「出逢いと別れ」
  重信(ジュウシン)さんを偲ぶ             

                                       松本 文郎

   

日比谷同友会報の訃報連絡で鈴木重信さんのご逝去を知り、突然の他界に愕然となった。

その数日前の「みなづき会展」来訪者との歓談で、重信さんの近況が話に出た。肺気腫悪化で酸素ボンベを離せずに外出を控えているが、自宅でメールのやり取りをしていると知って、久しぶりに、メールをする矢先のことだった。

 本社建築課長の重信さん(愛称はジュウシンさんだったので、以下の「重信」表記は音読み)と設計課長の私が建築局で親しく仕事をしたのは昭和55年からだが、2年後輩の彼には、すでに大人(たいじん)の風格があった。

『電電公社 その人と組織』(政策時報社)の記事そのママを転記すると、建築課長 鈴木重信(すずきしげのぶ)

あくの抜けた性格がすがすがしい。小事や過ぎたことにクヨクヨとこだわるところがなく、姿勢はいつも前向き。「性格的には粗雑だと思う」というのは鈴木本人の弁。建築設計のスペシャリスト。34年4月入社。

東北通信局建築部設計課第1設計係長、建築局設計課第2設計係長、東京通信局建築部設計課長、同局同部調査役、北海道通信局建築部長、東京通信局建築部長を経て55年1月現職。

東京新宿生れ、都会っ子らしく趣味のセンス抜群。登山、ラグビー、音楽、写真読書(ミステリー)、鉄道模型製作がそれ。「登山は機会が少なくなって、いまではマップマウンテニアです。それに音楽は聴くだけ、ラグビーも観るだけのことです」と“弁明”している。

マージャンは「できません」。これも貴重だ。酒は適量、タバコは日に40本。家族は夫人と2男1女。昭和11年2月12日生れ。成蹊中―成蹊高―東北大建築学科卒。

 長身でイケメンの彼は、新入社員のころから女性社員にモテモテだったが、いつも爽やかな笑みを浮かべるだけで、浮ついた感じは微塵もなかった。 
  北海道・東京通信局建築部長のとき、旭川東光局の火災と東京中央電報局模様替工事の足場倒壊という建築工事現場の重大な事故に直面したが、冷静沈着な指揮ぶりで事後処理に当たり見事に職責を果たして、後の語り草となった
 鈴木姓と風貌・言動で、2.26事件で襲撃され、一命を取り留めて、和平派の軍人として強硬派勢力を抑えて終戦を実現した内閣総理大臣鈴木貫太郎の直系と噂されていたのを質した私に、「いえネ、遠い親戚ですヨ」と淡々と告げた重信さんだった。

 昭和56年、中曽根康弘行政管理長官の行政改革第2次臨調会長土光敏夫に請われた真藤恒氏が電電公社総裁に就任したのは、まさに、青天の霹靂だった。

 総裁就任を、「電電公社の仕事は全く素人」として、一時は辞退したとされるが、石川島播磨時代から親分子分の間柄の土光敏夫の要請と、公社経営委員だった中山素平氏の白羽の矢を断れなかったようだと『電電公社 その人と組織』に記されている。

 同書で、「“野人”と“文化人”の同居」と評された当時の建築局長関谷辰延氏は、公共建築に携わることを誇りとして日本有数の建築技術者集団を率いていたが、高度情報社会の時代的要請に応える真藤新総裁の矢継ぎ早の公社事業変革路線に対し、真摯な“是々非々”で応じて、“真藤のジイさん”の篤い信頼を得た人物。

 入社以来、この野武士的で理想主義的な局長の薫陶を受けてきた重信さんと私は、その理念と志に共感し、建築部門関連業務の新展開に全力投球で取り組んだ。

 NTT民営化の年、建築企画室長に就任した重信さんは、「建築部門の窓口であり、今後の業務運営の戦略を策定する組織としてNTT所有の厖大な建築資産(土地・建物等)をいかに効率的に活用するかについて、事業用のみならず広い視野で企画するのがメインのテーマである」と、政策時報社のインタビューで述べている。

「電話腺にぶら下がっているだけではNTTの将来はない!世の中に貢献する新しい事業展開のなかで、5百社以上の子会社をつくれ!」との“ジイさん”のハッパで、「NTT都市開発」が誕生。初代社長は関谷氏が、第2代に重信さんが就任した。 

 真藤体制下、政府要請の分社化や既存の関連会社への発注条件の厳しさに対して、公社事業を築き上げてきた先輩OBの批判が続出したが、ドコモや都市開発の成功を目の当たりにして、次第に収まっていった。 

 重信さんが企画室長のころ、私は建築技術開発室長で、企業通信システム事業部長の式場 英君と共に、“建築都市のインテリジェント化”(現在のスマート化。建築・情報通信・コンピュータ技術を融合した技術の概念構築と体系化に取組み、“インテリジェントビル”が世の中に定着する草分けの務めを果たし、平成元年、新設した子会社・NTT建築総合研究所の代表取締役・副社長で転籍した。

 NTTの建築資産活用で都市開発が全国主要都市に建設した数々のインテリジェントビルが、わが国有数の企業テナントの好評を得たのは関谷・鈴木両氏ほか関係者のみなさんの尽力の賜物だが、その歓びの一端を私も共有している。

 重信さんとの想い出は数々あるが、平成4年の食道(がん)全摘出手術で長期入院をした折、中島みゆきの曲の録音カセットを持って見舞いにきてくれたのも、お互いがカラオケ大好き人間だからであった。

 術後1年が経ち、NTT取締役不動産開発部長の重信さんからの誘いで、「IB&C インフォマート欧州視察団」に参加し、北欧4ケ国へ(13日間)の有意義で楽しい旅を共にしたのも、忘れられない想い出だ。

  食べたり飲んだりするモノがいきなり十二指腸に落ちるカラダになった私が、参加した24人中で一番元気だったと言われたほど、なにごともなく行動できたのは、重信さんのさりげない気遣いのお蔭だった。

 和気藹々の旅で重信さんの仁徳に魅せられた団員は、重信さんが肺気腫で不参加を表明するまでの10数年間、毎年開かれた懇親会懇談会に、ほぼ全員が参加した。

 NTT都市開発の相談役になってからの重信さんとは、新橋の小料理の店でときたま会って歓談したり、カラオケを楽しんだ。M大・国文学を出た女将は歯に衣を着せない辛口でファンとなる常連客もあり、私と妻も片隅にいたが、独りのときの重信さんは、8畳小上がりを背にした厨房との仕切りカウンター(3人席)の端に座り、女将と寂かに話をしているのが常だった。

 昭和55年以前の東通建築部長のころの重信さんは、近畿第1建築部長から設計課長になった私を、時折り誘い出し、新宿の行きつけの店(早大学長も常連)の二階で一緒に遅くまでカラオケを楽しんだものだが、それから25年後、新橋の女将の店は、西新橋再開発地区のど真ん中にあって店仕舞いを余儀なくされて、重信さんにとっても、終の“止まり木”となった。

 閉店パーティーの餞に、ちあきなおみの『紅とんぼ』を唄ってあげたが、強面した女将は、がん手術で入院中の私に、NTT社歌『日々新しく』(拙詩)を、自分のピアノで弾き唄った録音カセットを差し入れてくれた、やさしい女性でもあった。

 限られた誌面で、重信さんとの想い出の一つとしてぜひとも書いておきたいのは、ジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン途上国を食い物にするアメリカ』のことである。

 この会報で何度か報知させていただいた「松本文郎のブログ」(「統一日報」開設・編集・管理)に長期連載中の『アラブと私』のために、重信さんが届けてくれたのが、この思いがけないノンフィクションだった。

 私の執筆意図にうってつけの本を、ミステリー愛好家の重信さんが見つけてくれたのは願ってもないことで、連載(53 )では、「長く職場を共にし、敬愛してきた人から送られた。送り主についてはいずれ、序章『イラク3千キロの旅』のあとの本論で記述したい」としているが、重信さんの急逝が残念でならない。

 『アラブと私』を読んで、貴重な文献を届けてくれた重信さんの励ましに応えるためにも、いのちのあるかぎり、この“創作的ノンフィクション”を書き連ねて行きたいと念じている。ご関心のある会員諸兄が、この拙文を読んでくだされば望外の幸せに存じます。

 

同友会からの訃報に、「ご遺族からのご要望で、ご弔問、ご香典、ご供花をご辞退されていますのでご配慮願います」とあり弔問はご遠慮したが、後日、NTT都市開発で「お別れ会」が実施されるので、当面は、この追悼文を、長年敬愛してきた重信さんに捧げたい。 合掌。   

                      〔*「日比谷同友会報」202号より転載


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2013/06/07 20:09 2013/06/07 20:09
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