アラブと私
イラク3千キロの旅(84)
松 本 文 郎
キャブレターのフィルターをクリーニングしたからか、エンジンの調子はよさそうだ。ハンドルを握り、サイドブレーキを緩めながら、「では、これからアッシリア帝国の最盛期の城壁都市ニネヴェに向かいます。ニネヴェのことは、旧約聖書にある叙事詩『ヨナ書』、センナケリブ王のニネヴェ遷都、アッシュール・バニパル王の広大な版図と栄華についてハッサンと一緒にお話しましたから、(71を参照)バッシュモハンデスのチーフには、都城ニネヴェの壮大なイメージができあがっているでしょうね」
「2千年ものアッシリア帝国の歴史の断片だから、いろいろ聞かせてもらったものの、一つの構図を描くのは難しいけど、現地に立って妄想を逞しくするのが楽しみだ」
「これからチグリス川の橋を渡って、しばらく行くと、遺跡群がある小高い遺丘が見えてきます」
軽やかなエンジン音を聴きながら、ニネヴェに立ち寄ったあとのバグダッドまでの行程の無事を想った。
トヨペットクラウンはバグダッドからモースルに入ったときに通った大通りに出た。
「昨日の昼過ぎにモースルに着いてここを走ったとき、10年前の軍事政権内に叛乱が起き、鎮圧のためにカセム首相が命じた空軍爆撃で数千人の血が流れた道と聞いたけど、2千年のアッシリア史最後の疾風怒濤の征服王朝時代でも、刃向う者への容赦ない殺戮と破壊で、古代のいかなる帝国に比べても、その残忍さは類をみなかったようだね」
「古代の帝国は、武力で制圧した土地の敵対する相手を殺戮して、周辺地域をふくむ領土の秩序と平和を維持しましたから、どこでもそうだったのでしょう。現代の革命や内戦でも敵対者への残酷さは同じですね」
「牧師さんやハッサンも言ってたけど、モースルでは少数民族的なクルド人やアシリア人の末裔は、数10年前までは大量殺戮の対象にされたんだ」
「これから向かう遺跡のある地域はクルド人居住者が多く、こちら側のモースル市と近傍には圧倒的にスンナ派アラブ人が居住しています」
「イラクの石油をめぐるスンナ派バース党政権とクルド族の間の紛争には、やはり、歴史・地勢的な背景がありそうだ」
(フセイン政権が化学兵器を使用したクルド人の大量虐殺もそうした流れなのか? 筆者注)
二つの地域を結ぶ橋を渡った私たちはニネヴェ遺跡の丘をめざして走っている。よく晴れた空は青く、雲一つない。遺跡を見張らす場所に立ったときの栄華を極めた帝都のイメージを掻き立てるBGMに、イラクの古いアラブ音楽のテープを入れたポータブル・カセットデッキのボタンを押した。
歴史に刻まれた残忍さで版図を拡大しニネヴェに帝都を築いて、何代にもわたり城壁都市を拡大建設したアッシリア帝国の武人諸王は、残忍さの一方で、古典に憧れ、美を愛し、それらを子孫に伝えようとしたことも忘れてはならない。
紀元前7世紀、これから訪れるクンジュクの丘にアッシュール・バニパル王が建設した図書館から発掘された遺物に、粘土板に書かれた王室の記録、年代記、神話、宗教文書、契約書、王室による許可書、法令、手紙、行政文書が発見された。
粘土板の文書には、アッシュール・ナシルパル軍団が砂漠や山岳を越えて進軍し、紀元前859年のある日、落日の地中海に達したと記録されている。
この王の名を不朽にしたのは、現在のニムルドの新王都カルフの造営である。(筆者注・粘土板に新王都落成の豪勢な祝宴模様が記録されている。71を参照)
図書館を設立したアッシュール・バニパルは、バビロンの王を打ち破ってアッシリア帝国の最後から2番目の王位についたが、その時代の帝国版図は、かつて、どの帝王も治めたことのない広大さを誇り、イラン高原から小アジア、さらにナイルの谷にまで及んだという。バビロニア文明に憧憬を抱いていたとみられる王は文学や美術の造詣が深く、図書館には、王の号令で集められた津々浦々の粘土板文書があふれ、後世の学者の楔形文字解読やシュメール文明を知るための貴重な資料を残した。
図書館跡を発掘したオースティン・レイヤードは、焦げた粘土板が通路や川岸に散乱しているのを見出した。これは、紀元前629年に王が世を去ってから、勢力を盛り返しつつあったバビロンとイラン高原の新興国メディアとが盟約を結び、北方のスキタイ軍を加えてニネヴェに襲いかかって陥落させ、破壊と略奪のかぎりを尽くしたとき、王宮が炎上して、チグリスへ逃げたからとされる。
旧約聖書『ナホム書』には、ニネヴェの滅びを告げる預言とアッシリアからユダヤ人を解放した神への詩が書かれている。(71の引用参照)
「エホバに敵対する力ある狩人ニムロデによって創建されたアッシリアの都市が次第に大きな都市を構成し、ずっと後代にアッシリアの首都になった」「アッシリア人が幾多の征服戦争をして捕虜の戦士を残酷な方法で殺戮し、略奪などの軍事行動がニネヴェの富を増やした」「この『流血の都市』の主神は愛と戦いの女神イシュタルだった」などとある。
「あと数分で着く遺跡の大地にはクンジュクとネビ・ユヌスの二つの丘がありますが、ネビ・ユヌスの方はイスラム教の聖地となっていますので、ニネヴェに関する現代知識は、19世紀半ばから繰り返されたクンジュクの丘の発掘調査に拠っているのです」
「京大の西洋史(『京大西洋史』は名著・愛読書)の講義では、この辺りは、紀元前7千年紀から人が居住を始めたとても古い土地だと聴いた」
「バグダッド工科大学の古代史の講義では、ここに、新石器時代の痕跡があると聴きました」
「メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテス両河に囲まれた三日月地帯に栄えたといわれるが、このかなり北の大地の方がずっと古いんだね」
行く手の小高い丘に、イスラム教寺院のミナレットが見えてきた。
「あれがネビ・ユヌスの丘で、尖塔が立っているのは、『ヨナ書』を書いた預言者ヨナの墳墓の上に建てられ石造の美しいモスクで、城壁で囲まれています」
「じゃあ、その北にある丘がクンジュクなの?」
「はい。あそこがアッシリアの王城跡で、南西に、最初に帝都を建設した王のセンナケリブ宮殿、北に、アッシュール・バニパル宮殿があります」
ユーセフの説明では、「並び立つものなき巨大な宮殿」と王が呼んだセンナケブリ宮殿の建設には九年を要し、庭園に水を引くために何マイルもの運河をつくり、宮殿内にはアルキメデスの回転翼で水を引きこんだという。
これはまるで、バビロンの空中庭園のようではないか。
「バビロン」は、紀元前6百年代の新バビロニア王国の首都で、ネブカドネザル2世大王の最盛期の繁栄のなかで建設された由来(ユーセフが工科大学で学んだ概略)を(24)の末尾で記述した。センナケブリ宮殿とバビロンの空中庭園の水利技術が似ているとは・・・。
「バビロンの空中庭園も考古学的な遺跡は残っていないようだから、バビロンとニネヴェのいずれにあったのか、両方にあったのか、とても興味深い歴史物語だね」
「工科大学でイラクの土木技術史を講義した教師も、誇らしげにそう言ってました」
「年代順では、アッシリア帝国が滅ぼされたのが紀元前612年、「バビロン」はニネヴェを落としたネブカドネザル王が建設したので、この見事な水利技術を戦利品として移転したとみるのが妥当じゃないかな」
ユーセフが車をとめたのは二つの丘のパノラマをかなり近くに展望する広い荒野の堤だった。
所どころ草木が生えているだけで、ほとんどが淡い褐色のひろがりの野原を、延々と囲んでいる堤が城壁の跡という。
その中で2千年に及ぶ代々の諸王のアッシリア帝国が、かぎりない権勢と栄華を誇ったのだ。
「チーフ。ニネヴェは、ごらんのような荒野と長い堤に囲われた小高い丘の連なりが残る遺跡です。バグダッドで仕事をしている工科大学時代の友人の話では、バース党政権は、伝統的な文化の継承や遺跡の調査・復旧に力をいれるそうですから、10年もすれば、クンジュクの丘の王城跡に、門、城壁、宮殿、図書館、ひょっとして空中庭園などが再現するかもしれません。今日はバグダッドへひたすら突っ走らねばなりませんから、ここから展望するランドスケープを脳裏に焼きつけ、最盛期の首都ニネヴェを自在にイメージされながら、バグダッドに戻りませんか」
「オーケー! ボクも、崩れた日干し煉瓦の堆積を見てガッカリするより、その方がいいと思うよ。ところで、チグリスの護岸工事でモースルにいたキミは、この遺跡を訪れたことはあるのかい」
「ナビ・ユニスには、モースルで仕事をしたころの巡礼月の祭日に訪れました。日当たりのいい丘の斜面に腰かけて、遠くまで広がる荒野、眼下のチグリス、川向うのモースルの街など眺めていると、周りに多勢の人が家族づれでやってきました。つつましく見える女性の黒いアバイヤ(外衣)が時折の風にあおられ、朱や金色の装飾がのぞいた艶やかさにドキッとしたのをまだ憶えています」
モスレムの聖地ナビ・ユニスにはたくさんの墓があるから、巡礼月の祭日は、日本のお盆やお彼岸のように家族で墓参りをするのかと想像した。
クンジュクのセナケリブとアッシュール・バニパル二つの宮殿については、ウィキペディアに、オースティン・レイヤード『ニネヴェとその遺跡』の部分訳が掲載されているで、読者のイメージの手がかりに再掲させてもらう。(省略引用は筆者)
「アッシリアの宮殿の内部は堂々たるものであると同時に壮麗であったに違いない。その廃墟の概要については既に述べたので、その幾つもの広間が、アッシリア王の居城に初めて入る人にどんな印象を与えるよう目論まれていたかについて判断できるだろう。白い雪花石膏の巨大なライオンか雄牛に守られた玄関を通って、最初の広間に入ると、その周囲に彫刻で綴られた帝国の記録があるのに気づく。戦闘、攻囲、勝利、追撃の偉業、宗教儀式などの様子が、雪花石膏に彫刻され、豪華な彩色を施されて壁に描かれていた。それぞれの浮彫には、描かれている情景の説明の碑文が輝く銅の文字で埋めこまれていた。それらの浮彫の上には、王が宦官や戦士たちにかしずかれ、捕虜を受け入れたり、他の君主たちと同盟を結んだり、なにかの神聖な務めを遂行している様子も描かれていた。それらは趣向を凝らした優美なデザインの彩り豊かな縁で飾られていた。特に目につくのは、象徴的な木、翼のある雄牛、怪異な動物たちだった。その広間の奥には、最高の神を崇拝して捧げているのか、あるいは、宦官から聖なる杯を受けとっている王の巨大な姿が描かれていた。王には、彼の武具を携える戦士たち、祭司たち、主宰の神々が付き添っていた。王と従者らが着ている長衣には、人の群れ、動物、花の装飾が施されており、すべては鮮やかな色で描かれていた。来訪者は、雪花石膏の床を踏みしめて進んだが、床には偉大な王の称号、系図、業績を記した銘刻があり、その広間には、翼のある巨大なライオンか雄牛、守護神の像で形づくられた出入口がいくつかあって他の部屋に通じ、その先はさらに奥の広間となっていた。すべての広間の壁には、行進する巨大な人物像(王に従う武装した侍者、宦官、分捕り品を担ぎ、捕虜を引き連れ、神々への供物を背負った戦士たち、聖なる木々の前に立つ翼のある祭司、主宰の神々など)が、浮彫りで描かれていた」
「頭上の天井は正方形の区画に仕切られ、それぞれの区画には花や動物の姿が描かれ、象嵌を施した区画もあった。すべての区画は、優美な廻縁で囲まれていた。梁や部屋の壁は金銀の箔・板金で覆われていたかもしれない。木工品には、珍重する木材が用いられ、目立つのは杉である。天井の正方形の開口部からは昼光が射しこむようになっていた」(『ニネヴェとその遺跡』第2部・207―209ページ・1856年)
同じウイキペディアの『ヨナ書』に関する記述もあるので、これも引用させていただく。
「(ニネヴェ陥落の)預言は、バビロンの王・ナボポラッサルとメディアの王・キャクサレスの連合軍がニネヴェを包囲して攻めとったとき成就した。同市は火で焼かれたようで、アッシリアの多くの浮彫り(レリーフ)は火と煙で損なわれ、汚れていた。バビロニアの年代記に、ニネヴェは夥しい戦利品が運び去られて廃墟の山と化したと書かれている。ニネヴェは、2千数百年の今日まで荒れ果てたままだが、クンジュク丘やの周辺では、春になると家畜の群れが荒れ地に萌えた草をはむ」
ナビ・ユニス・クンジュク二つの丘のパノラマを眺めて妄想にふけっていた私が、「そろそろ出発しましょうか」とユーセフに促され、ふと見下ろした堤の先に、アネモネの一群が咲いていた。
(続く)