岩谷時子さんと私
                    
                      
                            松本 文郎

 
 敬愛していた岩谷時子さんが亡くなった。享年97は、強い絆で結ばれてマネージャーを30年も務めた越路吹雪さん(享年56)とくらべ、たいへん長寿での逝去だった岩谷さんとの「ご縁」をいただいたきっかけは、30年ほど前のNTT社歌『日々新しく』の歌詞の社内公募で、昭和60年の民営化で制定された社歌の歌詞募集に、詩作が好きだった私も応募したのである。
 それまでの社歌『日本電信電話公社の歌』は、電気通信の社会的な役目を高い調子で詠いあげた詩に、荘重な曲がつけられていた。
 旧社歌の心を継承しながら、情報社会の新しい電気通信を拓く私たちにふさわしい、どんな詩を書くかが眼目だった。
 電電公社がスタートした昭和27年とくらべれば、日本人の音楽感覚もずいぶん変ってきて、メロディー・リズム共に昔日の感があった。
 そうだ、リズムだ! 社歌より先に制定された新社章のダイナミック・ループのように、生命の無限運動を表す、身も心もはずむリズムこそ新生NTTにふさわしい。
 とっさに、佐野元春の『ヤング・ブラッド』を思い出してターンテーブルにドーナッツ盤をのせ、あのリズミカルな曲が流れだすのを聴いて、エンピツを手にした。
 作詩といえば、広大付属福山校一期生の私たちが中学2年で創設した音楽部(クラリネットの私は、1級下でピアノの安部千代子に一目惚れし、10年後に妻とする)の活動で作詩・作曲した童謡を市の公会堂で発表して以来、人生の折にふれ、心に感じる「悲喜こもごも」を書き綴ってきた。
『ヤング・ブラッド』のリズムに乗り、からだを軽くゆすりながら、胸にとどめていたフレーズを書き始めた。


1.人びとの心つないで コミュニケーション
  励ましを 望みを その声を その顔を
  山河はるか 空のはてまで
  シグナルにのせて はこぶ歓び
  日々新しく NTT
  世界とともに
  われらNTT われらは
2.人びとの仕事支えて コミュニケーション  
  ・・・・
3. 人びとの社会結んで コミュニケーション 
  ・・・・

 意外なほどスラスラと三番までの歌詞がノートに並んだ。
 人びとのコミュニケーション。呼びかわす声と声の響きをつたえ、微笑みをかわす顔々の輝きを送るNTTのテレコミュニケーション。独占的公共企業体の事業サービスよりも開かれた自由な電気通信を求める人びとに、NTT社員が力を尽くして応える時代がやってきたのだ。
 地球をめぐるサテライトが中継する世界の人たちの「ハロー」。宇宙の果ての惑星までも届け! 人びとの歌声。響け! 新しい時代の社歌のはずむ調べ。
 何者か耳元でささやいていうかのように、詩句が湧いてきた。
 ワープロのキーをたたき、吐き出された1枚の紙を手にした私は、それなりの満足を感じていた。一息に書いた詩だが、自分の想いが素直に表わされていると思った。
 第1稿を投函したのは締切日の2日前。翌日は、「つくば万博・NTTパビリオン」の建築工事の完成検査に赴いて宿泊したホテルの室で、第1稿の投函後に気になった箇所のヴァリアントを2篇書き、翌朝、現場事務所の検査打ち合わせの前に更に手を加え、午後、東京に戻ってから投函した。 応募規定で、1人で幾つ出してもよかったのだ。
 締切りの2月28日から、新生NTT誕生の4月1日を経て、3、4月がまたたく間に過ぎた。ほどなく、「歌詞」の選考が、補作詩者岩谷時子さんと作曲者前田憲男さんを交えて進んでいると知った私には、この顔ぶれがとてもうれしく思えた。優等生的なまじめ一辺倒の電電公社時代では考えられない新鮮なセンスを感じたからだ。
 岩谷さんは、私がよく唄っていた越路吹雪さんの数々の歌の訳詩・作詞者として憧れていた方で、前田さんは、高名な編曲者でNHKテレビによく出演されて、しゃれた音づくりをする音楽家だった。
 この素晴らしいコンビならきっと、新生NTTにピッタリの新しい社歌が生まれるだろう。
 佐野元春のアップテンポの『ヤング・ブラッド』を聴きながら書いた詩がお二方のセンスにかなり合っていると感じた私は、いささか、入選の期待を胸に、選考結果の発表を待った。
 5月初めに広報部から、「松本さんが応募された詩が、最優秀賞で新社歌の歌詞に選ばれました」と報せの電話があった。(応募作品は約千8百点)「補作詩の岩谷時子先生の手がかなり加えられていますが、松本さんの詩心は変わっていないと思います」
 その日、広報部から借りたデモテープ(演奏・東京ニューシティー/合唱・東京混声)を家で聴くと、私の詩にない出だしのフレーズが、軽快なテンポで力強く鳴り響いたが、応募した詩の言葉に岩谷さんの言葉が加えられた歌詞は、自分の詩と言えるかどうかと思うほどに変容していた。
 私の詩を素材にして岩谷さんが構成された歌詞の完成度はとても高く、素晴らしかった。
 新生NTTの船出には、五十路に入ったばかりの私をゆさぶるものがあり、その想いをこめた詩の心を大切にしながら、詩情あふれる言葉を補ってくださった岩谷さんに、感謝の気持ちを書いた手紙を出した。
 NTT社歌『日々新しく』の発表があった日の本社講堂で初めてお目にかかった岩谷さんは、「たくさんの応募作品から松本さんの詩を選んだのは、そこに “確かな人生がある ”と感じたからです。ずいぶん手を加えて失礼だったかしら」という意味のことを、ほほえみながら仰った。
 やさしさとあたたかさにあふれる歌詞・訳詩を書かれる岩谷さんらしいお心遣いが、身にしみてありがたかった。
 NTT社歌『日々新しく』は、上条恒彦さんの歌唱指導と前田憲男さんのピアノ伴奏で、発表会参列者の力強く高らかな声が、講堂をゆるがした。
 感動の一瞬に、こみあげてくるものがあった。目の前のステージに立つ上条さんの朗々とした声にさそわれて、私も大きな声で唱和した。
 この歌声は、NTTの全国組織に中継されたが、制定後の現場(電話局等)の始業前に、30万人社員が一斉に唄ったことも、なつかしい思い出だ。

  「日々新しく」
            作  詩 松本文郎
            補作詩 岩谷時子
            作編曲 前田憲男
 
 風の音に 耳をかたむけ
 問いかけるものに 応えよう
 虹を架け虹を跳び 進む自由こそNTT
 かなえよう あなたの希望(ねがい) 
 日々新しく われらは生きて
 たしかな手ごたえ 喜びあおう 
  みんなの想いを支え 力をつくすNTT

 人の声を 結ぶ宇宙に
 かぎりない夢を あずけよう
 過去から未来へと 翔ける翼こそNTT]
 信じよう かがやく光
 日々新しく われらは生きて
 ゆたかな社会を 築いて行こう
 みんなの心をつなぎ、幸せ祈るNTT

 空に響く 愛の言葉
 山川を越えて とどけよう
 励ましとその文字を 送るつとめこそNTT
 高めよう 暮らしの文化
 日々新しく われらは生きて
 無限に役立つ 誇りを持とう
 みんなの地球をめぐり 世界と共にNTT

 
  人びとの心をつなぎ、人びとの仕事を支え、人びとの社会をむすぶ、テレコミュニケーション。人びとの生活、人びとの人生、人びとの幸せと平和にとって、なによりも大切なものは、コミュニケーションではなかろうか。
 世界の人びとがこの地球で、末ながく共に生きる上で果たすテレコミュニケーションの役割は、かぎりなく大きい。
 
 後日、新社歌制作をプロデュースした「電通」主催の「打上げパーティー」に妻のお千代と共に招かれて出席した。
 ビュッフェ・スタイルの気さくな雰囲気の宴会の場に電通側の制作関係者が多く、NTTからは広報部門の人たち数人と私たちだけだった。
 歌詞選考・制作のアーティストとして選ばれた岩谷さんと前田さんは、電通側のお立場と見受けられた。
 電通の担当部門局長の堅苦しい挨拶もなくて、和気藹々に始まったパーティーだったが、驚いたことに、岩谷さんご自身でみつくろわれた料理を盛った皿を、お千代のために運んでくださったのである。
 4年間の海外勤務でパーティーのふるまいには慣れていた私たちよりも、一歩先んじて示された岩谷さんのホスピタリティーに、いたく恐縮し、感激したのも、いまだ忘れられない思い出だ。
 岩谷さんから差しのべられた親しさに甘えた私は、応募詩の想いや詩作の経緯を述べながら歓談させていただいた。締切日が迫った2月最後の日曜日の朝、「社歌に応募する詩はできたんですか」とお千代に訊ねられた食卓を陣取り、佐野元春のリズミカルな曲を聴きながら書いたフレーズに、前田憲男さんが、出だしから3連音符が並ぶピッタリの曲を付けられてほんとうにビックリしていることも、ざっくばらんに話した。紹介された制作関係者の1人、東宝音楽出版(株)社長石川浩司氏には、「社歌らしくない社歌を作ってくれと言われた児島 仁常務の一言でこの歌ができました」「補作された岩谷さんが、この詩しかないといって最後に選ばれたのが松本さんの詩でした」と告げられたのも、うれしかった。
 歓談がはずむなか、私たち夫婦にアテンドしてくれていた電通の人が私たちのテーブルにやってきて、「松本さんはシャンソンがお好きと、NTTの広報部長からうかがいましたが、なにか得意な歌を唄われませんか。前田憲男先生が伴奏してもいいとおっしゃっていますので」と告げた。
 似たようなことが、海外勤務から本社に戻って一年後の近畿電気通信局第一建築部長のときにもあった。報道関係者を招いた恒例暑気払の余興のトップバッターをT通信局長に命じられて、客人の歌をうながす役目で、越路吹雪の十八番『ろくでなし』を披露したのだが、各社の取材記者の方々からヤンヤの喝さいをいただいてしまい、まじめに唄いすぎたと後悔したが、後の祭りだった。
 このときは、電通に招かれた客人としての余興だからと腹をくくり、唄わせてもらうことにした。
 同じテーブルの岩谷さんも、にこにこしながら勧めてくださるので、ほろ酔いも手伝って、「では、岩谷先生訳詩の『サン・トワ・マミー』を唄わせていただきます」と言いながら席を立った。
 電通の人からことの次第を告げられた前田さんは、待ってましたとばかりに、会場のコーナーに置かれたグランドピアノに向かいながら、私を手招きされたのである。
 余興のアナウンスに、あちこちのテーブルでのさんざめきが一瞬、静かになった。
 唄う前に一言と、お招きへの謝辞と長年憧れた岩谷時子さんに捧げる歌を前田憲男さんのピアノで唄う、思いがけない光栄への感謝を述べた。
 若気の至りといえばそれまでだが、よくも恐れ気もなくやってのけたものと、いま想う。
 後で聞いたことだが、人前では絶対に歌を口にしない前田憲男さんが、ピアノを弾きながら私の歌にハモッテいたのは、よほどゴキゲンだったのではないかという。シャイで言葉少ない前田さんのやさしさは、夢中で唄っていた私の耳には聞こえなかったのがザンネンだった。
『サン・トワ・マミー』と『ろくでなし』は岩谷時子さんの名訳で、越路さんのシャンソンの中でも私の大好きな歌である。自分勝手なペースの歌にピッタリ息を合わせてくださる前田憲男さんのピアノ伴奏にのりながら『サン・トワ・マミー』を唄い終えると、いくつかの「アンコール」の声があがった。客人としてどう反応すべきかを一瞬迷ったが、ほろ酔いのアタマの自制心がはたらいて、ピアノの椅子に座ったままの前田さんに会釈し、岩谷さんとお千代がいるテーブルに戻った。
「松本さんの『サン・トワ・マミー』はとてもすてきでしたヨ! 戴いた手紙で感じたままのお人柄がよく出てましたネエ」
「文郎さんも私も、越路さんのシャンソンが大好きなのです」とお千代が云った。
「お手紙にもありましたが、あなた方は中学校の音楽部からの幼馴染だとか。うらやましいほどの仲よしですネエ」
「昭和32年に電電公社建築局に入社した私は、同志社を卒業したお千代が海外関連部局に入社した翌年の秋に結婚しました」
「じゃあ、コーちゃんと内藤法美さんより1年先輩のカップルですよ」と云われた岩谷さんに、「越路さんと内藤さんのご夫妻は、文字通りの鴛鴦カップルですね」とお千代が応じた。
「コーちゃんは歌だけの人に見えるでしょうが、あれで、家事一切を仕切っていて、お掃除は名人レベルですから・・・」
 そのコーちゃんに末期の胃がんが見つかり、手術の甲斐もなく亡くなったのは5年前だ。
 岩谷時子さんと越路吹雪さんとが歌手とマネージャーの関係を超えた深い信頼と愛情の絆で結ばれていたことは、岩谷さんの著書『夢の中に君がいる 越路吹雪メモリアル』(講談社・1999年)や没後の追悼テレビ番組(アーカイブス)でよく分かる。
  
  あのNTT社歌の制作打上げのパーティーから後は、岩谷時子さんと再会する機会はもうなかった。
  コーちゃん亡きあと、『ミス・サイゴン』(ミュージカル)のヒロインを演じた本田美奈子さんの才能を見出したこと、同じ病院に入院したときに互いに励まし合ったエピソードなどは、折々放映されたテレビ番組で拝見してきた。
 6、7年前だったか、岩谷さんに近い方から、帝国ホテルで車椅子の生活をされていると告げられて、お訪ねしてみようかと思ったまま、ついに果たさずじまいとなった。
 打上げパーティーのテーブルでの岩谷時子さんは、「これまで一所けんめい真摯に生きてこられた想いが素直に書かれている松本さんの詩は、人びとの心にとどく訴求力がありますから、これからも、いい詩を書いてくださいネ」と励ましてくださった。その言葉を胸に、非常勤仕事に就いた折の2年間、星野哲郎門下生として歌謡曲の作詞の勉強に通った日本脚本家連盟・作詞教室研究科の古野哲也先生も数年前に亡くなられた。
 レコード大賞・作詩新人賞をもらい、岩谷時子さんの墓前に報告するのは見果てぬ夢か。

添付画像

2013/11/08 14:54 2013/11/08 14:54
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