67回目の終戦記念日
2012年8月30日(木)
開催中の「日比谷彩友会展」に出品した「向日葵」を描いていて思い出したのは、縁故疎開で世話になっていた父の実家で聞いた“玉音放送”だった。
大きな農家の主だった叔父が営むタバコ耕作の手伝いで、早朝の畑で採取した葉を乾燥小屋の傍の木陰で縄目に編み込んでいた私の耳に、クマゼミの騒々しい鳴き声にかき消されるような不鮮明なだみ声が大きな栴檀(センダン)の下に置いたラジオから流れ、日本が戦争に負けたことに耐えるようにと、天皇陛下が訴えていた。
“生き神様”と崇めた天皇陛下のために、一億国民が本土決戦で玉砕も辞さないと教えられていた私たちは、あまりにも唐突な敗戦の詔勅に唖然とするだけだった。跡取りの一人息子が戦死して間もない叔父夫婦と従姉の想いを察するには、幼すぎる少年の私だった。
乾燥小屋の周りには、燃えるような色のカンナと向日葵の一群が立っていた。国民学校5年生の少年には、悔しい想いよりも、小学校舎を焼いた焼夷弾爆撃や八幡様の社の高みを低空飛行したグラマンの機銃掃射が終わって、ホッとしただけだった。
あれから67年。灰塵に帰した敗戦後の日本の復興は新しい教育によるほかないと、森戸辰男が故郷福山に創立した広島青年師範(後の広大)付属福山校入学(昭和22年)。戦争中とは対極的な自由・民主主義教育の中学・高校生活は、先輩のいない気安さで、音楽部、美術部、文芸部、放送部などを創設し、多彩な文化祭の企画・実行委員などで自由闊達な青春時代を謳歌した。
一級下のお千代(妻)との出会いも音楽部(昭和23年)だが、岳父は沖縄で戦死しており、早く戦争を終わらせていたら、子供4人を女手一つで育て上げた母親の苦労もなかったのだ。
“玉音放送”前の「24時間」のノンフィクション『日本の一番長い日』には、戦争を終わらせられるかどうか、徹底抗戦を叫ぶ軍人たちとのいたずらに寝た子を起こして
瀬戸際のせめぎあいが描かれている。
執筆した半藤一利の胸にあったのは、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは大変だということを知っておいたほうがいい」との思いという。同じ著者の『いま戦争と平和を考える』の「戦争責任」の章の見出しに、「占領期が終わった後に出てきた資料を見ると、やっぱり天皇は相当本気で戦争のことを考えていたというのがわかります。天皇だけじゃないですか、亡くなられるまで戦争責任を感じていたのは」とある。天皇の戦争責任については、対談集『生ききる』のなかで、瀬戸内寂聴・梅原 猛が、「天皇は退位すべきだった。天皇がどうしても必要なら、どんなに幼くても皇太子がなればいい」と異口同音に述べている。
毎年8月15日の政治家による靖国参拝が中・韓両国の反日感情を再燃させてきたが、今年は、民主党の閣僚2人が参拝したので唖然となった。近隣アジア諸国の抗議への政治的判断で、参拝を中止した中曽根元首相の後も、参拝する政治家があとを絶たない。
日露戦争に勝った勢いの日本が、植民地主義の欧米列強のアジア進出に伍して朝鮮半島と中国大陸の民族自立を踏みにじった暴挙が、天皇を冠にした軍人たちの蒙昧によるものだったとしても、1億国民が火の玉となって戦争遂行に邁進した事実と参加責任を忘れてはならない。
戦勝国が敗戦国を裁いた「東京裁判」の国際法上の是非論はあるが、国の内外に無辜の犠牲者を出した戦争責任者(日本人から見た)と無謀な戦争の英霊たちを合祀する靖国神社が問題なので、家族を守る一心で、命じられた特攻に散った若き英霊たちに申し訳が立たないと考える。
政治家にポピュリズムは付きものだが、東京都知事の尖閣諸島買い上げ、退任近い韓国大統領の竹島上陸などは、いたずらに、領土問題のナショナリズムに火をつける愚行というほかなく、こんな有様では、太平洋戦争で死んだ国の内外の数百万の人びとの魂は浮かばれないのである。