アラブと私
イラク3千キロの旅(号外)
松 本 文 郎
国連総会は、パレスチナがもつ国連の参加資格を現在の「オブザーバー機構」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案を、賛成138、反対9、棄権41の賛成多数で採択した。
賛成票の日本の玄葉光一郎外相は記者会見で、「イスラエルと将来の独立したパレスチナが平和に共存する解決を求めてきた経緯から」と説明したと報じられた。
オブザーバー国家は、正式な加盟国とは異なり投票権はないが、国際社会が「国家」として認める政治的、象徴的な意味合いをもち、各種の国際機関にも加盟しやすくなるとされる。
パレスチナが国際刑事裁判所(ICC)に加盟申請して認められれば、かねてから「戦争犯罪」と訴えてきたイスラエル占領地での入植活動についてICCに提訴することもできる。
国際刑事裁判所は、冷戦終結後のユーゴスラビアやルアンダの民族紛争に伴う大量虐殺などの「人道に対する罪」を裁く臨時国際戦犯法廷が設置された経緯を踏まえ、1998年の外交会議で国際刑事裁判所規定が採択され、既設の国際司法裁判所と共にオランダのハーグに設置された。
日本は、105カ国目の締結国となって(2007年)からは積極的な参加姿勢を示し、日本初の裁判官候補や補欠の選挙で、日本人女性が当選を果たしている。
だが、米国、中国、ロシアなどは未加盟で、裁判の実効性の乏しさが指摘されてもいる。
今回の国連決議は、パレスチナ人の自決権と一九六七年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した「パレスチナ領土」をもとに、パレスチナ国家として独立する権利があると確認した。
採決では、日本のほか、フランス、中国、インドなどが賛成。イスラエルと米国、カナダなどが反対に回り、ドイツ、英国などが棄権した。
ドイツは、ナチス・ドイツのユダヤ人6百万人大量虐殺の負い目があり、英国は、第1次世界大戦の厖大な戦費の援助をユダヤ人豪商ロスチャイルド家から得ようとした「バルフォア宣言」(ユダヤ人国家建設を支持する外相書簡)、「フサイン・マクマホン協定」(オスマン帝国への武装蜂起を条件にトルコ統治下のアラブ人{イエフディ(現地ユダヤ人)とキリスト教徒も含む}地域の独立を認めた)、サイクス・ピコ協定」(連合国のフランス・ロシアの間で大戦後の中東分割を協議)などの三枚舌外交で、「パレスチナ・イスラエル問題」発端の張本人とされてきた。
これは、パレスチナの地をめぐるパレスチナ人とイスラエル人(シオニスト・ユダヤ人)との関係から生じた紛争を一つの政治問題として扱った呼称で、「カナン」の地に紀元前13世紀頃に栄えたペリシテ文明にちなんで、このあたりの地名がパレスチナとなった。
ペリシテ民族が滅亡したあとの紀元前10世紀頃、紀元前20世紀頃にカナンの地に移住していたヘブライ人(ユダヤ人の先祖)がイスラエル王国を建国し、エルサレムを中心都市として繁栄した。
三大陸の結節点としての地政学・軍事上の重要性から、イスラエル王国へは周辺国からの侵略が相次いで、王国は滅亡した。
紀元前135年、ローマ皇帝ハドリアヌスは、幾度も反乱を繰り返すユダヤ民族の「ユダヤ属州」を廃止。千年も前に滅亡したペリシテ民族の名前を引用して、「シリア・パレスチナ属州」としたという。
紀元70年にローマ軍によって国を奪われたユダヤ人は世界中へ離散(ディアスポラ)したが、
この地に残ったユダヤ人とキリスト教徒が、後年、イスラム教徒とも共存していた事実は重要だ。
この地へのイスラム帝国の侵入は7世紀だが、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力との間の対立抗争の舞台になったことは、古代モースルの記述の一部に書いている。
ヨーロッパから十字軍が攻め込んだ11世紀にエルサレム王国が建国されたが、12世紀末にはアイユーヴ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの地の大半は王朝の支配下に入る。
第1次世界大戦で英国・フランス・ロシア連合軍に敗れたオスマン帝国はマルムーク朝を滅ぼした16世紀以降、この地の支配者として君臨していたのである。
「三枚舌」と揶揄された英国の謀略は、ロシア革命のレーニンらによる外交文書の公表で明るみにされたが、パレスチナで仲良く暮らしていたアラブ人とユダヤ人は、英国軍隊の一員としてオスマン帝国に対決し、現在のヨルダンをふくむパレスチナは英国委任統治領となった。
現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動には長い歴史があり、彼らと共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かったのだ。
イエルサレムがユダヤ・キリスト・イスラムの3大世界宗教の聖地とされるのは、古代ユダヤ王国の宮殿(その礎石が、現在ユダヤ人が礼拝を行う「嘆きの壁」)があった所にムハンマドが啓示をうけた岩のドームがあって、アル・アクサー・モスクが建立されたことと、キリストが処刑されたゴルゴダの丘の聖墳墓教会もエルサレムにあるからである。
キリストはユダヤ人から迫害を受け、ローマ帝国によって殺されたので、ユダヤ・キリスト教徒の間には複雑な歴史があるが、イスラム教徒とユダヤ人が仲良く暮らした時代があったのだ。
エルサレムは第2代カリフのウマル時代の638年にイスラム教徒の支配下に入ったが、この時、ユダヤの教会は壊さなかったという。
その後ウマイア・アッバース・ファーティマの各王朝(661~1257年)に支配され続けたが、キリスト教やユダヤ教に寛大で、世界各地から多くの巡礼者がエルサレムに来ていたのだ。
しかし、1099年に十字軍によって占領されてエルサレム王国が建設されると、キリスト教徒は異教徒の活動を認めず、多くのイスラム・ユダヤ教徒が殺害されて、岩のドームはキリスト教会に改修され、アル・アクサー・モスクは十字軍騎士団の宿泊施設になった。
このエルサレムをイスラム教徒の手に取り戻した(1187年)エジプト・アユーブ朝の創始者サラディンは、エルサレム入城に際して、虐殺や破壊を行わなかった。
サラディン支配下のエルサレムでは、ヨーロッパからのキリスト教徒巡礼の自由が保証され、ユダヤ人コミュニティも復活して各宗教の棲み分けと共存体制がしだいに出来上がったことは、彼がクルド人だったことは以前の稿で既述した。イラクのフセイン元大統領はサラディンと同じ
ティクリートの町の出身だったという。
この共存システムが崩れてくるのは、19世紀のオスマン帝国衰退と近代ヨーロッパのナショナリズムの台頭で、ユダヤ人はゲットーと呼ばれる居住区に押し込められ、「キリストを殺そうとしたユダヤ人」との認識や特異な生活様式のため差別の対象にされていったのである。
さらに19世紀後半になると、キリスト教のロシアで、ポグロムと称したユダヤ人迫害と虐殺が大々的かつ頻繁に行われた。
こうした状況に直面したユダヤ人たちが、自分たちの国を造ろうとしたのが「シオニズム」で、
「ユダヤ人が迫害されるのは国をもたないからで、かつて神が示してくれた約束の土地、シオンの丘のエルサレムに帰ろう」という思想である。
この運動は、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害や大虐殺(ホロコースト)によって強められ、大戦後、ユダヤ人への同情が高まり、建国への弾みがついた。
ユダア人資産家たちが政治力をもつ米国内でのシオニズム運動は、1946~1948年にかけて、イスラエル国家建設のため米国議会や大統領の支持を獲得する上で、影響力をもっていた。
ナチスの迫害を逃れ米国に亡命していたユダヤ人は豊富な資金力で、米国議会に対する強力なロビー活動を続け、その中核はアメリカ・イスラエル公益事業委員会(AIPAC)で、イスラエルに不利な投票をした上・下両院の議員を次の選挙で落選させる実績をもつ。
1947年の国連によるパレスチナの地の分割決議は、賛成33カ国、反対13カ国、棄10カ国で可決されたが、その背後では、アメリカが各国に対して活発な働きかけをしたためだった。
ユダヤ人の人口はパレスチナ人の3分の1だが、56.5%の土地をユダヤ国家に分割した不公平なものだった。
「イスラエル・パレスチナ問題」は、初期シオニストのイすイスラエル・ザングウィル(1864
~1926年)が、「民なき土地に、土地なき民を」と言ったものの、その土地にはパレスチナ人たちが居たことに端を発したのを忘れてはならない。
1948年2月、アラブ連盟加盟国はカイロでイスラエル建国の阻止を決議し、アラブ人テロが激化するなかの同年3月、アメリカは国連分割案支持を撤回し、パレスチナの国連信託統治の提案をしたが、4月、ユダヤ人テロ組織、イルグン・レヒ混成軍がエルサレム近郊のディル・ヤシーン村で村民大虐殺を行い、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。
五月にイギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)を根拠に独立宣言したイスラエルが5月14日に誕生した。
それと同時に、アラブ連盟5カ国(エジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラク)
の大部隊が、独立阻止をめざしてパレスチナに進攻し、第1次中東戦争(イスラエル独立戦争またはパレスチナ戦争)が勃発したのである。
筆者が家族連れで在勤した(1970~1974年)クウエイト国電気通信技術コンサルタント事務所で雇っていたパレスチナ人オフィスボーイのイスマイルが、ディル・ヤシーン村での虐殺を激しい怒りをこめて話したことがあったが、それは、日本赤軍創立メンバー・最高幹部の奥平剛士が、テルアビブ空港で乱射事件を起こしたあとで射殺されたとテレビが報じたときだった。
若いのに立派な口ひげをはやしてオジサン顔のイスマイルが、いつも見せる人なつっこい笑顔とは真逆の形相で、「バッシュモハンデス! ニッポンの若者の快挙を称えます!まるで神風特攻ですネ!」と叫び、私に抱きついてきた。
そんな政治的な言動を、それまで全く見せなかった彼をやや訝しく感じて、対応に困った当時が思い出される。
事務所には、ヨルダン人の運転手のイムランとオフィスボーイのワヒッドもいて、イスマイルのように激した喜び方ではなく、静かに握手を求めてきたが、日頃、温厚そのものの人柄のイムランは、「私の村では、女子供もろとも、ほとんどの村人が1日で殺されました」と言い、ワヒッドは、「私たちは、あのイスラエル国がつくられる以前のようにユダヤ人たちと仲良く一緒に暮らしたいのです」と呟いた。
いずれにしても、クウエイトに来てすぐ起きたライラなどによる連続4機ハイジャック事件の時のアラブ人たちの激しい反応を思い出して、いきなり非難がましい論評を述べるのだけはさし控えたのだった。
ヨルダン人とは違って、イスラエルに理不尽に祖国を奪われたイスマイルは、イスラエルの国家テロによる大量虐殺に比べ、コマンドによる空港襲撃事件の復讐を、生ぬるいくらいにしか考えていないようだった。
事件後に日本から届いた新聞で、奥平剛士が京大建築学科の後輩と分かり驚いたが、岡本公三(よど号事件グループの岡本 武は次兄)と安田安之の3人がコマンド(パレスチナ・ゲリラ)と共に、手榴弾と自動小銃で民間人26人を殺害、百人以上を殺傷した事件だった。
翌年に起きたパレスチナ・ゲリラによる日本大使館の占拠事件の直前、大使館から日本人社会に、赤軍派最高指導者重信房子がクウエイトに入国・潜伏している情報があるので、人目のない沙漠に出ることを控えるようにとの通知があった。
奥平は、1971年に重信房子と偽装結婚をし、日本からレバノンのベイルートへ出国していたのである。
ウイキペディアの記事に、重信房子が最高指導者になった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を根拠地に、「革命運動」を自称して、1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携して、一連のハイジャックや空港内乱射事件などの無差別殺人を起こした。
さらには、外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館の攻撃で多数の民間人を巻き込むテロ事件を繰り返して、世界各国から非難を受けた。
クウエイト在勤中に体験した、パレスチナ問題をめぐるこれらの緊張したアラブ状況について、「イラク3千キロの旅」からクウエイトに戻って、さらに書くことにしたい。
とあれ、1947年のパレスチナ分割決議は、ユダヤ人のホロコーストにはなんの責任もないアラブ人に犠牲を負わせるかたちで、ヨーロッパが責任を果たしたことにしたといえよう。
言うなれば、「パレスチナ問題」とは、ユダヤ人への迫害が、ヨーロッパの問題からパレスチナの問題にすり替えられたのではなかろうか。
1948年のイスラエルの暴虐でパレスチナの地に住んでいた70~80万のアラブ人が難民となった(いわゆる「パレスチナ難民」)ことを、アラビア語で「ナクバ」(「大破局」「大災厄」)と呼ばれている。
ウイキペディアの記事では、パレスチナ難民の発生原因は、ユダヤ人軍事組織による大量虐殺、
銃器による脅迫・攻撃を怖れた結果であることが、イスラエルの政府資料や米国の諜報資料の公開とイスラエルの歴史学者イラン・パペにより明らかに(虐殺の犠牲者総数は2、3千人)にされて、現在の学術的な争点は、パレスチナ人の追放が、あらかじめ計画されたものか、戦闘激化に伴う偶発的なものかであるという。
1949年2月のエジプトとイスラエルの停戦協定でイスラエルがパレスチナの80%を占領し、残り20%はヨルダンが占領。エルサレムの旧市街地はヨルダンに、新市街地はイスラエルに占領され、ガザ地区はエジプト領となって、パレスチナ難民が押し寄せた。
1956年7月のエジプトによるスエズ運河国有化を阻止するために、イスラエル・イギリス・フランスがエジプトに侵攻し、第2次中東戦争が勃発したが、アメリカとソ連の即時停戦要求を
受け入れ、イギリスとフランスは11月に戦闘を中止した。