大学卒業55周年同窓会
2012年11月3日(土・祝)
「京大建築学科卒業55周年記念同窓会」で、久しぶりの京都を妻の千代子と訪ねた。彼女とは、郷土が誇る教育家森戸辰男が、“敗戦日本の復興は教育だ”として創設した広大付属福山校の第1、2期生で、私の1年あとに同志社へ入って、3年間の大学生活を共にした。
卒業して5年毎の集いの35周年だけは、食道がん手術を受けたばかりの病床にいて参加できなかったが、次の佐渡の同窓会では、食道がん手術の戦友Y君(奈良女子大学名誉教授)と再会し、互いの再生を喜び合った。
食道全摘出で再びのいのちと新たな心境を得てからの5年間、半生を省みながら、第二の人生の生き方を模索していた私は、10年ぶりに会う学友らのことを知りたくて、同窓会幹事諸兄に各自の近況や所感を書いた文集を編纂・作成・配布し、事前に読んで歓談のよすがとすることを提案し、その担当を買って出た。
20数名の原稿(家族・旅行などの写真入り)の割り付け、DPEショップの店頭のコピー機を長時間占用しての作業は、生半ではなかったが、『栞』と名付けた冊子は好評で、担当をつづけて今回が4冊目だった。
40周年では、筆者の元職場の宿泊施設「奈良・万葉荘」を借り切る段取りもしたが、その時点で過去最大の参加者で賑わいだ。
前回の50周年では、第1回に出ただけでずっと欠席していた黒川紀章君からの寄稿はなく、参加の連絡だけがあった。だが、『栞』の割り付けを終える矢先に急逝が報じられたので、朝日の朝刊記事と「評伝」を収録して追悼の意とした。
5年前と同じ南禅寺の老舗料亭「菊水」の昼食会参加者は学友11名と夫人2名で、一泊した前回の20名(夫人2名)からは大幅減だったが、亡くなったのは2名で、都合がつかない2,3のほかは、がん闘病、リハビリ、夫人の介護などで参加できないと幹事へ連絡があった由。
京都に向かう新幹線の窓に冠雪が目映い富士を見た好天に恵まれ、南禅寺界隈にも、心地よい陽射しとさわやかな風の晩秋があった。
宴席は、「菊水」の美しい庭を望む座敷に高齢客への気くばりの低い籐椅子とテーブルがしつらえてあり、正午過ぎから三々五々に集まって談笑するうちに会は始まった。11回目の集いの場は、喜寿を超えて晩年に向かう学友らの和やかな話声と穏やかな笑顔で満ちていたが、近くの席からすすめられるビールや酒に、無頓着に杯を空けて応じているのは私たち夫婦だけだった。
お千代は、30周年の嵐山「嵐亭」で、京大総長も務められた前田敏男先生(高知いごっそう)の前に座り込んで日本酒を注ぎ合ってから、亡くなられるまでの十数年、絵入り手書きの年賀状を戴いたのが懐かしい。夫人同伴を旨としながら最多は5人参加のなかで、彼女は皆勤だった。
開会のあいさつは、京大名誉教授のM君が、半世紀も教員をしてきたクセで講義調になったと言いながら、過不足のない行き届いた話をした。彼の寄稿文には、緑内障・関節炎のほか、いくつかの持病診断があると書かれていた。
各人のスピーチでは、現役時代に一途に仕事に取り組んだ頃とは打って変り、円熟した心境で自在に生きる日々や、障害や病気と穏やかに向き合う境涯などが語られ、入学時30名から物故した12名も偲んだ昼間の宴は、集合写真の撮影のあと、お開きとなった。
「菊水」をすぐ近くの琵琶湖疏水記念館を訪ね、1988年の開館前の建設管理を担当したK君の案内で120年前の開鑿工事のジオラマなどを見学したあと、明るい夕日がさすテラスで、インクラインから西に伸びる水路を眺めながら、しばらくは名残りの談笑がつづいた。
今回を最後に定例の同窓会はなくなったが、なにかの機会に集うことを願いながら散会した。