「共感」を考える研究会 2012年12月28日(金)
松 本 文 郎
「松本文郎のブログ」の編集者・森下愛理沙女史のお誘いで、標記の研究会に二回参加した。
初回の参加は、放送大学・文京学習センターで開かれた「第6回公開研究会」で、妻のお千代も同席させてもらったが、このユニークな研究会は、仲島陽一氏(東洋大学・放送大学講師、哲学)と山崎広光氏(朝日大学准教授、倫理学)の肝いりで2007年に発足し、毎年一回の公開研究会を開いているという。
配布資料に書かれた《共感を考える研究会とは》(遠藤能行氏)を一部引用すると(文責筆者)、“混迷する現代社会状況の中で人間は幸せになれるのか、宗教で救われるのか、芸術ではどうか、といった疑問に、原初的な人間の感情「共感力」からアプローチして、さまざまな社会システムを新しい視点「共感」から見直してゆき、共感(共感力)を通して感受する事象を考えることで、人間の求める根源的な欲求の「幸福」を得るにはどうすればよいかを考える集まりとされる。
「共感」は極めて幅広く使われている言葉だが、国語辞典に現れたのは戦後だという。仲島陽一氏の『共感の思想史』に、「確かにいえることの一つは、多くの思想家や理論家が「共感」の問題を重視したこと」とあるそうだ。
第6回の文学面から「共感」を考えた研究会の講演は、「ヒューマニズムと共感 渡辺一夫を通して」(木原太郎氏・代々木ゼミナール講師)と「ハックルベリー・フィンの反『回心』(上記の山崎広光氏)で、仲島陽一氏の司会進行と質疑応答があった。
二回目の参加は、時間的な制約で十分な討論ができなかったとして7月に開かれた臨時例会で、4月のテーマに関わることと共感に関わる自由討論があり、筆者も、「《共感研》に共感して」と題して、自由討論のなかで小論を述べる機会を与えられた。
「共感して」と言っても、その概念規定(日本語・英語ほか)の差異、各人の言葉の用法・限界などもあり、広辞苑の「他者の考えや主張を、自分もまったく同じように感じ、理解する」ことがいかに難しいかを思い知った自由討論だった。
二度参加した研究会の参加者の真摯さと熱心さに“共感”したが、しばらく経って仲島氏から森下女史への伝言があり、来春の研究会で「テーマ発表」をしないかとの打診があった。
世の中の人々が「共感」という言葉を頻発しているのに好奇心を煽られはじめていた筆者は、二言返事で快諾して、早速、その準備にとりかかった。
それは、親しい人々との定例の二つの集いで、「共感」について話をして反応をみることだった。
まず英語圏ではと、「Ginny(米国女性)と英語でお喋り・討論の集い」の場で話題提供をしたが、「Sympathy」の訳語は「共感」だが、筆者が思っていたように、「Empathy=感情移入」と分かちがたい面があるとGinnyさんも指摘。ただ、「共感」のニュアンスは積極的なものなのに、「同情」の訳のネガティブな感情もあると聞いて驚いた。日本人男女との質疑討論もよかった。
他は、「こぶし会」(NTT本社OBの月例会)の第322回で、「共感について」と題して話をし、有意義な質疑応答もさせてもらった。(1時間半)。この会では毎回、会員2人がきわめて広範囲な話題を提供し、論議してきたが、「共感について」は、はじめての話題だったようだ。
人類発祥の原初からの“人間の感情”とされる「共感」が、混迷を深める人類社会の「幸福感」の欠乏状況からの脱出、さまざまな紛争や戦争の回避に重要な役割を担うと強く感じる筆者は、人類が原初に目覚めたと思われる「自然信仰的な宗教心」や「絵画・音楽」で感受(「共感」)したであろう「幸福感」について、小論をまとめてみたいと考えている2012年の年の瀬である。