アラブと私
イラク3千キロの旅(79)

 

                                      松 本 文 郎 

 

 そろそろガレージにいとまを告げようとしたとき、ハッサンが始めた大阪万博の話は、原子力発電所の事故の恐ろしさやイラクの核開発の技術研究にまで及んだ。

牧師の話にも出たCIAがいそうなモースルで、イドの休暇に旅をしている1人の日本人が、こんな話題に深入りしていいのだろうか。

発足してまだ3年の社会主義バース党政権下のイラクの石油資源を欧米の手からとり戻して科学技術による建国をしようと意気込んでいるハッサンやユーセフを思うと、敗戦後の日本復興にいささか尽力した自負からも、なにかを伝えておきたい気持ちが湧いてくる。

 すでに(42)で書いたように、モースルのイラク石油会社(キルクーク油田)のクルド族への利権配分や石油資源の国有化をめざす動きが国内外から注目されているし、1953年、米国CIAの画策で国民の信頼が厚かったモサデク首相政権(アングロ・イラニアンが支配したイラン石油の国有化実施)が転覆した同年に、コンソーシアム(国際石油合弁会社)が設立され、中東石油の支配権がイギリスからアメリカへ移って、資源をめぐる米ソ冷戦も進行していたので、アハラムの家のホームパーティで新聞記者マリクと、この類の話に深入りしなかったのは賢明だったかとも思う。

 植民地主義で中東・アフリカの石油資源を収奪した欧米列強が、第2次世界大戦後も石油産出国の資源支配を目論む国際石油資本の後ろ盾である状況に対しては、石油のために無謀な戦争を始めて敗れた国の人間として、複雑な気持ちもある。

 太平洋戦争は、米国が、日本の中国大陸進出をやめさせる経済制裁として、日本への石油の輸出(国内消費量の80%を依存)をとめたのが発端とされている。

 主要都市の無差別大空襲やヒロシマ・ナガサキ原爆投下で多大の犠牲者を出した日本が、無条件降伏で丸裸になってから25年で、世界万博を開くまでの経済復興を成し遂げられたのが日本人の勤勉さと科学技術によるモノづくりだったと、ハッサンに伝えたくて話に応じた私である。

 ハッサンはバース党政権が核開発の技術研究に取り組んでいると言ったが、なにを目的にしているのだろうか。

「原発による電力が、価格と供給量が不安定でいつかは枯渇する石油に代わる新しいエネルギーでも、一旦重大事故が起きれば、ボクが疎開する前に住んでいた広島市に投下された原爆よりも、多くのいのちに関わる事態と、怖れがあるんだよ」

「石油のあとは核エネルギーの利用が有望なこと東西冷戦下の核兵器の抑止力については、大学の概論で学びました」

「キミたちのイラクがなにを目的に核開発技術の研究を始めたのか分からないけど、核エネルギーを制御するのはとても難しいから、社会主義陣営のソ連の技術協力があっても、慎重に過ぎることはないと思うよ」

「原爆の恐ろしさを経験した日本で、どうして、原子力発電所の建設が進んでいるのですか」

「原爆犠牲者の無残な姿と長期にわたる放射能の影響を広島・長崎の人たちはよく知っていても、投下した米国だけでなく、日本人一般までもが、忘れたがっているように感じてるんだ」

「原爆の製造につながる危険性のある原子力発電を、アメリカがよく日本に許しましたね」

「戦争中の日本の原子力に関する研究はかなりのレベルで進んでいて、敗戦時に稼働していた実験炉は破壊されて東京湾に沈められたんだ。戦後の研究は、全面的に禁止されたけど、朝鮮戦争が終結した1953年のサンフランシスコ講和条約発効で、解禁されたのさ」

「東西冷戦下の米ソ対立と関係あるのでしょうか?」

「おそらくそうだろうネ。翌年(1954年)に原子力研究開発予算が国会に出されたのが、日本の原子力発電の起点といわれているよ」

 それまで、黙って聞いていたユーセフが訊ねた。

「アメリカの核戦略の中に日本を組み込もうとしているのでしょうか?」

「それはボクには分らないけど、大学3年のとき(1955年)、原子力基本法が成立して、原子力利用三原則の「民主・自主・公開」が定められたんだ」

 

その翌年に原子力委員会が設置されて、筆者が卒業設計に没頭していた建築教室の近くに建つ、湯川秀樹記念館の主・湯川博士(日本人初のノーベル物理学賞受章者)も委員の一人に選ばれた。

 初代委員長の正力松太郎(読売新聞社社主)は、原子力の日本導入に大きな影響力を発揮して日本の「原子力の父」と呼ばれたが、原子力平和利用懇談会を立ち上げ、科学技術庁・初代長官に就任した正力が主導する平和利用の行方に疑念を持った湯川博士が、抗議のために委員を辞任したのは、筆者が大学を卒業して間もないころで、よく憶えていた。

『原子力委員会月報』(1957年1月)には、「(中略)、動力協定や動力炉導入に関して、わが国の原子力開発の将来に対し、長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないから、慎重な上に慎重でなければならないと強く訴え、抗議のため辞職した」とある。

原子力のほかに、プロ野球・テレビ放送の日本導入の功労者とされた正力だが、最近になって、CIAとの関係が米国公文書に明記されているのが判明している。

A級戦犯の被指定者だった正力が、不起訴・釈放ののちに、CIAの非公然の工作に長期にわたり協力したと書かれていたのだ。

CIAのバックアップで暗躍した「エコノミック・ヒットマン」の草分けのような事例ではなかろうか。

現在の日本の原発54基は、全て、米国で開発された加圧水型軽水炉(PWR)と沸騰水型軽水炉(BWR、改良型四基をふくむ)で、原子力委員会の『昭和62年版原子力白書』は、日本の原発事業者が米国以外からの濃縮ウランを混焼する場合、30%を上限にする契約を結んでいると指摘して、制約が課せられていることを明らかにしている。

当初の濃縮ウラン輸入は100%を米国に依存していたが、フランス・イギリスなどの輸入先拡大にもかかわらず、2011年現在も、70%を米国に頼っている。

さらに重大なのは、「日米原子力協定」(1988年)で、「核燃料サイクル施設」建設が動き出したことで、青森の「六ヶ所村商業用再処理施設」や福井の高速増殖炉「もんじゅ」などがある。

 再処理施設が技術的に未完成とみる米国は、まだ運転を行っていない。「もんじゅ」についても不安な情報が少なくない現在、アベノミクスでの原発再稼働の前のめりぶりは原子力行政の米国追従とみなされても仕方なく、湯川博士が抗議したことが現実になったと思われる。

 

「立派な三原則が決められていますから、日本がアメリカの原子力政策に従属することはないのでしょう?」

「ところがね。日本人で初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士がいた京大をボクが卒業した年のことでよく憶えているけれど、「原子力の父」と呼ばれた原子力委員会の初代の委員長が米国に追従した動きをしたのに抗議して、湯川さんが、委員を辞任したんだよ」

 いささか、際どくなってきたので、万博の話に戻ることにしよう。

「ボクにとっての大阪万博に、NTTパビリオンの基本構想に関わる前、もう一つ大きな出来事があったんだ」

「それは、ぜひ伺いたいですね」

丸テーブルに座っていたユーセフとハッサンが、身を乗り出すようにして言った。

「《人類の進歩と調和》がテーマの「日本万国博覧会」は、高度経済成長でアメリカに次ぐ経済大国になった象徴的なイベントとして、東京オリンピックのような国家プロジェクトだった。  

多くの企業・研究者・建築家・芸術家らが、パビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物に起用され、京大の恩師西山卯三教授と東大の丹下健三教授が万博会場の総合設計者に選ばれた。丹下健三チームには、西山先生のゼミでボクと一緒だった黒川紀章(東大大学院・丹下研究室出身)、菊竹請訓などの若手建築家がいたからか、西山先生からボクに、NTTから出向して、先輩の上田篤さんらと西山チームに参加してくれないか、との打診があったんだ」

「チーフは、スゴイ建築家だったんですネ!」

 ユーセフが、おおげさなゼスチャーをした。

「丹下研究室に入った黒川紀章のようにスター・アーキテクト志向ではないけど、西山先生の薫陶もあって、アノニマスな公共建築をめざしたボクなりに、万博会場の総合設計に関わるチャンスはとても魅力的だったヨ!」

「それで、どうなったのですか」

「恩師からの出向の誘いを報告したボクに出向許可ではなく、思いがけないNTTパビリオンの建築チーム編成をする指示が出されて、ビックリだったんだ」

「基本構想会議」の外部招聘のメンバーは、現在も各界で活躍している錚々たる顔ぶれが集められ、いまふり返ってもゾクゾクするほどだ。

だれが選んだのか、総合プロジューサーは京都未生流家元の浅野翼氏。NHK・和田勉、TBS・萩元晴彦と今野勉(のちにテレビマンユニオン設立)、映画監督・恩地日出男、詩人・谷川俊太郎、画家・横尾忠則、音楽家・武満徹らが居並ぶ会議は、当時の売れっ子たちが出揃う夜中に催されて、熱い討論が繰り広げられたのを昨日のことのように憶えている。

 そのほかには、流行りのイベント専門家たちがいて、高度経済成長をもたらした科学技術万能を謳歌するコンセプトを矢継ぎ早に繰り出したが、テレビ・映画演出家や芸術各分野のメンバーらは、そうした路線に対して批判的な意見を述べる人もいた。

 その構図はそのまま、筆者が出向できなかった万博総合計画チームにもあったようで、西山先生発案の「お祭り広場」のコンセプトをめぐる丹下健三教授との激論や、総合プロジューサーを岡本太郎に依頼・説得するために奔走した初代事務総長理事が志半ばで更迭され、二代目に鈴木俊一氏(のち東京都知事、丹下健三設計の新宿・新都庁舎建設のコンビ)が就任して、会場の総合計画は丹下健三が行うことになったが、その内幕は明らかにされていない。

当時の西山研究室では、人間居住環境の研究の一環として、急速な大都市集中化が進行する日本で忘れ去られようとしていた農・漁・山村の生産・居住問題や公害としての認知が進まない水俣病の現地調査に鋭意取組んでおり、ある種の民族主義的一派とみなされていたので、国際的モダニズム建築の総帥・丹下健三らとの間には、思想的には水と油のように大きな隔たりがあったにちがいない。

もし、筆者の出向が認可されていたら、短い期間で出戻らなければならなかったわけである。

 一方、NTTパビリオンの「基本構想会議」では、外部メンバーの提案・意見を聞くのが目的だったのに、席上、若気の至りで言いたい放題の発言をして公社幹部の逆鱗に触れた筆者は更迭されて、スタートしたばかりの横須賀電気通信研究所の設計チームに鞍替えさせられたのである。

 職場での仕事との出会いに、人生と同じ運命的な一面があることを痛感したものだが、研究所の設計が終わった途端にイラン国電気通信研究所の建築基本計画技術指導の海外出張命令を受けたのである。(生まれて初めて飛行機に乗ったが、その概要は、すでに何回か記した)

クウエート国電気通信コンサルタント事務所の現地建築チームの責任者任命の辞令が出たのは、その翌年のことだった。

 

「そうでしたか、次々に、重要なプロジェクトと関わられたのですね」

「組織内の建築家としては、いささか、言いたい放題のボクだけど、恵まれた経験をさせてもらったことを、有難く思っているよ」

「日本のことを知りたくてお訊ねしたのですが、世界万博から原子力のことまでも話してくださり、ほんとうに勉強になりました」

                                            (続く)

添付画像
日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士と語るアインシュタイン博士 1953年6月 米国・プリンストン高等学術研究所



   

2013/06/18 20:41 2013/06/18 20:41
この記事にはトラックバックの転送ができません。
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST