アラブと私

イラク3千キロの旅(64)

 

                              松 本 文 郎 

 

 さらに、大衆からの支持を維持するためには、たえずナショナリズムを鼓舞しつづけなければならず、「反植民地主義」「反帝国主義」を掲げて、英保護国北ボルネオ、英領サラワク、マレーシアとの対決を宣言し、英米との対立姿勢を強めた。

 冷戦下の西側諸国との関係険悪化の一方で、ソ連・中国・北朝鮮など共産主義諸国への接近を強めたため、「ドミノ理論」による共産勢力の東南アジアへの浸透をおそれたアメリカは、CIAを通じてスカルノ失脚を画策したといわれている。

 関係が悪化した西側諸国中心の外国企業の資産接収、新たな外資導入の禁止や植民地時代からの経済力を誇る華人を差別した上で、輸入品規制と地場産業の振興を図り自立経済の樹立をめざした。

 だが、極端な経済・外交政策により西側諸国との関係はさらに険悪となり、欧米諸国など国際社会からの経済援助が停止され、深刻な食糧不足とインフレ率が数百パーセントに達する末期的な経済状況を迎える。

 1965年1月、国際連合を脱退したことで、国際社会から孤立した状況は決定的となった。

 

その10年前、政局の混乱を収拾するために実施されたインドネシア初の総選挙と議院内閣制によっても、事態は打開されなかったのである。

 1955年の日本では右派・左派に分裂していた社会党が再統一を果たし、危機を感じた財界の要請で、日本民主党・自由党の保守合同で誕生した自由民主党が第1政党となった。

「改憲・保守・安保護持」の自由民主党と、「護憲・革新・反安保」の日本社会党の二大政党体制となったのが、いわゆる「55年体制」である。

 これはまさに、自由主義諸国と社会主義諸国が互いのイデオロギーを掲げて対峙した冷戦世界が日本に反映した状況で、二大政党制といっても国会の勢力比率は保守・革新の2対1で、「1と2分の1政党制」ともよばれた。

 この勢力比率はずっと維持され、自由民主党から日本社会党への政権交代が実現しない一方、憲法改正のための3分の2以上の議席獲得も生じなかった。

 保守本流とよばれる議員ら中心の安全保障をアメリカに依存して軽い武装で浮く国防費を経済政策に充てる路線に対し、「護憲・反安保」を掲げる日本社会党の糾弾相手の陰が薄くなる。

 インドネシアへの日本政府の経済開発援助とそれに呼応した商社活動は、こうした状況のなかで始まり、1959年(昭和34年)、インドネシアへの日本政府の開発援助に伴い「東日貿易」の秘書として1人の若い日本女性が大統領のもとへ送りこまれた。

この1件に、「昭和のフィクサー」と呼ばれていた児玉誉士夫が関わったとされる。

 数年は愛人の立場だった女性がスカルノ大統領の第3夫人に迎えられたのは、語学などの熱心な勉強態度が認められたからとされ、インドネシア名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ、通称はデヴィ夫人である。(1962年)

 筆者も、デヴィ夫人が赤坂の有名高級クラブの「コパカバーナ」で働いていたことは、週刊誌で知っていた。

スカルノ自身が東京のナイトライフで見初めたのか、インドネシアの利権を狙う戦略の一環として誰かに送り込まれたのかはともかく、パーキンスたちの常套手段だった、統治権力者への有効な処方の一つ「女」だったようだ。パーキンスの序文を再掲しておく。

「エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめ取る,きわめて高収入な職業だ。彼らは、世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を巨大企業の金庫や天然資源の利権を牛耳っている裕福な一族の懐へ注ぎ込む。その道具に使われるのは不正な財務収支報告書、選挙裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。(後略)」

 

議会を解散し、1945年憲法に復帰して強大な大統領権限を手にしたスカルノ大統領だったが、欧米諸国との険悪な関係の下で、食糧不足とインフレが悪化の一途をたどる経済状況では、日本の資金援助を非常に重視していたにちがいない。

当時の日本は、驚異的な戦後復興から高度経済成長への路線を走り始め、戦禍を及ぼした周辺国への経済開発援助を足がかりに、東南アジアへの経済進出を構想しており、太平洋戦争で日本軍が侵攻してから維持してきたスカルノとの親密な関係を一層強化するには、旧外務省の情報部の下で「児玉機関」を運営していた児玉誉士夫を黒子としてつかったのだろうか。   

序文の「女」とみられる19歳の日本女性が、第3夫人とはいえ一国の大統領夫人になる経緯は、「事実は小説より奇なり」だったろうし、誰かの入れ知恵や指南を超えて、女性としての魅力と努力のたまものだったと思われる。

 第3夫人になったデヴィ夫人は、わが国の経済援助(ODA)や日本への資源輸出などに積極的にかかわり、池田勇人首相とスカルノを繋ぐ仲介役を務めたとされる。

児玉誉士夫とパーキンスを比べても仕方ないが、児玉が送り込んだ「女」は、彼の利得の思惑を超えて大化けしたのではあるまいか。

 だが、この時期、デヴィ夫人の実弟が自殺し、後に、「いつまでも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白したという。(ウィキペディア)

 政治外交の具にされた日本人女性のシンデレラ物語は、3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデターで終わりを迎えることになる。

 この「9月30日事件」は、急進的な左派軍人勢力による国軍首脳部の暗殺に、迅速に対応したスハルトを中心とする右派軍人らの反クーデターが成功したものである。

 事件後に行われた「共産党員狩り」で国内の共産党が一掃され、バランサーとしてのスカルノの求心力は失われたのである。

 東南アジア最大を誇ったインドネシア共産党壊滅を、「ドミノ理論」を唱えるアメリカなど西側諸国は歓迎し、共産党への接近の責任を追及されたスカルノは大統領権限を奪われ、1968年3月には、大統領職を停止されて実権を失う。

 失脚したスカルノに代ってスハルトが大統領となり、デヴィ夫人は、日本大使館に亡命を希望したものの、国際的立場とやらの理由で断念したという。(させられた? 筆者註)

結局は、第2夫人をのぞく夫人たちはスカルノから離れて、逃げ切ることができたという。「東洋の真珠」と称され、社交界の華として多くの要人らを魅了し、交友を得たデヴィ夫人だが、クーデター後、日本政府も企業財閥も彼女を擁護することはなかったとされる。

 この結末からは、彼女をスカルノのもとに送りこんだ狙いどころが、やはり、パーキンスたちのそれとは大同小異だったと推定できる。

 スカルノはこの軍事クーデターを予期し、巨額の資金をインドネシアからスイスへ移していたという。

スカルノ死去(1970年)で、インドネシア政府はデヴィ夫人のスカルノ一族としての地位と財産の相続権をはく奪したが、後には、政府方針で遺産分与が行われたそうである。

 ウィキペディアの記事には、フランスへ亡命した彼女は、貴族をスポンサーにもつ娼婦とされる「ドゥミ・モンド」(そんなものがあるとのが、いかにも、フランスらしいが)に属し、数々のロマンス経験や結婚発表が数回取沙汰されたものの、結局、再婚することはなかった。

 

 第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制下のインドネシアは、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として、西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていった。

 その間、軟禁状態におかれたままのスカルノは、1970年6月、ジャカルタで死去した。

スカルノ失脚にCIAが関わったかどうか知る由もないが、親ソから反共への一大転換の背後で、なにがしかの動きはあったのではなかろうか。

 3ケ月がたった同年9月、スカルノが主催した第1回アジア・アフリカ会議に出席したナセルが急逝した。(クウエートでの追悼式のことは前述)

ナセルは、非同盟主義(東西冷戦期以降、東西いずれの陣営にも公式には加盟しないとした)を主張してイラク・バース党のように新ソ的な立場に立っていたから、エジプトでも、CIAや英国情報機関の動きはあったのではないか。

第3次中東戦争(6日戦争)でイスラエルに惨敗してシナイ半島が占領され、スエズ運河からの収入を失い、インフレが進行していたエジプトの経済状況が、スカルノが直面した末期的経済に似ていたことも、転換の重要な状況証拠だ。

軟禁状態で死んだスカルノとはちがい、ナセルは、ヨルダン内戦の仲裁や北イエメンの内戦への軍事介入できわめて多忙な最中に心臓発作で亡くなり、後継者はナセルの盟友サダートだった。しかし、エジプトがドイツ国防軍の科学技術を入手して弾道ミサイルを開発することを怖れたイスラエルが、元ナチスの科学者をよそおうスパイを送りこんだそうで、東西冷戦の緊張関係の渦中の国々では、両陣営の陰謀が繰り広げられていたのである。

 この頃は、平等の理念をイデオロギーに掲げる社会主義諸国の旗色が、めざましい経済発展をみせつける自由主義陣営に比べて、悪くなり始めた時代だった。

第3世界・アジア・アフリアの両雄が死去した年、日本では、70年安保闘争で挫折した若者たちがシラケて、輝かしくみえていた社会主義の理想精神から経済的な豊かさを求める欲望へと、人びとの価値観が大きく転換しはじめていた。

 パーキンスが述べているが、CIAの謀略や軍事的侵攻に拠るよりも開発援助などの経済戦略による新興国の富(資源・労働力)の収奪が効率的に行える環境ができつつあったといえよう。

 パーキンスは、コーポレイト・クラシーの一員として果たした所業を告白した著書を世に問う後半生を選んだが、児玉誉士夫は、終始一貫、反社会的な世界を生きぬいたようである。

 児玉誉士夫は、若いころは社会主義に傾倒したのち超国家主義に転じて玄洋社の遠山満に私淑。赤尾敏が創設した急進的右翼団体「建国会」に加わっての昭和天皇への直訴事件や、大川周明の全国愛国者共同闘争協議会で国会ビラ撒き事件・井上準之助蔵相脅迫事件などを起こして入獄を繰り返す。1937年、釈放されて満州に渡って帰国後に設立した「独立青年社」が、皇道派のクーデターを誘発しようと斎藤首相・閣僚の暗殺と発電所の破壊・停電などを計画して発覚し、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一の右翼団体「国粋大衆党」に参加して、外務省情報部長河相達夫の知遇を得る。

(続く)


添付画像



2012/06/28 15:48 2012/06/28 15:48
この記事にはトラックバックの転送ができません。
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST