アラブと私
イラク3千キロの旅(78)
松 本 文 郎
前回末尾、日本維新の会の橋下徹・石原慎太郎共同代表が異口同音に、「軍事力もそういう技術ももたない、技術供与もしないという安全保障観では国は成立しない」「日本は強力な軍事国家,技術国家になるべきだ」、と聞き捨てならない談話を発表したことを受けて、次回も寄り道を続けざるをえないと書いた。
7月の参院選公約に憲法改正を掲げる安倍政権に呼応した維新の会の動向が気になるところへ、靖国参拝、核不拡散条約(NPT)不賛成、トルコへの原発輸出、サウジアラビアと安全保障対話など、国際関係に重大な波乱を巻き起こす一連の事態が生じたからである。
だが、寄り道はクウエートから千5百キロも走ってきたトヨペットクラウンのキャブレタ点検で訪れたモースルのガレージの場面の(51)(52)のあと3ケ月も続き、すでに、寄り道とは言い難い様相を呈している。
そこで、「寄り道」で取り上げた時事問題なども書く、『文ちゃんの浦安残日録』(3・11を契機に「松本文郎のブログ」に連載開始)の記事転載をさせてもらうことを思いついた。
傘寿を迎え、前立腺がんPSAが40.34のいま、「残日」がどれくらいか分からないが、子や孫が生きる日本の将来と世界の平和を願い、享受するいのちを燃やして書き続けていきたい。
それでは、(52)のガレージ場面に戻ろう。
自動車修理の見習少年が二度目の出前コーヒーを頼みに行き、ユーセフとガレージ・オーナーのハッサンからニネヴェの故事来歴を聞いたので、思いがけず、明日訪れる遺跡の予備知識を十二分に仕込むことができた。
そろそろ暇を告げようとした矢先、思いがけず、ハッサンが大阪万博のことを聞きたいと言う。
大阪万博の話はバグダッドで招かれたアハラムの家のホームパーティーで、新聞記者マリクからも訊ねられていた。 *(28)参照。
バグダッドほどではないが日本の小型トラックを見かけるモースルでも、関心を持たれているのがうれしくなった。
「日本での万博を、どうして知ったのですか?」
「新聞やラジオで知りました。アラブ諸国からはクウエート、サウジアラビア、アブダビ、アラブ連合(エジプト・シリア)がパビリオン参加しました。イラクができなかったのはザンネンでした」
ユーセフもなにか言いたげだったが、それとは別のことを、自慢げに告げた。
「バッシュモハンデス・マツモトは、クウエートに来られる前に、NTTパビリオンの基本構想を議論するチームのメンバーだったそうだよ」
「クウエートのプロジェクトに関わる4年前で、建築家としてとても、よい経験でした」
「どんなことを議論されたのですか」
「NTT(日本電信電話公社)は、電気通信事業の独占的公共企業体ですから、情報化社会を支える情報通信技術とサービスの開発成果を、いかに未来への夢があふれる展示にするかでした」
「どんな技術やサービスでしょうか」
モースル工科大学機械科卒で若くしてガレージを開いたオーナーは、敗戦の灰塵跡から25年で経済復興を成し遂げ、世界万博を開催するまでに発展した日本の科学技術に強い関心をもっているようだった。
私は、「でんでんパビリオン」の基本構想策定のブレーンストーミングを思い出して、ハッサンの好奇心に応えることにした。
「情報化社会では、企業社会の活動や人の暮らしにとって情報が重要な価値をもつようになります。さまざまな情報が、世界を自在に飛び交い、情報が新しい産業や文化を生む革命的な時代なので、農業・工業の産業革命に次ぐ、「情報産業革命」と呼ばれているのをご存じですか?」
「私は機械科を出ましたが、電気工学科の連中は、コンピューターとテレコミュニケーションの技術的融合で、世界の情報通信が飛躍的に便利になるだろうと言ってました」 .
「まったくそのとうりです。クウエートの電気通信近代化プロジェクトも、国民1人当たりの所得が世界一で《石油に浮かぶ国》と称される国ならではの、情報化社会到来を見据えた投資と云えるでしょう」
「私たちの国イラクも、もっと石油資源を開発して、クウエートにまけない近代化を進めなければなりませんね」
「そうですね。ちなみに、世界万博のパビリオン入場者数ランキングはソ連館がカナダ・アメリカを抜いて第1位だったのですが、ソ連の科学技術への関心が大きかったかどうかは分かりませんが、社会主義的なバース党政権にとっては、ソ連からの科学技術的な支援を受けやすいでしょうから、近代化も時間の問題ではないでしょうか」
「アメリカ館ではアポロ11号が持ち帰った月の石が評判だったようですね。日本人のみなさんは、ソ連よりもアメリカと親しくしたいのではないですか」
「ええ。敗戦後の日本はアメリカ占領軍の統治と支援の下で復興を進めて独立し、高度経済成長を遂げましたが、敗戦間際に唐突な参戦をしたソ連にはイヤな感じが残っています。アメリカ館前の長蛇の列でなかなか入場できないので、比較的に行列が短いソ連館に流れたのかもしれません」
会話が政治色をおびそうなので、情報通信の話にもどすことにした。見習い少年も、熱心に聞いているので、わかり易いように話そう。
「《でんでんパビリオン》の情報通信技術の目玉の一つはワイヤレステレホンでした。このコードなしでどこにでも持ち運べる便利さが評判となり、来館者が掛ける《ふるさとコール》無料サービスには、長い待ち行列ができました」
「日本のどこにでも掛けられたのですか?」
「一応そうですが、万博会場からの通話は近くの電話局に無線で飛ばして市外回線ネットワークに接続する方式でしたから、やや子供だまし的なものではありました、このワイヤレステレホンは会場以外の場所では、使えなかったのです」
「クウエートの電気通信近代化にワイヤレステレホンの電話サービスは入っているのですか?」
「人間が持ち歩くサービスはまだですが、自動車搭載の《自動車電話》は入っています。日本では高層ビルによる無線電波の伝搬障害の問題などで商用化は少々先ですが、沙漠のように障害物のない地域では問題はありませんからね」
「クウエートという国は、かつてイギリスが勝手にイラクから分割した国ですから、そこから産出する石油の収入で欧米並みの生活水準を謳歌している彼らを腹立たしく思わないではありませんが、それを言っても仕方ないですネ。ほかにはどんな技術・サービスがあったのですか」
「第二の目玉は衛星通信です。人間が月まで行けるようになったのは強力なロケット開発と遠隔地との信頼性の高い通信技術のたまもので、多くの島から成るインドネシアのテレビ中継が通信衛星に拠っているのをご存じでしょう」
「はい。衛星通信のすごさには驚いています」
「万博キャッチコピー『世界の国からこんにちは』を情報通信の分野で受けとめると、音声・文字・映像を自由自在に世界各地に飛び交すことです。基本構想のブレーンストーミングでの私は、世界都市のロンドン・パリ・ニューヨーク間でテレビ同時中継をする提案をしましたが、時期尚早とされて、日本の名所に派遣したタレントたちと万博会場を結ぶイベントの多元中継となりました」
「クウエートで、衛星通信はどうなるのですか」
「バスラに近い場所に衛星通信施設を建設中で、自動車デンワの国際通話も中継します。万博に関わる前の私は衛星通信研究施設の設計に携わりましたが、そこで実験した成果がバスラの施設設計に生かされています」
「クウエートの電気通信プロジェクトには、万博で披露された最新技術が実用化されていますね」
ハッサンはうらやましそうな口ぶりで言った。
「ところで万博展示品には、ワイヤレステレホンのように新しいものがいくつかありました。日本の《ガス館》展示の「温水洗浄便座」もその一つでしょう。トイレのあとのお尻を水で洗うのは、イスラム圏の人びとには日常のことですが、それを商品化したのです。ヘンな話ですが、日本人に多い痔疾には、紙よりも水の方がお尻にやさしいという発想でしょうね」
「いかにも日本人らしい、すばらしい発明ですネ。値段にもよりけりですが、ウチにも備え付けたいほどです。日本車のつくりのこまやかな気遣いを感じるアイデアですね」
「江戸時代のカラクリ人形の仕掛けが精巧だったように、日本人の「ものづくり」の特質はこまやかさにあると言ってもよいでしょう。お尻の穴をめがけて温水を噴射するノズルの角度を決めるのに苦労したと聞きました」
「ほかの出展品にも珍しいものがいろいろあったでしょうね」
「テレビ電話、電波時計(会場内の時計の時刻を原子時計に同調)、360度全天周スクリーンの映像、エアドーム、跨座式モノレール(会場内)、動く歩道のほかに、原子力発電(敦賀発電所1号炉が開会式の日に運転開始)の電気が開幕式会場に送電されて、ダイハツ工業の電気自動車の試乗にも人気が集まりました」
「電気自動車はガソリンを燃やさず、都市の大気汚染には朗報ですが、石油需要が下がって産油国は困るかもしれません」
「原子力発電の方が、価格が不安定な石油よりも安定的で経済的とされて、電気自動車に蓄電する電気も原子力発電所(原発)からとなると、その可能性もあるでしょう。でも、原発事故が起きれば、原爆が投下されたヒロシマ・ナガサキのように大変な事態が生じます」
「モースルで小さいガレージを開いている私には、万博のお話はとても勉強になりました。ご親切に感謝します」
謝辞を述べてくれたハッサンにサヨナラする前に、世界万博の光の部分だけでなく、陰の部分も話しておきたい気になってきた。
「いままで開催された世界万博でも、華やかな面だけが記録されていますが、その時代の背景にはさまざまな歴史状況がありました。大阪万博は、敗戦で丸裸になった日本人が一丸となって、艱難辛苦の努力をして、わずか20年余りで世界第二の経済大国を築いた誇りの現われでしたが、高度経済成長の陰ではたいへんな公害が生じて、いまでも大きな社会問題になっています」
「それは日本だけではなく、先進工業国の全ての問題ですよね」
「確かにそうです。大量生産・大量消費のアメリカ文明の潮流が世界をめぐり、資源枯渇と環境の汚染・破壊が進行して、途上国や低開発国の人口の爆発的な増加とあいまって、人類社会の存続が危ぶまれる状況が生じています」
ハッサンが、なんとなく訝しい表情をして、
「欧米諸国や日本のように近代化の恩恵に浴する先進国が、経済発展の影の部分について懸念するのは当然でしょうが、これから近代化を推進して、先進国の生活水準に追いつこうとする私たちに、どうすればいいいと仰りたいのですか」
「地球の資源や環境を先に利用して近代的で豊かな暮らしを享受している先進諸国が言うのはおこがましいと思われるでしょうが、資源枯渇と環境汚染・破壊のすさまじい現況は、人類社会だけでなく生態系全体の安定的存続を脅かすほどになっており、人口増加が著しいアジア・アフリカ諸国の人びとが家族で幸せに暮らすには、先進国とは異なる「エコロジー優先」の道を行くと善いように思うのですが・・・」
「イラクでも、石油が枯渇した後のエネルギー源として、核開発の技術研究を始めているようですが、原子力発電所の事故が、日本人が体験されたように恐ろしいものとは知りませんでした」
(続く)