アラブと私
イラク3千キロの旅(2)

              松 本 文 郎

 バスラの国境検問所には、トレーラートラックの車列が、国境通過の検問を待っていた。
 クウェートで日常消費される生鮮食品は、一部が自国産のほかは、イラクとその近隣諸国の産品で、この検問所は食料供給の生命線的な幹線道路の国境出入口なのである。
 でも魚は、アラビア湾で思いのほか豊かな漁獲があり、瀬戸内生まれで魚好きの私は大いに助かった。 ユーセフの検問係官への丁寧な応答ですんなりと入国できて、イラク第二の都市バスラの街の中へ車を進めた。

 あのころのバスラは、クウェート在住の独身日本人男性にとっては息抜きの場所で、クラブで酒を飲んでベリーダンスを楽しみ、交渉次第でダンサーと一夜を共にすることができる、いわば、熱砂の国で過酷な仕事をする者たちのオアシスだった。

 在住の日本人は百人前後。中核は商社マン家族、アラビア石油関係者、各種コンサルタント事務所や大手ゼネコンの駐在員、大使夫妻と大使館員などだった。
 懐に余裕のない2人の旅だから、ユーセフには、安いホテルを探すように頼んでいた。
 彼は、一緒にクウェートにやってきた妹と住んでいる独身のクリスチャンでだが大学を出た知識階級のイラク人にはキリスト教徒が少なくない。

 よさそうなホテルはどこも満室で、やっと見つけた2室はお世辞にもきれいと言えなかったが、我慢するしかない。
 クウェートの上流階級で才能のある連中は、外国へ出かけて、ビジネスや遊興などを自由自在にしていたから、バスラだけがオアシスではなかった。  容易に行けるバスラやバグダッドのクラブで遊ぶ男たちもいたが、日頃はクウェートのホテルに売春目的で滞在している近隣やヨーロッパ諸国の若い女性たちと交渉するほうが多かったようだ。
 この旅から2年後、衛星通信アンテナ施設所長に任命されたサビーハの別邸に招かれたことがあった。アメリカ留学から帰国したばかりの王族の若者だ。 彼がアンテナ施設の工事中に現場視察にきた折、いつも気楽にジョークを飛ばし合った私を、日本人にしては面白い奴と親しく感じてくれたのだろう。 親と住む本宅とは別の場所でのパーティは、米国で学んだときの金持ちの学友に招かれたパーティの真似か、世界的に流行していたサイケな雰囲気の酒とダンスの狂宴だった。

 東京・赤坂では、「MUGEN」が賑わっていた。 
 禁酒国なのに高価な酒の瓶が並ぶバー・コーナーがある広間では、大きなテーブルの中央に上がった若い女がゴーゴーを踊っている。アハラムくらいだから、16、7歳か。
 超ミニのスカートからすらりと伸びる白い素脚と揺れるヒップに見とれていた。
 招待されたクウェート人の若い男らと戯れている他の女の子たちも、スエーデンから来ているという。 30年もののシーバスリーガルをしたたかに飲んで酩酊気味の私に寄ってきたサビーハに、お気に入りの子とゲストルームで楽しんできてもいいですよ、と耳元で囁かれた。

 テレコムセンターの工事遅延のために駐在が長引いて家族を呼び寄せていた私だったし、王族の親類のサビーハに軽く見られてはならないと、妙に真面目な気分で、曰くありげな誘いを丁重にことわった。
 大理石の床にはペルシャ絨毯が敷かれ、ポップな絵画や彫刻的な装飾品が掛けられた室内には、煙草の煙と怪しげな熱気が充満し、夢でアラビヤンナイトのハレムに遊ぶ心地だった。
 いま想うと、ジプシーのアハラムもコールガールの一人だったかと思わないでもないが、バグダッドで再会して実家のパーティーに招かれたとき、そんな気配はみじんも感じなかった。
 そのことについては、バグダッドに着いたところで触れることにしよう。
 ところで、バスラを起点にこれから訪ねるイラクは、アラビア湾の北西部にあり、南はクウェートとサウジアラビア、西にヨルダン、東はイランと国境を接している。  
 西南部の砂漠と北東部の山地の間にティグリス・ユーフラティス川の肥沃な流域が広がっている。 この両大河は平行して南東に流れ、下流域で広大な湿地をつくり、合流してアラビア湾へ流入する。 

 二つの河にはさまれた土地が古代文明の揺籃地のメソポタミアである。豊かな農業生産力を背景に、人類最初の都市国家が紀元前3450年頃につくられた。
 9・11の報復と大量破壊兵器の存在を理由に、独断的に対イラク戦争を開始したアメリカは、建国から僅か230年ほどの国だが、イラクの人たちの祖先は5500年も前に都市文明を築いていた。  ブッシュ政権でイラク侵攻を主導した幹部らは、古代文明やイスラム文化が人類社会の歴史で果たした役割を知らないほど無学な連中ではないはずだが、自分たちの利権のために一国主義手的な独断開戦に踏み切ったのだ。
 ロシアのアフガニスタン侵攻の際に、アメリカが兵器供与した部族がビンラデンらの国際テロ集団をかくまう結果になったように、イラン・イラク戦争では、イランに侵攻したサダム・フセインに軍事的支援をして、10年後のフセインのクウェート侵攻にいたるなど、米国の中東政策は支離滅裂とも言える様相を呈している。

 イランはアラブではないが、シーア派イスラム教が圧倒的に多い国で、クウェートに駐在する前年、電気通信研究所の基本設計の技術協力でテヘランに滞在したことがある。
 イランのシーア派については、あとで触れる機会もあるだろう。
 出のわるいシャワーを浴びてから小1時間、昼寝をした。溜まっていた仕事疲れを少しでもとって、ベリーダンスを楽しむクラブへ繰り出したかったのである。
 黄昏の街に出て、ユーセフが案内したクラブは、クウェートからと思われる客たちで賑わっていた。 どこでも、地場の食材や酒は旨いもので、バスラの地ビールはとてもいい喉ごしだった。

 アラブでは近代化が進んでいた方のイラクだが、レバノンやエジプトなどのレストラン・ホテルでもビールやワインは飲めた。
 世界の踊りで、ベリーダンスほど官能的なものはないだろう。その歴史は、メソポタミアに溯るほど古いのではなかろうか。

 ハレムの美女たちはスルタンの寵愛を受けようと競って踊りに磨きをかけたに違いない。
 フラメンコの美しさには文化的な洗練があるが、ベリーダンスには、土着的で扇情的な生々しい魅力がある。上半身をゆったり動かし、腰を激しくゆする踊りは、かなりきつく腸捻転でも起こしそうだ。 踊り子はそれぞれいい肢体をしていて、交渉次第では一夜を共にするそうだが、あのすさまじい情熱とエネルギーに応える自信はなかった。
 すっかり堪能してホテルに帰り、翌日からの旅に備えて早く床についた私だが、ユーセフがどんな夜を過ごしたかは知らない。      (続く)








2008/07/03 17:11 2008/07/03 17:11
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