自然と人間                    2012年10月1日(月

 

夜半、関東地方に来襲した17号台風が吹き荒れた風雨の音は凄かったが、一転、今朝の日の出前の空は、雲一つなく晴れわたり、“台風一過”の清々しい光景だった。

昨年の台風で倒木や傾いた樹木が出た「ふれあいの森公園」にそんな被害は見当たらず、猛暑が続いた先日まで水遣りに通った花壇では、茎がひょろひょろの千日紅以外の花々が、ちゃんと立っていて、そよ風に揺れていた。

 昨夜は見られなかった中秋の名月が、西の空に白くくっきり浮かんでいる。

 森の木立ちの上に暁光が広がりはじめて明るさをます空に、大きな月はしだいに薄れながら、

湾岸道路と国道357号線が見明川をまたぐ橋の上に懸かっていた。

 毎年やってくる台風の通り道のような日本列島は大陸プレートの真上にも位置している。

 台風は、ハリケーン・サイクロンと共に世界各地で猛威を振るい、甚大な被害を出しているが、

人間の力で制御できる代物ではなく、ひたすら被害を小さくするしかない。

 地震と津波のセットは、人的・物的被害を極大化するもっとも恐ろしい自然災害をもたらす。

福島第一原発の事故で、スリーマイル島・チェルノブイリの事故ではあいまいにされてきた核エネルギーの制御が不可能に近いことが明らかとなり、地震の巣の上に数多くの原発を造ってきた原発行政の安易さが問題になっている。

 わが国の原発行政と原子力村の実態などについては、この残日録の(5)(13)(19)(20)に述べてきた。

3.11の翌月に掲載した(13)で、地震・津波・台風・洪水などの巨大な自然力を、人間が腕ずくでねじ伏せる考えは、西洋近代の科学技術思想と無縁ではないと書いた。  

核開発に熱心な科学技術者たちは、人工的に造りだした核エネルギーを、自然力よりも制御し易いものと考えきたようである。

現代の科学技術は、人間が古代から抱きつづけてきた偉大な自然力への畏怖や謙虚さを忘れるまでの、めざましい発展をしてきた。

数百万年前の人類発祥から原始・古代を経た中世までは、自然の力(人間を超える力)の存在を「神」として崇めてきたが、好奇心と探究心を抑えきれない先人らが、命がけで「神の世界」からの脱出をめざしたのが、近代科学技術の始まりといえるだろう。

一方で、近代科学技術の所産である「進化論」や「遺伝子科学」よりも、旧約聖書・創世記の人間誕生神話を信じる人たちがいて、さまざまな、宇宙観、自然観、価値観が入り乱れている。「神」への畏怖をもたず、人間の欲望を満たす物的豊かさを一途に求める経済活動は、地球上の資源・環境を枯渇・汚染させながら、弱肉強食の競争社会の論理で突き進んでいるようだ。

この人類文明の混迷の発端は、人智を超えた自然力に「神」の冠を被せたことではなかろうか。

「神」を信じた統治者たちが、「神」の名の下に自分たちの欲望を追及し、民衆の欲望を制御してきたのに対して、「神」を信じなくなった統治者と民衆は、「神」が支配した人間社会に革命を起こし、科学技術の力で自然を制御・支配することに夢中になったのだ。

自然の一部である太陽の核エネルギーを科学技術の力で実現した最初があの忌まわしい原爆で、「プロメテウスの火」と譬えられ、原発にも敷衍されているのは、その所以である。

宇宙や自然に、「神」という冠を被せて「意味」をもたせた原始宗教的世界観と、宇宙や自然には本来、「意味」がないとする自然科学的世界観とが、互いに、敵愾心を燃やして対立している

限り、人類社会は破滅への道を歩むことになるだろう。

 人間は、「自然」自体にも、敵愾心ではなく、畏敬と謙虚さで対してゆかねばならない。



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2012/10/01 16:26 2012/10/01 16:26
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