アラブと私
イラク3千キロの旅(73)
松 本 文 郎
1968年、突然、イスラエル大使館から電話があり、大使館に行くと、ビザ発給交渉にあたったユダヤ人ニシェリが、千畝が発行したビザを手にしていた。
二人は固く握手して、その後は幸せだったかと聞かれた千畝は、「いま、幸せだったとわかった」と答えたという。
1985年(昭和60年)、85歳になっていた杉原千畝氏に対して、イスラエルは、その勇気を最大限に讃えて、「諸国民の中の正義の人賞」を贈り、エルサレムの丘の上に顕彰碑を建立した。
これにより、彼の命がけの人道的行為は、世界の人々の知るところとなり、祖国では解任された外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」になったのである。
しかし、日本外務省は杉原の存在を無視し続け、祖国での名誉回復がなされぬままに、翌年、鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
イスラエル国家による杉原千畝氏の勇敢な行為の顕彰は、命を救われた人たちの請願によるものであろうから、その翌年に逝去された千畝氏には、俗な表現だが、「冥土への土産」になったのではなかろうか。
幸子夫人ら遺族と救われた人たちの再会と交流も盛んになり、海外へ招かれることも多くなったという。
1991年、ビザ発給の現場であるリトアニアの首都ヴィリニュスに、1992年には、岐阜県加茂郡八百津町に「杉原千畝記念碑」が建立され、2000年、都内の外交史料館では、名誉回復を象徴する「杉原千畝氏を讃える顕彰プレート」の除幕式が催された。
挨拶に立った河野外務大臣は、故杉原千畝氏と幸子夫人らの遺族に対して、「外務省とご家族との間にご無礼があった。(中略)極限的な局面において、人道的かつ勇気ある判断をした素晴しい先輩だ」と語り、戦後の外務省の対応についてその非礼を初めて認め、正式に謝罪したのである。
その喜びを千畝氏の墓前に報告した幸子夫人の胸には、煩悶する千畝氏にビザ発給を決断させた時のシーンがまざまざと甦ったという。
スティーブン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』は、1993年に世界中で公開されたが、1100人以上のユダヤ人の命を救ったとされるドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、ナチス党員でもあり、戦争を利用したひと儲けを目論んでやってきたポーランドの都市クラクフで、潰れた工場を買い取り、工場経営を有能なユダヤ人会計士に任せ、安価な労働力として、ゲットーのユダヤ人を雇い入れて、持ち前の社交性でSSの将校に取り入って事業を拡大させていった。
だが、クラクフ・プワシュフ強制収容所の所長に残忍なSS将校が赴任し、部下のSS隊員らと共に、収容されているユダヤ人を次々と殺戮してゆき、シンドラーの工場で働くユダヤ人たちにも危機が迫る。
金儲けにしか関心がなかったシンドラーの心境に変化が生じ、ユダヤ人たちを救う「シンドラーのリスト」を作る決意をする。
この映画はホロコーストを描いた代表的作品とされ、脚本家によると、善と悪とを持ち合わせた男であるシンドラーの心の葛藤がテーマだという。
スピルバーグ監督自身はユダヤ系アメリカ人で、1982年に原作の映画化権を手に入れて、10年ほどかけて構想を練り、企画をあたためて映画製作に着手したが、血に染まった金はもらえないとして、監督料の受け取りを拒否したそうだ。
2005年、テレビドラマ(よみうり・日本テレビ)『6千人の命のビザ 日本のシンドラー杉原千畝』が放映されたのを見て、千畝の存在を初めて知った人も少なくなかったようだ。
スピルバーグ監督が、『もう一人のシンドラー 杉原千畝』を撮ってくれないものかとも想う。
ドイツ人のシンドラーの人物像に比べ、「日本のシンドラー」と言われる杉原氏は、まさに対照的な人物だった。
ウイキペディアには、36ページにおよぶ「杉原千畝」の記事が掲載されている。
その中に、幸子夫人が話されなかった、結婚前の千畝氏の人道主義的な生き方のエピソードなどがあるので、引用しておきたい。
☆早稲田大学の学生時代、早稲田奉仕園(後の早稲田教会)の信交協会に属していたことがあるが、その前身は大隈重信がパプテスト派宣教師に要請して設立した「友愛学舎」で、その舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章・13節)である。
☆ハルピンの日本総領事館の書記官だったころ、ユダア人・中国人富豪の誘拐・殺人事件があり、その背後には、関東軍が後援した白系ロシア人のファシスト組織があり、関東軍の橋本欣五郎から破格の金銭的な条件でスパイになるよう強要された杉原は、拒否したという。
☆杉原自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義,一匹オオカミの年若い職業軍人が充満する満州国への出向3年の宮仕えがホトホト厭で、外交部を辞任した。
☆かつて、リットン調査団の報告書(満州事変を日本の侵略行為とし、満州国を否認した)への仏語の反駁文を起草して、日本の大陸進出に疑問をもっていなかった千畝は、この頃から、日本軍国主義を冷ややかな目でみるようになる。
☆無一文で帰国した後の千畝は知人の妹菊池幸子と結婚したが、赤貧の夫妻は結婚式を挙げるどころか、記念写真1枚を撮る余裕さえなかった。
☆『杉原手記』に、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いをしているのを見ていやになった」とあり、幸子夫人から、満州国外交部を辞めた理由を尋ねられた際には、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は、中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と答えている。
ここに、杉原千畝氏のことを記したのは、短歌同人でご縁があった幸子さんを存じていたこともあるが、危機的状況下の難民を救われたユダヤ人のイスラエル国家が、どうして、国連決議に違反してまで、なんの咎もないパレスチナの人びとへ、理不尽な苦しみを与えつづけているのかという疑問からである。
キリストを迫害したユダヤ人が、ローマ軍に国を奪われて世界中に離散したのは、紀元70年。
その後1800余年を経た末裔らが、19世紀のロシアや20世紀のナチスドイツの迫害や虐殺を受けたのは、ユダヤ人がキリストを殺そうとしたことや特異な生活様式などで差別されてきたからとの説の是非はともかく、国をもたない流浪の民を支えてきたのは、旧約聖書に書かれている預言の成就(イスラエル建国)だけなのだろうか?
「シオニズム」は、聖地エルサレムのシオンの丘にユダヤ人国家を建設しようという思想とされるが、(号外)でも書いたように、「民なき土地に、土地なき民を」のスローガンを実現するためには、そこに暮らしている人たちを追放し、あるいは、殺すことが必要だったのだ。
1948年のユダヤ軍事組織によるテロで生じたパレスチナの難民は、2006年の時点で、約440万人(ガザ地区に100万人、ヨルダン川西岸に70万人が住み、レバノンの難民キャンプに40万人が収容されている*朝日新聞掲載記事)におよび、その人たちの帰還権を国連総会決議が認めているにもかかわらず、イスラエルは拒否しているのである。
半世紀以上の年月、住んでいた土地を追われたパレスチナ人は、ガザ地区とヨルダン川西岸でのイスラエル占領軍の極限的な抑圧のもとにおかれ、100万人もの人たちが、イスラエル領内で人種差別的な厳重な監視下の生活を強いられている。
ただ注意しなくてはならないのは、シオニズムを批判しているユダヤ人も多くいることである。
「シオニスト」とは、イスラエル国家の反アラブ拡張主義・強硬路線を支持する政治的立場を意味しており、ユダヤ人でなくてもシオニストになる場合もあるようだ。
先のイスラエル国会選挙では、イスラエル政権がさらに右傾化することが予想されたが、有権者はイスラエル政治が過度に右傾化することを避け、安全保障問題でなく、経済問題や社会正義の実現に目を向けたので、国防費削減や中東和平の促進に向かうことが期待されよう。
1月16日の「アルジェリア人質拘束事件」の要因が、「パレスチナ問題」にあるとする見方が、米国政府から出ており、次回も関連記述とする。
(続く)
