アラブと私
イラク3千キロの旅(69)
松 本 文 郎
ある日のこと、ニムルドから筏で川を渡ったレイヤードは、沙漠を通って天然アスファルトの採取場に行っている。アスファルト(瀝青)は、王宮・城壁など構築物造営の日干し煉瓦を積み重ねる接着剤として、古来から重要な建材だった。
当時その近くに住んでいたジャブール族は、これをモースルへ売りに行ったという。建材としてだけでなく、川舟の防水材や駱駝の皮膚病を治す薬にもなったそうだ。
その日は、アッシュールの北10マイルほどのテントに露営していた天幕に宿を求めた。
翌日の昼過ぎ、遺跡に向かう一行が進む叢茂沿いの道の目の前を、野兎、狼、ジャッカル、狐、猪が、ひっきりなしに横切ったとある。
この辺りにはライオンも数多く棲んでいて、チグリス川畔にその姿を見かけ、川を下る舟で、岸辺の重々しい咆哮を聞いたりしたという。
古来、百獣の王とされるライオンは王侯の紋章に描かれ、ライオン狩りは王者のスポーツとされてきた。
1853年12月のニネヴェの王宮跡から発掘されたレリーフ「アッシュール・バニパル王のライオン狩りの図」(大英博物館蔵)には、傷つきながらも人間に挑みかかるライオンの姿が、見事に描かれている。(筆者もイラクの旅の2年後の夏休みに家族と訪れたロンドンで観た)高橋英彦氏の著書によると、メソポタミアのライオンはオスマントルコ時代まで生きのび、パシャ(オスマン帝国の将軍・司令官 筆者註)たちもライオン狩りを楽しみ、イラクで最後のライオンは、1920年代の半ばのバグダッドの南170キロの椰子の林の中で、イギリス人によって殺されたそうだ。
「古代や中世の大王たちだけでなく、トルコのパシャや西洋人が遊びのために百獣の王を狩るのは、身のほど知らずの驕慢の感なしとしない」、と高橋さんは述べている。
レイヤードたちは、族長アブドウルッボウが見つけた遺丘の南の河畔の牧草地に、天幕を張った。
夜になると、嵐に襲われ、雷鳴がとどろき、稲妻が真昼のように風景を浮かびあがらせて、四周からはジャッカルの吠え声が、怖れおののいて泣いているかのように聞こえたという。
ジャッカルを別にすれば、バグダッドに向かう私たちが車の中で目にした光景に重なる。
レイヤードの『ニネヴェ及びその遺跡』には、
「黄昏の最後の閃光が西の地平線から消えるとすぐに、何千という獣たちが廃墟の中のすまいから吠えたてはじめたのだ。………それは、かかる光景に接した人にしか理解できぬ荒廃、アフリカ沙漠の不毛よりも、はるかに恐るべき荒廃である。そこに感じられるものは自然のみならず人間の破滅である」と書かれている。
レイヤードは、古代のアッシュールは、地味に富み、灌漑に好適な、よく選ばれた地だったとの感想も述べているという。
レイヤード一行の帰路には、シャンマル族やアネイザ族の出没の危険があるとして、族長のアブドウルッボウの申し出を容れ、8騎の男たちに守られ、モースルに近いハンマーム・アリに向かって無事だったが、レイヤード一行とは別の帰路をとったアブドウルッボウたちは、アネイザ族と遭遇して激しい戦闘となり、敵2人を倒し、味方の1人を失い、馬2頭を奪ったという。往時の沙漠の旅の恐ろしい逸話だ。
「今日の午後、ネストリウス派教会の牧師さんから、モースルの北の高原地帯がアッシリア王国誕生の地と聞きましたが、ハッサンの先祖は長くこの地に住んでいたのですか?」
「そう聞いています。私の家もネストリウ派で、その牧師さんはよく知っていますよ」
「アッシリア王国が滅亡した紀元前609年までの全盛期は、モースル周辺が首都の時代と教えてくださいました。地下のワイナリーから出したばかりのワインを飲ませていただいて、アッシリア時代にタイムトラベルした気持ちになりました」
「それはよかったですね。アッシリア人の末裔と思っていた私の祖父母たちは、牧師から聞かれたように、イラク独立前のオスマン帝国時代には、民族浄化の集団殺戮の恐怖に怯えていたのです」
ハッサンが、アッシリアの歴史や遺跡をよく知っているのは、そんな家系が背景にあるからだろうと推し量った。
アッシリアは、武断で広大な版図を領有して覇を唱えた最初の世界帝国だが、その疾風怒涛の征服王朝の時代は、長いアッシリア史の最後の3百年だった。
アッシリア人は、遠い昔に西方の沙漠から北メソポタミアへやってきたセム人で、アッシュールは、長い雌伏の年月の中の初期アッシリア王国の首都である。
ニムルドの遺跡はモースルから南30キロ、アッシュール遺跡の少し手前にあるが、明日は、どちらにも寄る時間はない。
ハッサンの説明では、ニムルドは、チグリスに向かってゆるやかに起伏する荒野の一つの丘で、ジグラット(聖塔)、西北宮殿、中央宮殿、西南宮殿跡が確認されているという。
高橋氏は、私のイラクの旅から4年と6年後の2回にわたりニムルドを訪ねられているが、その折の紀行文を引用させていただく。
「(前略)、ニムルドの遺跡には人影もなく、車をとめ、発掘中の宮殿跡のトレンチ(溝)まで歩いた。溝の中に、まだ泥をつけたままの有翼神獣や楔形文字板が残されており、しゃがみこんでスケッチをした。130年前にレイヤードがしたように」
「画帳をたたんでジグラットに戻る頃には太陽が西に傾き、冷たい風の流れる野末には家路を急ぐ羊の群れが逆光に映えて紫がかった炎のように見える砂塵を巻き、東北国境の雪の連山が茜色に染まっていくのが遠望できた」
「再びニムルドを訪れた1977年の11月の下旬も巡礼月祭日だった。午後から出かけてニムルドに着いてみると、(発掘された遺跡には・筆者加筆)いつの間にか柵が設けられて、見物客はその中だけを歩くことができる。
ニヌルタ・イシュタル神殿、西北宮殿、中央宮殿の一部にあたる領域で、粗い日乾し煉瓦造りではあるが、発掘した宮殿の床の上に間仕切りが再現され、最近発見された浮き彫り石板(レリーフ・筆者註)が並んでいる」
「この野趣に富んだ展示には、2600年を経たアッシリア王都の遺跡に脈打つ古代の息吹が汲みとられ、このイラク考古局のロマンティックな試みは成功している(筆者略記)」
「とある浮き彫り石板の前に腰をおろして写生をした。じっとしていると肌寒い。老番人が通りかかり、「ゼーン(善哉)」と人のよさそうな笑顔でうなずいてみせる。(中略)
画帳を閉じる頃は薄暮で、神や王や侍臣の姿もしだいに色どりを失い、石のなかにぬりこめられてしまった」
「しばらくして、車を走らせて振りかえると、ニムルドは、残照に縁どられた色濃い影絵であった」
「車をとめて、黄昏の野に立ち、古代を偲んだ。そこには、夕闇に漂う古代人(アッシリア人)の夢や考古学者の思慕が感じられた。かつて、この大地に営まれていたものは、王の尊厳、王の偉大、王の残虐、将軍の勇気と野望、兵士の誇りと涙、農民の労苦と収穫の喜び、商人の貪欲と豪胆、職人の得意と矜持であり、老若男女の喜怒哀楽であったろう」
「アッシリアの社会は、生まれながらの高官、将軍、高僧になることを約束されたマール・バヌーティ、商人、金融業者、書記、親方、職人などを幅広く構成するウムマーヌ、小作人や兵士であるフプス、そして最下層の奴や奴婢であるアルドウという四階層に分かれており、それぞれに定められた運命の中を精一杯に生きてきた」
長い引用となったのは、(67)で書いた、バグダッドを訪れた池澤夏樹さんが古本市で見つけた本『星と風のバグダッド』の著者が、なんと、高橋さんだったからである。
高橋氏は、三菱商事社員としてバグダッド在勤をした人で、現在の筆者のように、旅先の風物をこまめにスケッチされ、「イラク風景画展」を、イラク情報省・文化省や在日イラク大使館の主催で、それぞれに開かれたと分かったからでもある。
モースル近辺のアッシリアの数々の遺跡で、翌日、ユーセフと訪れることができたのはニネヴェだけでだが、ガレージを辞する前、旧約聖書に書かれている興味深い神話を、ユーセフが話してくれた。
(続く)