アラブと私
イラク3千キロの旅(86)

                   松 本 文 郎 

(おことわり)
 新年初めての寄稿となりましたのは、大晦日に妻が右手首を骨折し、入院・手術・退院のあと、身辺介助と主夫の仕事で時間がなかったからです。
リハビリ通院中の経過順調で、筆をとる気持ちがもてるようになりましたので再開します。これからも、ご高覧くだされば幸いです。

(前承)
「シュメール神話の最大の特徴が『天地創造神話』で、その神々が、「天空神」ほか数百もいるとは、まさに、日本の《八百万の神々》に通じるね」
「その八百万の神々について話してくださいませんか」
エンジンの調子が戻ったトヨペットクラウンを百キロ以上で飛ばしている真剣な横顔を見ながら、少年時代からシュメールやギリシャの神話に親しんできたユーセフに、日本の宗教の原点の「神道」について、知っているかぎりを伝えたくなった。
「前にも話したけど、日本の神話の神々も、中東・オリエントの多神教的な神々のように、人間と同じ姿をした「人格神」がたくさんいてね、それらは人々に恩恵を与える守護神だけど、祟る一面もあって、とても畏れられたんだよ」
「アネモネ伝説の女神アプロディーテなどと同じですね」
「日本の宗教の原点とされる《神道》の神々は、自然物や自然現象を畏れて神格化したものだよ。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動植物や火、雨、風、雷の中に、神々しい何かを感じとったのさ」
「人類の宗教心の始りは、みんな同じですねえ。洞窟で戦々恐々と暮らしていた原始人が言葉をもつ前から、自然の脅威と恵みに対して感じたのが、超越的な存在としての《神》だったと」
「そうなんだ。初めは1人の人間か、せいぜい家族にとっての神々だったけど、群れや集落にとっての守護神になり、しだいに、強力な権力者の守護神になっていった」
「自然は人間に恩恵をもたらし、時には危害を及ぼすので、これを、古代人は神々しい何かの怒り(祟り」と感じて、怒りを鎮め、恵みを与えられるように祈り、崇敬するようになったのが、《神》と呼ばれるものですね」
「世界4大文明の一つ《メソポタミア文明》のシュメールの神々が中東・オリエントの最初の《神》で、後代に、ヘブライ人(ユダヤ・イスラエル人)の神・ヤハゥエを生み、更に、イエスの神、イスラムのアッラーが生じ、どれも根っこは一つなんだね」
 ウィキペディアの『メソポタミア、シュメールの神話』(小澤克彦・岐阜大学名誉教授)から省略援用をさせていただく。
・シュメール神話の最大の特徴は、「天地創造と人間の創造」とされ、「天地創造」では、最初に「天」「大地」が、次いで「チグリス「
ユーフラテス」が造られた。
・天には「天神アヌス」「大気の神エンリル」「太陽神ウトゥ」「大地と水に神エンキ」がいた。
・神々は相談して、「神々に仕えるものとして人間を造ろう」と「女神アルル」に造らせ、そこへ「穀物と知恵の神ニバダ」を送った。
・「神々に仕えるものとして創造した人間」の話は、「アダムとイヴ」が「禁断の木の実(知恵)を 食べて地上に追放された」物語そのままだ。

「シュメールの自然神が、唯一無二の《神》になっていく過程には、文明の発達と共に、《神》を守護神とした絶大な王権力もありましたね」
「そして、旧約聖書《天地創造》で、万物の創造主・主宰者としての《全能の神》が出現した」
「日本の《神道》の神々は、万物の創造主としての存在にならなかったのですか」
「日本の民間信仰では、中国から渡来した仏教の仏と、自然を崇拝・信仰する原始宗教的イメージの八百万の神々を一緒に祀ることが、明治の初めまでつづいていたんだ」
 少年ユーセフがメソポタミア・ギリシャ神話に親しんだように、「古事記」「日本書紀」を読んでいた私には、八百万の神々を身近に感じていても、歴代の天皇が人間ではなく《現人神》(生きた神様)とは、子供心にも信じられなかった。ユーセフの熱心な質問に応えていると、戦争中に喧伝された「神国日本」「現人神天皇」「撃ちてしやまん鬼畜米英」などの苦々しいプロパガンダが思い出された。
「日本が第2次世界大戦で欧米列強(キリスト教国)と戦ったとき、1億国民は、現人神・天皇が統治する《神国日本》は絶対に敗けないと、耳にタコができるほど吹き込まれたんだよ」
「そんな天皇の神格化は、いつごろから始まったのでしょうか?」
「うん、大学生で読んだ日本近代史に、西洋近代の科学技術が導入された明治初期、江戸時代後期の国学者の平田篤胤(1176―1843。神道家・思想家・医師)が唱えた《復古神道》の皇室祭儀から、《万物の創造主・主宰者の全能の天皇》という観念が生まれと書かれていた。祭政一致をスローガンにした明治政府が、《神道》を国教にしようとした国家主義的政策だったようだ。今に思うと馬鹿げたことだけど、廃仏毀釈という仏教排斥運動まで起き、日本の貴重な文化遺産としての経堂・仏像・経文の多くが各地で廃棄されたんだ」
「日本の古代国家では仏教が国教だったのではないですか?」
「国家安全の守護のために国分寺を各地に建てた奈良時代から、日本古来の神々と外来の仏教とを結びつけた《神仏習合》という信仰があったんだ」
「それなのになぜ、神道を国教にする動きが生まれたのでしょうか」
「徳川幕府の長い鎖国から目覚める契機になった西洋列強からの開国要求がきっかけではなかろうか。〈開国〉か〈攘夷〉かで、国論が二分した明治維新前後の風雲急を告げる機運の中の攘夷派は、儒教・仏教の影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想を抱き、平田篤胤の復古神道を、欧米列強に拮抗する頼りにしたんだ」
「復古神道では、天皇をキリストのような神の子としているのですか?」
 矢つぎばやに問いかけるユーセフの好奇心に、戦争中の《国家神道》の胡散臭さに辟易していた私も、たじたじだった。
「日本神話の古事記に書かれている《造化三神》(根源神)の分霊が宿る神武天皇からの万世一系の天皇は、すべて《神》だとする神学の説だ」
「クリスチャンの私は、キリストを神だと信じていませんが、戦争中の日本の人たちは天皇を神と信じていたのですか?」
「微妙なところだね。優れた近代科学技術・社会制度をもつ欧米のキリスト信者が、ローマ帝国の権力に殺されたキリストを神の子と信じているのと同じ人たちもいたけど、《天皇機関説》を唱えた学者と同じ考えの人も少なくなかったよ」
「天皇の神格化」は、国粋主義・軍国主義の国家権力が国民統合を眼目に創出して、《八紘一宇》と似たロマンを国民にふり撒いたものとされている。
「天皇は、自分を《現人神》と思っていたのでしょうか?」
「さあね。無謀な戦争の敗戦を迎えたとき、天皇自らに《朕は人間である》と告げられて、一億国民はビックリ仰天したんだ」
 一息つこうと、疾走する車の左右を見わたしている私に、ユーセフが告げた。
「昼までには、小さな町バイジに着きますから、トイレ休憩をしてなにか食べましょう。そこから、ティクリート、サーマッラーの町を経て、アハラムが待つバグダッドへノン・ストップですよ!」
「ユーセフ。アッシュール遺跡があるエリアまでは居眠りしないけど、まだだいぶあるのだろうか」
「そう、まだ50キロほどでしょうか。この国道からかなり離れた岩の丘陵の上ですから、あの辺りという感じで眺めるだけです。お疲れでしたら、居眠りをどうぞ」
 そう云われると、ニネヴェの遺跡を展望して車に戻ったときは、確かに眠さを感じていた。昨夜、ユーセフと語り合った後ベッドに入ってからも、CIAや日本の石油問題などを考えて、なかなか寝つけなかったからだ。
 だが、ユーセフとメソポタミアと日本の神話について語り合っているうちに、太平洋戦争時代のアレヤコレヤの記憶がまざまざと甦り、いつの間にか眠気は消えていた。
 歴史・風土・文化・気候が対照的に異なる土地に生まれ育ったイラクのエンジニアが、別世界の日本に強い関心をもち、きわめて的確な質問を投げかけるのに驚き、うれしく思った。それにしても、メソポタミアの長い歴史に興亡を繰り返した王国・帝国の支配者らと、神武天皇(神話の人物)から2千6百余年にわたり、日本国を統治してきた万世一系の「天皇」との圧倒的な違いを、ユーセフは理解できたのだろうか。
 狂信的ともいえる天皇崇拝者や国民統合の象徴として「神」に祀り上げた国粋主義者の天皇史観は別として、「天皇家」の歴史は、部族の長(おさ)として自ら統治した地代は短くて、貴族・武士という実質的な国家統治者の冠(象徴)として機能していたのだ。
 それを近代的な法理論で明確にしたのが、美濃部達吉らの学者が主張した「天皇機関説」だった。
 この学説は、1900―1935年頃までの30年余にわたって憲法学の通説とされ、日本の政治運営の基礎的理論だったのだ。
 憲法学者の宮沢俊義のまとめによれば、「国家学説のうち、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は法人たる日本国家の機関だということになる」(宮沢俊義『天皇機関説事件』(上)・有斐閣)」
 ウィキペディアの「天皇機関説」では、「大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルグ・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立する」
 大日本帝国憲法の解釈は、当初、穂積八束(東京帝国大学教授)らによる「天皇主権説」が支配的で、藩閥政治家による専制的な支配構造を理論面で支えたが、究極のところ、天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味している。
 これに対し、一木喜徳郎(東京帝大教授)は、統治権は国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものとする「天皇機関説」を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。
 この説は、国家最高機関の天皇の権限を尊重するもので、日清戦争後の政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用されたが、日露戦争後は、一木の弟子・美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。
 つまり、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた美濃部の説は、政党政治に理論的な基礎を与えた。
 その理論構成は、
1.国家は一つの団体で法律上の人格を持つ
2.統治権は法人たる国家に属する権利である
3.国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である
4.統治権を行う最高決定権は、天皇に属する
5.最高機関の組織の異同によって政体の区別が生まれる
 辛亥革命後には、穂積の弟子・上杉と美濃部の間で論争が起きた。共に王道的統治を説くものの、上杉が、天皇と国家を同一視し、「天皇は天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」としたのに対し、美濃部は、「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためにするのではない」と説いた。
「天皇主権説」が、統治権は国家ではなく天皇に属すると主張したのに対し、美濃部達吉は、統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとしたのである。
 この論争後、佐々木惣一(京都帝国大学教授)もほぼ同様の説を唱え、美濃部の「天皇機関説」は学界の通説となり、「民本主義」と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、1920年代から1930年代前半にかけては、国家公認の憲法学説となった。
 この時期、摂政だった昭和天皇は、「天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。だが、1932年(昭和7年)の5.15事件から3年後、「天皇機関説事件」が起きたのである。                                       (続く)



添付画像
明治神宮より

2014/03/20 19:05 2014/03/20 19:05
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  1. 名無しのリーク 2017/01/09 19:07  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

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  2. 名無しのリーク 2017/01/09 19:08  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

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