アラブと私
イラク3千キロの旅(66)
松 本 文 郎
(41)に書いた、モースルでユーセフが案内した教会の牧師の話にCAIが出てきたつながりで、「エコノミック・ヒットマン」の一員、ジョン・パーキンスに関する記述がつづいた。
米国の世界帝国構築をめざす、コーポレイト・クラシーとCIAの各国での活動ぶりを書くうちに、日本やイランでのCIA暗躍の一端に及んだ。(49)
こうした脇道の記述は、「イラク3千キロの旅」から逸脱し過ぎる面もあろうが、『アラブと私』の執筆を構想した動機と主題に深く関るものなので、あえて、「イラク3千キロの旅」を急がずに書いてきた。
その上、(42)を執筆中の昨年暮から新年に受けた前立腺がん検査(PSAが30.36となり、急遽、MRI検査を受けた)で、前立腺の外郭と近くのリンパ腺・骨盤に白い映像があり、女性ホルモン治療をすぐ始めるように勧められたのである。
いまのところ特別な症状はなく元気に過ごしている。平均寿命を迎えた身にいつ異変が起きてもおかしくないが、モースルを旅している最中(1971年)から3年余におよぶクウエートの日々の『アラブと私』を構想どおりに書ききれるか、との思いもなくはない。
『アラブと私』の執筆動機は、旅行記や自分史としてよりも、4年ほど在勤したアラブへの想いと激動する今の中東状況を往き来しながら、私が生きた時代の歴史認識をライフワーク『人間の探求』の一環として書き残すことだった。
その主題は、戦争の世紀と称された20世紀を経て、なお、世界各地に紛争の戦火が絶えない人類社会の混迷打開の道を探ることだった。
1970年前後のイランとイラクでCIAのことを聞いたに過ぎない筆者が、この種の国家情報機関について特に関心をもっているわけではないが、太平洋戦争に敗れた日本の連合国軍占領下で起きた下山・三鷹・松川事件の「国鉄3大ミステリー事件」の下山事件で、国鉄総裁下山氏の怪死事件背後に進駐米軍防諜局(CIC)の関与を指摘する論調があったのは憶えている。
当時の日本では、戦時中から戦争反対をつづけてきた日本共産党が、進駐米軍を「解放軍」と受けとめたりして、国会の議席数で躍進していた。
第2次世界大戦後の東西冷戦の下の朝鮮戦争に日本をまきこむ「占領政策の逆コース化」の時期に、「国鉄3大ミステリー事件」は起きている。
松川事件では、ドッジラインによる緊縮財政下の大量人員整理に反対した日本共産党の影響下の国鉄・東芝松川工場労働組合員の共同謀議による犯行との、見込み捜査が行なわれたとされる。
松川事件では、昭和25年の第1審で20人の被告全員が有罪(うち死刑5人)だったのが、昭和28年の第2審では17人有罪(死刑4人)に、裁判が進むにつれて被告らの無罪が明かるみに出て全員が無罪となり、最後は未解決事件とされた。
他方、国粋的右翼活動家や大陸から帰国した元軍人らによる祖国赤化防止の反共運動もあった。
高名な政財界人や「日本の黒幕」の児玉誉士夫らが、CIAと関わりがあったことは前述した。
松川事件の第1審は朝鮮戦争が始まった年、第2審は終結の年だった。広津和郎が中央公論で「無罪論」を展開したのがきっかけとなって、多くの著名人が支援活動に参加し、世論の関心を高めたことも記憶にある。
それら作家・知識人に、宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、坪井栄などの錚々たる名前がある。
それはともかく、そろそろモースルの旅の場面に戻り、古代イラク・ニネヴェ遺跡のことなどを書こうとした矢先に、9月に大統領選挙を迎えるオバマ大統領が、内戦と化したシリア情勢の打開に向け、反体制派支援の非軍事的関与をCIAに命じたとロイター通信が報じた。
つい先、『イランはこれからどうなるのか』を紹介したばかりだが、イランで長年に及ぶCIAの活動が反米的運動と現在のイスラム原理主義の政権を生み、アサド政権と組んで反イスラエル的な動きをしているなか、大統領の指揮下にあるとはいえ、オバマ氏がCIAに極秘指令を出したことには、正直驚いた。
ジョン・パーキンスが言っているように、経済的な国家侵略でのCIAの出番は減っていても、他国の政権移行への介入には、その謀略活動が欠かせないようにみえる。
モースルに戻るのは、もう少し、先延ばしすることにしたい。
「アラブの春」の行方は、長期独裁政権が崩壊した国々のこれからの民主化の進展にかかっており、アサド政権の傍若無人な民衆殺戮が止まぬシリアをめぐる欧米諸国とロシア・中国の対立に、東西冷戦の幻影を見る思いがする。
8月4日の朝日(朝刊)は、国連とアラブ連盟のシリア担当合同特使、アナン前国連事務総長の突然の辞任表明を報じ、アナン氏支持を打ち出しながら内部対立に終始し、有効な手立てを講じられなかった安全保障理事会への抗議という。
アサド政権軍と反体制派の戦闘がつづくシリア北部アレッポの住民が隣国トルコへ脱出する一方で、自宅から身動きできず食料が不足して、人命が危険に晒されている状況に対し、アナン氏は、「どのようにシリアを救うべきか、去り行く私の助言」(フィナンシャルタイムズ電子版掲載)で、アサド大統領の退陣なしに内戦を沈静化するのは困難としている。
シリアでは、2011年3月の非暴力的な反政府デモが武力紛争に発展し、これまでに1万9千人以上の犠牲者が出たとされ、イスラエルと長年対峙し、中東和平のカギを握ってきたシリアの行方に、世界各国が重大な関心を寄せている。
シリアへの経済制裁を主張する欧米にロシア・中国が異を唱え、安保理がアサド退陣への有効な手立てを立てられずにきたが、欧米・ロシア・中国のそれぞれの立場と思惑は複雑にみえる。
制裁に反対しているロシアと中国は、内部干渉を理由にしているが、それぞれに反体制的な事態が生じることを怖れる国内事情があり、冷戦時代に資本主義国に対峙した結束ではなかろう。
反アサド政権で結束するサウジアラビアやカタールなどアラブ諸国は、住宅地で重火器を使用しているアサド政権非難の決議案を国連総会に提出するが、採択されても、加盟国への法的拘束力はない。
1日のロイター通信などによれば、オバマ大統領は、アサド政権の退陣に向けて反体制派が必要な支援を提供するように、CIA(米中央情報局)などに極秘の指令を出したとある。
ただ、米政府による反体制派への武器供与には、「武器を増やしても平和的な政権移行は実現できない」と否定的で、これまで反体制への武器供与はカタールやサウジアラビアにより、銃器に限られているという。
アナン氏の唐突な辞任表明はシリアに派遣されている国連停戦監視団の存在意義を揺るがせており、19日まで任期延長を決めた安保理で拒否権を持つ米仏は、撤退を明言するようになった。
ロシアにとってアナン氏は、欧米によるシリアへの軍事介入をけん制して、リビアで機敏に動いた欧米に先を越された「リビアの悪夢」の再現を阻止するよりどころだったようだ。
アサド政権に戦闘へリなどの武器提供を続けているロシアのプーチン大統領にとって、シリア国民の人権や生命の危険よりも、中東のヘソとなっているシリアを欧米の意のままにさせるわけにいかないのだろう。
米国の政治経済に絶大な影響力を持つユダヤ人にとって、イスラエルへの対抗で連携するイランとシリアの緊密な関係は、最大の関心事であろう。
イスラエルには、イラクとシリアの原発を不意打ちの空爆で破壊した前歴があり、イランで同じことを実行する構えもみせている。
オバマ政権は懸命にその自制を促してきたが、シリアの反体制派支援でどんな動きをCIAに求めているのだろうか。
9・11後すばやくイラク侵攻を決めたのは、フセイン大統領が大量破壊兵器を隠匿しているとのCIA報告を根拠にしたが、後に誤報とされた。
当時、ブッシュ大統領と共にイラク侵攻を決断したコリン・パウエル国務長官は、「自分の生涯で最も恥辱的なこと」と述懐している。
パウエル氏は、ブッシュ大統領・チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官らのように戦争をしたがる人物ではなくみえていたが、大量破壊兵器があるとの情報を信じたパウエル氏は、侵攻を決意せざるを得なかったようである。
アサド政権が化学兵器の保有をほのめかして、国境を接するトルコ・イスラエルを牽制するなか、米国務省は、通信手段など武器以外の物資2千5百万ドル相当を反体制派に支援することを表明しているが、ロシア側では、「欧米が自由に軍事作戦ができるようにアナン氏の退場を望む勢力がある」との情報を発信し、反体制派支援の欧米やアラブ諸国を暗に批判している。
国連は、内戦状態にある国の民衆の自由と生命を守る役割を果たすべきだが、安保理事会が拒否権発動で機能せず、総会の決議も法的拘束力がないとなれば、欧米・ロシア・中国・アラブ諸国の思惑が入り乱れるなかで、多くの死傷者・難民に救いの手は届かない。
自由と民主主義を錦の御旗に侵攻したブッシュ政権は、フセインの統治下でそれなりに暮らしていたイラク国民に国家分裂の危機を与えただけでさっさと引き上げてしまった。