イラク3千キロの旅(63)
松 本 文 郎
これには、パーキンスも黙っていられなかった。
「アメリカが反イスラムだって決めつけるべきじゃない」
「あら、ちがうの?」と彼女は聞いた。
「アーノルド・トインビーの著作『試練に立つ文明』や『世界と西欧』を読んでごらんなさいよ。21世紀の戦争は、資本主義対共産主義の争いではなく、キリスト教対イスラム教の争いになるだろうって、50年代に言ってるわ」
「でもどうして、キリスト教徒とイスラム教徒がそんなに憎みあわなきゃならないんだ?」とパーキンスは訊ねた。
女学生はゆっくり話した。
「西欧諸国、とりわけ、その指導者アメリカが、世界中を支配下におさめて、史上最大の帝国になろうと決めたからよ。実際に、その野望は実現に近づいているの。今はソ連が行く手を阻んでいるけれど長くはつづかないと、トインビーは予見しているのよ。彼らには信仰がなく、イデオロギーを支えるものがないってね」
「私たちイスラム教徒にとっては、信仰は魂で、崇高な力なの。私たちの信仰の力はキリスト教徒に勝っているから、自分たちがもっと強くなるのを待つのよ」 若者の一人が言った。
「時間をかけてね。時がきたら蛇のように噛みつく!」
「なんて恐ろしいことを考えてるんだ!それを変えるにはどうしたらいいのだ!」パーキンスは叫んだ。
英語専攻の女学生は、パーキンスの目をまともに見つめながら言った。
「強欲でなくなること、利己的でなくなることよ。世界中の誰もが、あなたたちのように立派な家に住んで、ぜいたくな店で買い物しているのではないと認識しなきゃ。たくさんの人が飢えているのに、あなたたちは、車につかうガソリンの心配をしている」
「飲み水がなくて赤ん坊が死んでいるのに、最新の流行をファッション雑誌で探している。私たちの国では貧困の海で溺れている人がたくさんいるのに、助けを求める声を聞こうともせず、悲惨な現実を訴える人びとに、過激派とか共産主義者のレッテルを貼りつけているのよ。虐げられた人々をより酷い貧困と隷属に追いやるんじゃなくて、心を開いてちゃんと考えなくちゃいけないのよ。時間の猶予はもうあまりないわ。考えを変えないと、あなたたちは破滅よ!」
数日後、人形芝居でニクソンの前に立ちはだかり、バケツ男に星条旗で串刺しにされたバンドンの人気政治家が、轢き逃げに遭って死んだ。
70年代のインドネシアの英語専攻の女子大生が語気鋭く反米的言辞を吐いたことに、驚かれた読者があるかもしれない。
今(2012年)のアフガニスタンで、イスラム原理主義的な家族の若い女性が勉学や就職を禁じられている報道からは、インドネシアの女子大生が米国人エリートのパーキンスに開陳した、文明や世界情勢についての知識と情熱は、とても想像できないだろう。
だがこれは何度も述べてきたように、あらゆる宗教に生じる宗祖の教えの歪曲・逸脱であって、『アラブと私』の冒頭で引用した「天声人語」で皮肉られたブッシュ元大統領やキリスト教原理主義の支持者らも、キリストの教えと真逆なことをしていたのだ。
40余年前のバグダッドで再会したアハラムのムスリム家族には、生活習慣の違いはともかく、若い女性の勉学や就職を忌避する様子は微塵もなく、クウエート郵電省次官の子供ら(アメリカンスクールでわが息子・娘と同年の小学生)も男女の区別どころか、女の子のほうがませていた。別の女子大生が「アメリカは、石油を全部手に入れたら、インドネシアを放り出すんだわ」と言ったように、この国の石油はオランダ領東インド時代から植民地支配を受け、太平洋戦争で日本が侵攻したのも石油を確保するためだった。
先に述べたが、米国のコーポレイト・クラシー戦略と日本のODAの目的・手段はおおいに異なるが、恩恵に浴さない一般民衆からは大同小異に見えたであろう。
この原稿を書いている今、タイで開かれた国際会議に出席(1988年に英国から帰国し、軍事政権に自宅監禁されて以来、初めての外国訪問)したミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんのスピーチ概要が報じられた。
「ミャンマーにとって利益になるような投資をお願いしたい。汚職・不平等を助長せず、特権階級を潤さず、雇用創出につながる投資を期待します」
東南アジア諸国に見られる、パーキンスが告白したコーポレイト・クラシーや日本をふくむ先進各国の開発援助攻勢が、国家統治者一族や取巻きら一部特権階級に偏った利益をもたらしたことにクギを刺したもので、「さすが!」と感じた。
オランダによる植民地時代のインドネシアでは、バンドン工科大学卒業(1926年)のスカルノがオランダ留学から帰国した同志とインドネシア国民党を結成し、独立と民族統一の運動を各地で起こし、「民族の指導者」と認められるようになる。2年ほどで、オランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌年、オランダ本国がナチスドイツに占領されても植民地支配は続き、スカルノは恩赦出獄・再逮捕・流刑を繰り返していた。1941年に始まった太平洋戦争で、日本軍は忽ちオランダ軍を駆逐しオランダ領東インド全域を占領したので、植民地政府はオーストラリアへと逃げた。
日本軍司令官の今村均は、オランダに囚われていたスカルノやハッタを開放し、知名度の高い彼ら民族主義者の協力を要請したので、スカルノらは、インドネシア独立のための民衆総力結集運動を組織して日本軍に協力し、オランダ軍ほか連合国軍と戦うことを選んだ。(ウイキペディアからの要約・文責筆者)
スカルノは日本を訪問して関係強化を図ったが、日本が敗れたので、降伏の2日後(1945年8月17日)、権力の空白をぬい、インドネシア国民の名において独立を宣言。
しかし、これを認めないオランダは、イギリスやオーストラリアの協力を受けて軍を派遣して、インドネシアの再植民地化に乗り出した。
戦局はオランダ優位と思われたが、ドイツ占領・戦火による本国の国力低下、日本軍が放置した武器や残存日本軍将校らが助けたインドネシア武装勢力(正規・非正規軍)とのゲリラ戦に苦しめられた。
さらに、再植民地化を狙うオランダへの国際的な非難が高まったため、外交交渉による紛争解決がはかられて、ハーグ条約(1949年12月)の締結で主権移譲を受けたインドネシアは、独立国家の第一歩を踏み出した。
しかし、対オランダ独立戦争の時代を通して、国内統治機構は中央・地方共に権力が分散していたので、独立後の前途は多難だった。
大統領職にあったスカルノに、オランダからの独立時の新憲法(1950年憲法)は、強い権限を与えておらず、彼は、リーダーシップを発揮できない状況にあった。
困難な国政運営に有効な手立てを打てない政党政治家への不満・不信が国民の間に高まり、民族の統一よりも国家分裂の危機に向かっていた。
こうした事態を収拾するためスカルノは、1950年代末ごろから打ち出した「指導される民主主義」構想により、混乱の元だった議会制を停止し、国内諸勢力の調停者としてのスカルノが国家を指導するとして、議会を解散し、新憲法を停止した。
それに先立つ1955年、第1回アジア・アフリカ会議をバンドンで主催したスカルノは、インド・フィリピン・中華人民共和国など、第2次世界大戦後に独立・建国された新興国(第3世界)のリーダーのひとりとしての脚光を浴び、会議を成功に導いて国際社会の知名度を高めた。(ナセルの知名度はすでに高かった。筆者)
太平洋戦争さなかの対オランダ独立運動で親密な関係をもった日本は、敗戦から立ち直って急速な復興をみせていた。スカルノは、経済開発中心の親密な関係継続を選択して、後に、日本人女性を第3夫人に迎えることになる。冷戦下の1965年にかけてのスカルノ政治のキーワードは、「ナサコム」で、〔ナショナリズム〕・〔宗教〕・〔共産主義〕から造語されたが、国内のさまざまな対立勢力の団結を訴える調停者として、スカルノはこのスローガンを叫び続けたという。
彼が権力のバランサーとして生き延びるには、中国など共産主義諸国からの援助で国民の支持が急増したインドネシア共産党と、実力をもちつつあった国軍との拮抗状況を巧みに利用する必要があったのだ。
(続く)