アラブと私
イラク3千キロの旅(65)
松 本 文 郎
前回、右翼運動家・児玉誉士夫の戦争中の活動をウィキペディアから要約したが、パーキンスとは対照的な人物なので、終戦前後からデヴィ夫人との関わりまでを書き加えておこう。
外務省情報部長の知遇を得て中国各地を視察した翌年(1938年)、海軍の嘱託となり、上海で児玉機関(戦略物資の鉱物資源を海軍航空本部へ独占契約で納入)を運営して、黒幕へのしあがる。
アメリカ陸軍情報局の報告には、各種鉱山を管轄下に収め、農場・養魚場や秘密兵器工場も運営し、ヘロイン取引の仲介もしたとある。
当時の大陸には児玉機関の類は多く存在し、中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙・殲滅を請け負っていた。児玉が大陸で獲得した厖大な資金(戦後の政界工作にも使われたとされる)は、これらの非合法活動(強盗殺害も?)によるものという。
終戦後、児玉機関が管理していた旧海軍の秘密資金(今の時価で3750億円)と共に上海から帰国した児玉は、東久邇宮が組閣した講和内閣の参与となる。
敗戦の翌年、A級戦犯容疑で逮捕されて巣鴨へ送られたが、米国に協力的な戦犯を反共に利用する「逆コース」の政策転換で釈放され、CIAに協力することになる2007年に機密解除・公開された米国公文書館保管のCIA対日工作機密文書には、「児玉は、プロのウソつきで悪党・ペテン師・大泥棒である。情報工作の能力は全くなく、金儲け以外に関心がない」と書かれているそうだ。 A級戦犯を免れて協力者になった児玉のCIA側評価は手厳しいが、鳩山ブランドの日本民主党の結党資金を提供し、1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸し、緒方の自由党と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、岸信介が首相になる際にもその力を行使した児玉誉士夫は、政界フィクサーとして君臨してゆくのである。
1960年には、生前葬を行ったが、大物政治家や大スターたちが参集して焼香したという。その年、安保闘争の拡大阻止を命じた岸首相に、ヤクザ・右翼を使う世話役を担った児玉は、これら暴力組織や政治家らに繋がる「力」とさまざまな表・裏の資金源からの「金」で、日本で最も影響力をもつ「政財界の黒幕」の大物と呼ばれるようになる。
敗戦後、CIAの対日工作活動に取り込まれた人物には読売新聞中興の祖とされる正力松太郎、政治家河野一郎らの名前も上がっており、CIA協力者であった児玉にとっては、その後の政財界での人脈形成に大いに役立ったと推測できる。
大陸での数々の荒仕事のキャリアに、CIAの謀略ノウハウを加えた児玉は、1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たし、5億ドルの対日賠償資金の供与で進出した日本企業やヤクザのフィクサーとして、朴(元満州国軍将校)政権の要人と繋がり、渦巻く利権からの利益を得たとされる。
元大本営参謀・瀬島龍三は、商社役員として、岸信介や椎名悦三郎ら政治家と「日韓協力委員会」を作り、韓国利権に走ったという。
大きな労働争議や企業間の紛争にヤクザ・右翼を使った仲介、首相逮捕に至ったロッキード事件などについては省略するが、児玉誉士夫が果たした黒幕の役割に、ジョン・パーキンスが属したコーポレイト・クラシーに類するものもあったのではないか。
朴政権の国づくりに共鳴した政治思想家・安岡正篤には保守政治家の信奉者が多かったが、彼や財界鞍馬天狗と称された瀬島龍三らと接点を持つ児玉誉士夫が、CIA報告にある「金の亡者」で片づけられる人物かはともかく、生前葬から24年たった1984年に73歳で亡くなり、公開された公文書を知らずに逝ったのは、当人にはもって瞑すべきことかもしれない。
パーキンスが体験した、インドネシアの石油利権を狙うコーポレイト・クラシーのエピソードから、日本政府の経済開発援助がらみで一国の大統領に若い女性を仲介した児玉誉士夫にまで言及してきた。日本のODAについては最近、新しい論議が始まっているが、過去の事例には毀誉褒貶がある。それについては、先のしかるべきところで論じることにしたい。ジョン・パーキンスの「エコノミック・ヒットマン」関連の記述もこの辺にとどめ、そろそろ、1971年のモースルの場面に戻りたいが、一旦は、パーキンスの「エコノミック・ヒットマン」の記述を始めたイランに戻ろう。それは、日本ではいまイランから目が離せないからでもある。イランから大量の石油を輸入してきたわが国は、核開発疑惑に対する国際的な経済制裁に対してもやや柔軟な態度を示してきたが、米国の強硬姿勢に追従せざるをえなくなったのである。
先に書いたように、筆者が電気通信研究所の建築計画の技術指導でイランに滞在した頃、日本とイランの関係は極めて親密で、シャー・ハン・シャーと呼ばれたパーレビ国王は、CIAが関与した白色革命後もモサデクによるイラン石油の国有化阻止で米国を頼り、石油会社との腐敗した関係ながら、親米的でありつづけた。
その国王の側近として近代化イランの新時代を夢見たドクの目には、コーポレイト・クラシーに操られて資本主義的経済成長が進む中で、国王一族と一握りの実業家だけが利益の恩恵を得るのに耐えられなかったのだ。
イスラムの宗教指導者とも親しかったドクは、パーレビ王政の西洋化政策と近代化には反対ではなかったものの、イスラム世界が腐敗した国王を憎む状況に、国王の安泰が長くないことを予見していた。
西洋化政策をとったパーレビ王政の脱イスラム化の動きのなかで、チャドル着用を後進性の象徴として禁止したことに、国民のあいだでは不満や反発が高まっていった。
禁止とは逆に、チャドルの着用がパーレビ王政への抵抗の象徴となって、1979年のイスラム革命の王政打倒後の革命体制では、イスラム法を導入してチャドル着用を義務づけたのである。
その10年前に滞在したテヘランでは、タクシーの中で王政を批判するような話をするのは危険だと日本商社員から注意されたことを除けば,夜の街には、性の享楽場所、酒を飲みゴーゴーを踊るクラブ、歌踊のショーが観れるキャバレーなどがあったから、まさに、文化大革命のような激変が生じたのだ。
現在のイランについての国際的なイメージは、反米・反イスラエルを標ぼうし、西洋的な価値観を全面的に否定している頑迷な印象であろう。
2002年、ブッシュ大統領が北朝鮮とイラクと同列に、「悪の枢軸」と糾弾したことが、そうしたイランの印象がステレオタイプ化するきっかけとなったようだ。
イスラム革命から9ケ月後の学生グループによるアメリカ大使館占拠人質事件が、親米的だったイランに対するアメリカの敵視政策の原点となる。両国は国交を断絶し、カーター政権のヘリによる人質救出作戦が砂嵐に見舞われて失敗し、52人の大使館員が解放されるまで、444日を要したのである。
2005年から4年の間、毎日新聞のテヘラン支局長だった春日孝之著『イランはこれからどうなるのか』に、世界史的な出来事の首謀学生の話が記されているので転記させていただく。
「革命によりパーレビ王政は崩壊しましたが、国外に逃れた国王をアメリカが受け入れたのです。国王はアメリカを後ろ盾に強権を振るい続けた人物です。アメリカは国王を利用して反革命を企てる危険があった。それを防ぐのが(反革命の拠点とみられた)アメリカ大使館を占拠した最大の目的でした」
革命直後発足したリベラル派主体のバザルガン暫定内閣の外相は、「(国王の)『入国を認めれば、イランの反米路線を決定づけるパンドラの箱を開けることになる』と米側に警告した」と、同著に記されている。
イラン革命は、「西(資本主義)でも東(社会主義)でもなく」を理念としていたから、革命直後は、反米一辺倒ではなかったのだ。
カーター政権は、人道的な配慮で国王を受け入れたようだが、占拠した学生グループは、大使館で押収した機密文書を公開して、そこがスパイの巣だったことを訴えた。
学生グループの行動は国民の熱狂的な支持を受け、連日、アメリカ大使館を囲んだ大勢の市民は、「私たちの苦しみはすべてアメリカに由来する」と書いた垂れ幕を掲げ、「アメリカに死を!」と叫んだという
「最初の革命より栄光に満ちた第2の革命だ」と学生たちを賞賛したホメイニ師は、第2次世界大戦中から、パーレビ国王の独裁的な西欧化政策に不満を表明しており、1963年の白色革命の諸政策にひそむ国王の性格を非難し、抵抗運動を呼びかけて逮捕された。
このときは釈放されたが、政府批判を続けた彼を怖れた国王はから国外追放を受けて亡命した。
白色革命の政策は、英米・日本への石油輸出による豊富な外貨収入による工業化を中心に据えたものだが、西欧的な世俗化だけでなく、イランの内情や国民生活を顧みない急激な改革で貧富の格差が増大、これに反発した国民の抵抗運動が起き、ホメイニ師はそのシンボル的存在だった。
亡命してトルコに滞在した後、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニ師は、イラン国民に改革を呼びかける一方、「法学者の統治論」(イスラム法学者がイマームに代わって信徒統治を行うシーア派理論)を唱えた。
パーレビ国王の国外亡命は、ホメイニ師が亡命先のフランスから糸を引いた反体制運動の高まりに耐えかねたもので、15年ぶりに帰国を果たしたホメイニ師は、ただちに、イスラム革命評議会を組織したのである。
ホメイニ師はアメリカよりもソ連が嫌いで、反共産主義だったとされる。対米政策では、「良くもなく、悪くもなく」で、革命後、アメリカとの関係を断とう思えば声明一つでできたのに、そうはせず、アメリカ大使館も閉鎖されていなかった。
だが、リベラル派のバガルザン暫定内閣が占拠事件に反発して総辞職してからは、イランにとっての諸悪の根源はアメリカに集約されていった。急進派のイスラム法学者を率いるホメイニ師は、アメリカとの対立緩和を示唆する者を革命の裏切り者として排除し、アメリカへの国民的な集団憎悪を、イスラム急進派勢力による体制基盤の強化と国民統合に利用した。
筆者がテヘランの郵電省に招かれたとき、この国が古い歴史をもつ中東の大国だとは知っていたが、アラブ人主体の中東におけるペルシャ人中心のイラン近代史については不勉強だった。
近代のイランは、ロシア(ソ連)とイギリスによる干渉と支配の半植民地状態にあり、第2次世界大戦後、イラン人の多くはソ連の脅威に対抗しようと、アメリカとの関係強化を望んだ。
首尾よくソ連をイランから追い出したアメリカに、イギリスに対する守護者の役割を期待したのは、イギリスが握っていたイランの石油の利権を取り戻す協力を得たかったからだ。
以前、筆者が述べたように、イランの石油利権を取り戻す石油国有化の先頭に立った民族主義者・モサデク政権を葬ったのは、イランの期待を裏切りイギリスの利権を守る側に立ったアメリカのCIAだった。
CIAは、モサデク首相を放逐するため、大量の資金を投入して反政府暴動を扇動し、イランのメディアの大半を影響下に置き政権を揺さぶった。これはCIAの秘密工作の成功例として国際的に周知されたが、ドクがパーキンスに語ったことと符合する。
国王、首相、国会の勢力が均衡していた当時の王政だったが、モサデクの失脚で均衡が崩れて、その後のパーレビ国王の独裁につながった。バザルガン暫定内閣の副首相だった人物は、「国王はアメリカの操り人形となり、アメリカから『ペルシャ湾の警察官』に任じられて、大量の米国製兵器を購入して石油収入を浪費しました。さらに秘密警察を創設して国民を抑圧しました。こうしたことが革命への導火線になったのです」と語っている
テヘランのタクシーで政治や国王批判の話をするなと言われたのは、タクシーの運転手の多くが秘密警察の人間だったからである。
国王が「操り人形」だったかどうかには異論もあるようだ。国王はアメリカを利用していたとの指摘もあり、誇り高いとされるペルシャ人国王の性格を考えると、その両方だったのかもしれない。国王の側近だったドクに、鼻を削ぐ酷い拷問を課した独裁者のパーレビ国王は、CIAも顔負けの強か者だったとも考えられる。
それにしても、世界各国で謀略活動を展開してきたCIAのおぞましさには、呆れるほかない。
プロ野球・テレビ放送・原子力発電の日本導入で、「プロ野球の父」「テレビ放送の父」「原子力発電の父」の尊称を得た正力松太郎も、CIA協力者だった。
「福島第一原発事故は人災」と書かれた事故調査委員会の報告書を草葉の陰で見ているだろうか。
イランの現状に関心のある方は、春日孝之氏の著書に興味深いことが書かれているので、一読をお勧めする。イスラム大国の真実『イランはこれからどうなるのか』(新潮新書384)
(続く)