アラブと私
イラク3千キロの旅(72)

 

                           松 本 文 郎 

 

 前回の(号外)の前は、モースルで立ち寄ったガレージの茶飲み話で、翌日に訪ねるニネヴェに関連した旧約聖書の『ヨナ書』『ナホム書』が話題になっていた。

 前書が、預言者ヨナと神とのやりとりが中心の物語で、イスラエルの民の選民思想・特権意識を否定しており、異邦人であるニネヴェの人びとが神の意志に従っている反面で、ヨナに代表されるユダヤ人の方が神の意志を理解していないとする内容であるのに対して、後書のナホムとは、「慰める者」の意で、ニネヴェで捕囚の憂き目にあったユダヤ人が神による救出とニネヴェ滅亡を乞う祈りの書だとは、(71)に記した。

 旧約聖書にある2人の預言者の「書」が飛び出したのは、ユーセフから、「チーフは、旧約聖書にニネヴェのことが書かれているのをご存じですか」と聞かれて、「ぜんぜん知らないヨ! どういうこと?」と問い返したのがきっかけだった。

 ガレージの主ハッサンもクリスチャン(アッシリア人の末裔というから、アッシリア東方教会か?)だったから、ユーセフと一緒に、二つの「書」の物語のあらましを話してくれたのである。

 モースルに着いてすぐに訪ねた教会の牧師との場面でも書いたが、古代から商業・軍事的要衝の地だったモースルでは、イスラム教よりはるかな昔からキリスト教が普及していたのだ。

 ハッサンらとの話で、バグダッドへの帰路に寄るアッシリア帝国の遺跡ニネヴェの歴史的物語を興味深く聞いていた場面を中断して(号外)を書いたのは、国連総会でパレスチナを「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で採択されたのに反発したイスラエル政府が、1947年に国連が決議した「パレスチナの地の分割」に違反する入植地への住宅建設をさらに拡大すると宣言したからである。

(号外)の一部の繰り返しになるが、ユダヤ人がローマ軍によって国を奪われ、世界中へ離散させられたのは紀元70年の昔で、ユダヤ人の迫害を受けローマ帝国によって殺されたキリストを信じたキリスト教徒が、その後この地に残ったユダヤ人と共存したこと、7世紀のイスラム帝国の侵入の後でもイスラム教徒とユダヤ人が仲良く暮らした時代があった史実を忘れてはならない。

 19世紀後半、キリスト教ロシアでのユダヤ人迫害と虐殺、第2次世界大戦中のナチスドイツによる迫害とホロコースト(大虐殺)は人類の歴史の大きな汚点だが、ユダヤ人迫害にまったく関わりのないパレスチナの人々が、平和に暮らしていた地を不当にとりあげられた挙句、ユダヤ人軍事組織による虐殺や銃器による脅迫・攻撃を受けて大量のパレスチナ難民が発生した理不尽さには、人道的な立場の怒りを覚えざるをえない。

筆者が参加していた短歌同人『層』のお仲間に杉原幸子さん(ナチスドイツの迫害を逃れようとしたユダヤ系ポーランド人6千余人の命を救った駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理杉原千畝氏夫人)がいた。

 遠藤周作氏の順子夫人が長唄の姉弟子(20年ほど)だったのに比べれば、4年ばかりのお付き合いだが、才色兼備のしっかりした女性だった。

 同人誌『層』(春秋発行)の編集下打ち合わせ、年に2回の熱海研修会(歌壇でも稀有な玉城 徹、宮地伸一、片山貞美ら各氏を招いた)などの場で、千畝氏の勇気ある人道的行為について臨場感あふれる話を伺ったが、国家の命令に違反してまでも国を超えた人道的立場を貫き、ユダヤ人の命を救った一日本人のことをここに書き留めておきたい。

 

1940年7月27日の早朝、領事館で執務に就こうとしていた杉原の眼に、窓の外で2、3百人の群衆が激しく手をふって盛んに何かを訴える様子が飛び込んだ。

 それは、ナチスドイツのポーランド侵攻によって、祖国を追われたユダヤ系ポーランド人たちだとすぐに察知したという。

 第3帝国建設を標榜し、ユダヤ民族の絶滅を目論んだ独裁者ヒトラーのナチスドイツの手から、命からがら逃れてきた群衆は、「ナチスの迫害からのがれるために、日本通過のビザを発給してもらいたい」と嘆願したのである。

 人道的見地から「通過ビザ」を発給したい旨を外務省に打電した彼への外務大臣松岡洋右の回答は、「行き先国の入国手続きを完了した者に限り、そうでない場合は、通過ビザを与えないように」であったという。

 日本政府の冷たい態度の裏にその2ケ月後の日獨伊3国同盟の締結があったとみられ、ユダヤ人の命よりもドイツのご機嫌を損ねることを気にしていたのだ。

 幸子夫人によると、領事館の前に群衆が現れて4日が過ぎ、クリスチャンだった夫は、外交官として外務省の指示に沿うべきか、目の前で命乞いをする 人々を助けるか、人間としての悩みに煩悶していたという。

 夫が苦吟する姿を見るに見かねた夫人は、彼の背中を押すように、「私たちがあとでどうなるかは分かりませんが、領事代理の権限でビザを出してあげてください」と励まし、杉原氏は「そうか、ではそうするとしよう」とつかえていたものが吹っ切れた様子だったと話された。

 外交官としての重大な訓令違反で、帰国した後にどんな厳罰が待ち受けているか分からなかったが、群がる人びとにビザ発給を告げると、大きな歓声が湧いたという。

 杉原の決断を後押しした幸子夫人は、そのときのことをまざまざと思い起こすような眼をされたが、緊迫した状況下で死の恐怖に曝されている人間の命を救う決断を、夫と共にした誇りのようなものを感じた。

 夫君とそうしたやりとりをする前、難民たちのなかに憔悴した子供らの姿を目にとめた幸子さんの心に、旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」の「町の角で、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のため、主にむかって両手をあげよ」の1節が、突然、浮かんだそうだ。

 杉原千畝氏は難民へのビザ発給の条件不備に関する外務省との論争を避けるために、さまざまな手立てを講じて、表面上は遵法を装いながら、「外国人入国令」の拡大解釈を既成事実化した。

 一時に大量のビザを手書きしたために万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続き、1日が終わるとベッドに倒れこんで、痛くて動かなくなった腕を夫人がマッサージした。

 ソ連政府や日本から再三の退去命令を受けながらの1ケ月、寝る間も惜しんでビザを書き続けた杉原は、外務省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、領事館内のすべての重要書類を焼却し、家族と一緒に、ホテル「メトロポリス」に移ったが、領事印を荷物に梱包してしまったので、ホテルでは、仮通行書を発行し、ベルリンへ向かう列車に乗ってからも、窓越しに手わたされるビザを書きつづけた。

 動き出した列車の窓から「許してください。私にはもう書けません。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げた千畝の姿が目に焼き付いています、と幸子さんは語った。

 列車と並んで、泣きながら走っていた人たちは、「私たちはあなたを忘れません。きっともう一度、あなたにお会いしますよ」と叫び、千畝たちの姿が見えなくなるまで見送っていたという。

6千余人を救うために発給されえたビザは番号が記録されているものだけでも、2、193枚にのぼった。

 

壮絶を極めた第2次世界大戦は日本とドイツの無条件降伏の受託で終わり、昭和22年に帰国した杉原に対する外務省の態度は、思いのほかに厳しいものだった。

 人道主義の立場でビザを寝る間を惜しんで発給した杉原は、軍国主義から平和主義の国に生まれ変わった日本で、詳しい理由も告げられないまま解任されたのである。

正式にはいまでも、理由は明らかにされていないが、勇気ある行動でも、「訓令違反」であったとする杓子定規で官僚的な見方があったのだろう。

 外交官として国の命に背いた杉原千畝は、長い失意の時を過ごしたあと、語学の能力を活かして企業の海外駐在員として働き、75歳で鎌倉の自宅に隠棲したものの、依然として名誉は回復されなかった。

 しかし、走る列車の千畝に向って、「私たちは、あなたを忘れません」と叫んだ人々は命の恩人のことを忘れることはなかった。

                                  (続く)

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2013/02/20 19:19 2013/02/20 19:19
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