アラブと私
イラク3千キロの旅(70)
松 本 文 郎
初期アッシリアの砦の町だったモースルのガレージの主ハッサンが、アッシリアの歴史や遺跡について熱っぽく話してくれたので、やはり、アッシリア人の末裔ならではと感じた。
コーヒーのお代りを勧められて頷くと、また、さっきの少年が小走りに出て行った。
「あの少年は自動車修理の見習いですか?」
「そうですよ。家が貧しいので小学校しか出ていませんが、車のメカに興味があって熱心に働いています」
「車の構造やパーツを理解するには、中学くらい出ていないとむずかしいでしょうね」
「でも、アタマがいいので一つ一つ教えると、のみこみは早いですよ」
「そんな少年たちは日本にもいますが、昼働いて、夜間中学に通っています」
「すばらしいですね。バース党は、新しいイラクの国づくりには学校教育が最も大切と考えていますから、いずれ、夜間の学校の制度ができると期待しています」
こんなやりとりをしているうちに、少年が出前の男と戻ってきた。
男がトルココーヒーをテーブルに並べる間、少年は好奇のまなざしで私を見つめている。
「キミは、車を修理する仕事が好きなようだね。ボクらが乗ってきたトヨペット・クラウンは、日本の車の中ではすぐれていると思うよ」
通訳したユーセフが少年の言葉を伝える。
「とてもカッコいい車ですね。モースルで走っているトヨタ車は小型トラックが多いですが、こんなのがガレージにくるようになってほしいです」
「ご主人はいい人のようだから、しっかり車の勉強をして、はやく、一人前の修理工になってください」
「シュクラン・ヤーニ。バッシュモハンデス!」
アラビア語の「バッシュモハンデス」の意味は偉大な技術者だが、欧米で尊敬される職能である建築家にも使われる尊称だから、ユーセフは私が建築家だと少年に告げたにちがいない。
クウエート郵電省の雇われ建築家でカイロ大出のボーラス氏も、私をバッシュモハンデスと呼び、自身もそう呼ばれるのを期待していて、時たまお愛想に云うと機嫌がよい。
熱いコーヒーでリフレッシュした私たちは、再び、ニネヴェの話に戻った。
今度は、ユーセフが口火をきった。
「チーフは、旧約聖書にニネヴェのことが書かれているのをご存じですか?」
「ぜんぜん知らないヨ! どういうこと?」
ユーセフの語りにハッサンも口をはさんだ話を、高橋氏の著書とウイキペディアの関連記事で補強しながら書いてみよう。
アッシリア大帝国は、武断で広大な版図を領有して覇を唱えた最初の世界帝国で、アッシュール・ナシルパルが王位についた紀元前885年からアッシリア滅亡の紀元前609年までだが、その疾風怒濤の征服王朝時代は、約2千年に及ぶ長いアッシリア史の最後の時代。
牧歌的だった古代社会の残渣もないような征服時代には、略奪と破壊、野望と富、建設と栄光、その陰に埋もれた無数の悲惨があった。
武力制圧した土地の敵対する相手を倒すことで周辺をふくむ地域の秩序と平和を維持したのは、その後の大帝国にもみられるものなのに、古代のいかなる帝国と比べても、残忍さでは悪名が高い。
刃向う者への容赦ない制裁で四周への見せしめにする征服者の常套手段は、その激しさで類をみないほどだという。
東西対立の冷戦時代の朝鮮・ベトナム戦争、アフガン内戦でオサマビンラーディンと共にソ連と戦った米国は横においても、中南米諸国の反米政権転覆や9・11への報復で進攻したアフガニスタンやイラクで、一般市民を巻き込む容赦ない戦闘をくりひろげた米軍の実体に、アッシリア大帝国による征服の様相が重なる。
旧約聖書の『ヨナ書』にあるニネヴェ滅亡の預言の考古学的な証拠には、紀元前701年にユダヤを攻めたセンナケリブ王のことを記録した六角柱の粘土板(発見者の名前にちなみ、テイラープリズムと呼ばれ、大英博物館所蔵)がある。
それが伝えるところは、生きながら杭に刺し、生皮を剥ぎ、猛火に投げ入れ、宴席では椰子に吊り下げられた敵王の首が興をそえる。
アッシリア歴代の王は、己の残虐さを誇らしげに粘土板に彫らせて、末永く後世に伝えようとしたのだ。
人類史にみる征服者の残虐さは、アッシリアのほかのさまざまな帝国にも見られるもので、近現代史でも、ナチスドイツを筆頭に、日本をふくむ各国の残虐行為は枚挙にいとまがない。
人類全体への宣教師のように、「人権問題」を声高にアピールする米国が犯した、イラク国人への非人道的で残虐な拷問も記憶に新しい。
こうした残忍さの一方で、アッシリア人は、古典に憧れ、美を愛し、それらを子孫に伝えようとしたのも忘れてはならない。
南のバビロニアに比べて後進性が目立った北のアッシリアの武人たちは、坂東武者が京の雅に憧れたように、バビロニア文明に憧憬を抱いたようである。
富を獲たアッシリアの王たちは、その栄光のを顕そうとニップールやボルシッパのシュメールの神殿を再建し、厖大な量の古代書を集めた図書館を新帝都ニネヴェに営んだ。
粘土板の文書は、アッシュール・ナシルパル王の軍団が砂漠や山岳を越えて進軍し、紀元前859年のある日、落日の地中海に達したことを記録している。
この遠征のほか、この王の名を不朽にしたのは、現在はニムルドの新王都カルフの造営だ。
その場所は3百年を経た古城の跡だったが、古い遺丘の北端近くの川を見下ろすところに、華麗な彩色煉瓦やレリーフ石板で飾った宮殿を建て、豪勢な落成の祝宴も記録されている。
1万4千頭の羊、1万の羊皮袋を満たす酒、ありとあらゆる香料、山と積まれた椰子の実が饗され、客は、王都カルフの住民1万6千人、千5百人の廷臣、4万7千余人の王国の民らに、近隣諸国からの祝賀の使者5千人を数えたと記されているという。
その祝宴の情景を想像した高橋氏の記述は、1編の叙事詩のようだ。
“篝火が神や王や人面翼神獣の浮き彫り石板の壁に深い陰影を刻む大広間でも、月光が果樹の緑を蘇らせる庭園でも、人びとは宴の華やかさに酔い、妖艶の舞姫に見とれ、しみわたる歌声に心を動かされた。もはや王の偉業を称えぬ者、永遠のアッシリアに懸念を抱く者はいないように思えたことだろう”
この王の後継者シャルマネセル3世は、治世35年の大半を戦陣で過ごし、その後の王らも、征服地をひたすら懲らしめながらも、被征服地でアッシリアに味方した者を属領の王に登用する政策をとってきたが、反乱がやむことはなかった。
そうした状況がつづいてきた紀元前700年代のなかば、偉大だけでなく名君と呼ばれたティグラト・ピレセル3世があらわれ、征服地において「寛大」と「忍耐」を示したという。(この二つが欠如していたブッシュ政権に代わり登場したオバマ大統領の再選に期待する)
彼は、より強力な中央集権化をはかり、王の官吏が代官として統治する郡県制度を導入し、中央政府の官僚機構も大いに整備したという。
従来の農民兵にかわって強大な常備軍が置かれ、中核には近衛軍団があった。広大な領土を結ぶ駅逓制度の発達をみた時代でもある。
この王の時代に、被征服地の民の強制移動が盛んに行われたが、敗北者を故郷の大地から引き離すという勝者の行為は、バビロニアへと受け継がれ、旧約聖書にあるユダヤ人のバビロン捕囚も生じたのである。(「バビロン捕囚」のヴェルディのオペ『ナブッコ』を、サマーラの塔へドライブしてアハラム・妹と昼食を楽しんだレストランで話題にした既述を、乞再読)
そのような町ぐるみ、村ぐるみの強制移住ではなかっただろうが、懐かしい家を出て、日本へ連れてこられた統治下の朝鮮半島の人たちは、2千数百年も前と同じ仕打ちを受けたのだ。
ティグラト・ピレセル王は、「余は、わが国民を平和な環境の中に住まわせた」と石碑に刻ませたが、国に秩序を与え、民が枕を高くして眠れる治安をつくりだし、なによりも自分と国を富ませるための征服であり、敵の虐殺であり、それが王の正義と考えていたのであろう。
その正義を行うために君臨し、統治し、納税と略奪によって国庫を満たし、自らを国家そのものとして振舞えたのだ。(中東の石油への覇権を維持する米国の戦略でも、似たような「正義」が振り回されているように感じる。)
最後から二番目の王アッシュール・バニパル時代の大帝国版図は、かってない広大さを誇り、イラン高原から小アジア、さらにナイルの谷の一木一草のすべてが、ニネヴェに向かってひれ伏したという。
この大王は文学・美術に造詣深く、大図書館には津々浦々から集められた粘土板古典文書が溢れ、後世の楔形文字解読やシュメール文明を知る貴重な資料がとどめられた。
だが、紀元前629年に王が世を去ったときイラン高原の新興国メディアと勢力を盛り返しつつあったバビロニアが、アッシリア大帝国内部の乱れを待っており、王宮の陰謀も相次ぐ乱世を迎えていた。
ユーフラテス河とザクロス山の間に使者を行き交わして盟約を結んだバビロン・メディア軍は、北方のスキタイ軍を加えて、ニネヴェに襲いかかって陥落させ、破壊と略奪のかぎりをつくした。それが、紀元前612年である。