や飢餓、そして戦争を終わらせるのに必要な通信網や輸送システムを所有しているので、彼らをその気にさせられるなら、世界を根本的に変えるために利用することも可能なのだ。

「世界帝国」は共和国の強敵だ。

利己的で、己の利益を追求し、どん欲で、物質万能主義の商業主義にもとづくシステムだ。

かつてのさまざまな帝国と同じく、その両腕は、富を蓄積し、手当たり次第になんでも掴みとり、食らいつくすことに対してのみ広げられている。

より大きな権力や富を得るために必要ならば、帝国の支配者は手段を選ばない。

こうした違いを理解するにつれて、パーキンスは、彼自身の役割についてもはっきりと自覚するようになった。


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2012/04/17 11:18 2012/04/17 11:18
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