アラブと私 
イラク3千キロの旅(11)
 
              松 本 文 郎

 こんな背景からか、ムハンマドの教友のなかには、アリーを特別な存在とみるだけでなく、ムハンマドがアリーを後継者に指名したとみなした人もいた。
 ところが、カリフに選出されたのは、ムハンマドの教友の一人で長老格のアブー・バクル
だった。 彼は、ムハンマドの最初の妻ハディージャの没後に、最愛の妻となったアーイシャの父である。
 論争の末にアブー・バクルがカリフに選出されたとき、アリーはムハンマドの葬儀の準備のために不在だったが、事後報告を受けて承認した。

 初代カリフは無事に決まったが、ムハンマドの死を理由にイスラム共同体を離反する部族が相次ぐ。
 アブー・アクバルは卓越した采配で離反した部族を征伐したものの、就任後二年で没した。死の直前、長老ウマルを第二代カリフに指名。
 ウマルはカリフ在位十年間にササン朝ペルシャを征服し、ビザンチン帝国軍も破って、イスラムの共同体版図を一挙に拡大させた。
 ウマルは死ぬ前にアリーを含む後継者候補を指名したが、第三代に選ばれたのは、古くからの信徒であったウマイヤ家のウスマーンだった。

 彼の最大の功績は人の記憶頼みだったコーランの章句の収集編纂し、今につたわるコーランの正典化に貢献したこととされる。
 その一方で、彼の統治は後世に禍根を残すことにもなった。ウマル時代に拡大したイスラム共同体の支配地域安定のためにウマイヤ家の身内を優遇したことへの批判が噴出し、不満分子によって殺害されてしまったのである。
 ユーセフも同意したのは、身内や側近・取り巻きを優遇するのは、古今東西かわらない権力者の常套手段で、その末路はおおむねかんばしくないことだ。
 ウスマーンが殺されたあとの第四代カリフに就任したのが、ムハンマドの従弟アリーだった。
 このようなムハンマド没後のカリフ選出の過程には、いたずらに争わず、イスラム共同体の知恵を生かした判断と選択があったと思われる。
 サマーワの手前の車中でユーセフが話したように、イスラム共同体の統治権は三代つづいたスンニ派のカリフからシーア派のアリーへと、それなりに継承されたようである。

 ではなぜ、カルバラがシーア派の聖地になったのかを、クリスチャンのユーセフが物語ったイスラム史から紹介しよう。 
 発端は、ムハンマドの血筋アリーのカリフ就任に対して、シリア総督のムアーウィヤが「バイア」(臣従の誓い)を拒否したことである。
 ウスマーンと同族のムアーウィヤは、ウスマーンが殺されたあとウマイヤ家の長となるが、彼の父は長い間ムハンマドに敵対した人間だった。この父子は、ムハンマドが六三十年にメッカを征服したとき改宗したが、その信仰心の程度については評価が分かれるとされる。
 つまり、ムハンマドやアリーが属するハーシム家とウマイヤ家とのあいだには、イスラム史初期から共同体の指導権をめぐる確執があったのである。
 なんだか、ほぼ同じ年代にわが国で起きた、仏教伝来がきっかけの蘇我氏と物部氏の権力争いに似ていて、多様な人類社会のなかの類似性が面白い。

 ハーシム家打倒を目論むムアーウィヤが、一部の教友を従えてアリーに戦いを挑んだのは、六五六年のことだったこの戦いで、アリーのカリフ就任を不快に思っていたムハマンドの未亡人アーイシャ(二代目カリフのアブー・バクルの娘)がラクダに乗って戦場に現れたので、「ラクダの戦い」と呼ばれているという。
 戦いに勝ったアリーは、アーイシャをメディナに戻し、自らは歴代カリフが住んだメディナを離れ、イラク中部の都市クーファへ移った。
 ムアーウィヤはその後もアリーへの臣従の誓いを拒み、六五七年、両軍は再び、ユーフラテス上流のスイッフィーンで戦火を交えることになった。
 この戦いは勝敗が決まらず、調停の道を模索したアリーの妥協的な態度に失望した一派が袂を分かつ。

 六六一年、アリーは、離脱者と呼ばれたこの一派の刺客の手によりクーファで命を落とした。
 彼の死で、四代に亘った「正統カリフの時代」は幕を閉じ、シリア総督ムアーウィアは、ウマイヤ朝を開き初代カリフに就任した。
 その後、カリフの位はウマイヤ家の男子によって世襲されることになり、政権から追われたアリーの支持者たち(シーア派)は、ムアーウィアをカリフと認めず、アリー以前の初代から三代までのカリフの正統性も否定した。
 ユーセフが語るイスラム史の始まりを聞いたら、シーア派とスンニ派の当初の対立は、イスラム教典の解釈の違いなどではなく、共同体の統治権をめぐる権力の争いだと思えてきた。
 人類史上、異なる神を信仰する宗教間の争いで、信仰上の対立はあるにせよ、共同体の維持と版図の拡大こそが重要な目的だったにちがいない。

 アメリカ合衆国という超大な共同体の統治者であるブッシュ大統領は、自由と民主主義を「錦の御旗」のように掲げながら、独善的に他国に侵攻して、フセイン大統領を抹殺したものの、国民の大多数からは、独裁的だったフセインの時代の方がよかったと言われている。
 侵攻を命令したブッシュは、大統領の任期が終わるいまになって、イラク戦争の根拠とした大量破壊兵器の情報が誤って伝えられたと責任逃れに汲々としているのは、見苦しい。
 近代国家アメリカの政治システムの大統領権限は独裁的ではないものの、恐ろしいほどに強大だ。
 ブッシュ大統領の周辺にはキリスト教原理主義や石油・軍事産業にかかわる人間が集まってきたが、大統領権限を利用しようとする彼らを統御する能力が、ブッシュには欠けていたのではないか。
 米国の歴代大統領のなかで一番アタマがわるいと揶揄された彼だが、アタマはともかくとしても、どこか、人の好いオジサン的なイメージもある。

 記者団らに見せる人なつこい笑顔から、米軍兵士らによる残虐行為が暴露されたイラク駐留軍の最高指揮官が秘めている恐ろしさは感じない。
 イラク戦争の行方が混迷するなかで、パウエル国務長官はじめ良識ある閣僚・側近がブッシュを離れ、同時多発テロへの報復表明で得た九十%の支持率は八年間で二〇%台にまで下落した。
 引退一ヶ月余り前に突然バグダッドを訪れたが、記者会見の席でイラク人記者に靴を投げつけられ、首をすくめる無様な姿が米紙ワシントン・ポストの第一面に報じられた。

 フセイン元大統領を拘束してからちょうど五年。イラクに自由と民主主義が蘇ったことをアピールしたかった任期中最後のバグダッド訪問は、この一件で無残にも足蹴にされたのだ。
 靴を投げつけるのは、アラブでは相手への最大の侮辱だが、自分の国の大統領を侮辱されたことへの米国民の怒りはあまり報じられず、これをイラクの民主化の成果とする冷めた報道が目につくと、朝日新聞の「ブッシュ政権8年」の記事にある。


                                         (続く)



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2009/01/30 09:52 2009/01/30 09:52
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